「憂鬱だなぁ」口に出してみると余計に嫌な気持ちになって、夏彦は空を見上げる。

 家を出て学校に向かったのはいいものの、学校に近づけば近づくほど傷口が痛み、昨日の恐怖を呼び起こす。歩みは段々と遅くなり、やがて止まると、近くのベンチに座ってしまった。

 そこに座ることそのものが悪いことをしているようで、言い表せないような高揚感があったが、ベンチから立ち上がることが出来ずに、気が付けばどれだけここにいたのかわからない程、長い時間座っていたように感じる。

 もしかしたら自分は石像になってしまって、その合間に世界は自分を置いて何百年も過ぎてしまったのではないかと不安になり、夏彦は弱々しく両手を動かしてみる。

 安心したためか、長い溜息をついてもう一度空を見上げる。空は夏彦の気持ちなど全く汲みとらずに雲一つない青空を広げている。

 どこからか「私のあげた勇気はどこにやったんだよ?」と朱里の声が聞こえた気がした。当然、朱里も学校に行ってる時間だったから、ここにはいるわけはないのだが、いかにも朱里が言いそうなことだっため、実際に隣にいるような気持ちになる。

 握った拳を額の上に置く。日差しにあたって熱い頭部をひんやりと冷やしてくれて心地が良い。

「君、学校は?」驚いて前を見ると、ひとりの男が立っていた。

 男は紺色のスーツを着ていて、清潔感にあふれていたが、丸いどんぐりを思わせる指や、風船のように膨らんだ腹部、そしてなにより夏彦の何倍もの大きさの図体をしているにも関わらず、恐ろしさのようなものがなく、大きな亀を思わせた。

「ちょっとお腹が痛くなっちゃったから一休みしてたんだ」咄嗟に口をついて出た言葉に、これでは本当の嘘つきではないかと落胆する。

「一休みか。それじゃあおじさんも一休みするかな」亀男は大きな体を揺さぶるように歩いて、夏彦の隣に座る。対して勢いが良かったわけでもないが、木製のベンチがミシミシと悲鳴を上げるのが聞こえる。

 公園の周りを取り囲む木からムクドリが群れで飛びだった。

「君は嘘をついたことがあるかい?」亀男の声がする。夏彦は自分が話しかけられたのかと思い、隣を見るが、亀男はさっきの夏彦のように空を見上げている。

「おじさんはあるよ。一杯嘘をついた。でもそれは今思えば必要なことだったんだ」

「大人はいろいろあるんでしょ?」朱里ちゃんが言ってた、と夏彦は自慢げに言う。

「そうだな。大人になるといろいろあるんだ。そうしているうちに何が嘘かわかんなくなっちゃうことがあるんだよ」

 夏彦は亀男が何の話をしているのか理解することが出来ない。ぼんやりと宙を見つめて話す亀男が自分と同じ憂鬱なのではないかと思う。

「おじさん。憂鬱なの?」

「君は難しい言葉を知っているね」

「僕も憂鬱だからね。おじさんと仲間だよ」仲間という言葉を夏彦は心地よく感じる。仲間がいるだけで自分が強くなった気になる。なにより自分の隣のおじさんは黙っていればとても強そうだからきっと木島たちも自分にちょっかいを出してこなくなるんじゃないだろうかと思う。

「仲間か。それは心強い。君みたいな仲間がいればおじさん頑張れる気がするよ」

 亀男が優しく笑う。夏彦は急に自分だけ置いて行かれた気分になって悲しくなる。待ってよ。自分だけ勝手に元気にならないでよ。と訴えたくなる。

「おじさんはなんで憂鬱なの?」

 亀男が気まずそうにこめかみを掻いている。夏彦は大人を自分がコントロールしているような気がしてうれしくなる。

「おじさんはこれから戦わなきゃいけないんだ」

「相手は悪い人?」

「たぶんね。悪くて強い人だ」

「百億円もってるくらいに?」夏彦の言葉に亀男は、はっとする。

「そうだね。それくらい持っててもおかしくない」それは飛んでもなく悪い奴だな。と夏彦は思う。

ところで、と亀男は続ける。

「君はなんで憂鬱なんだい?」

 夏彦は背負っているランドセルの紐を強く握る。勇気を出せ。朱里の声が聞こえる。夏彦はなんだか情けなく思えて口をつぐむ。

「いろいろあるんです。子どもにも」やっと絞り出した言葉だった。「大人じゃわからないことがいろいろあって、それで悩む事だってあるんです」

 それは夏彦がいつも思っていたことだった。先生や親は結局、子どもがどんな気持ちで過ごしているかなんてわかりっこないのだ。父親の姿がどれだけ自分にみじめな思いをさせているのかすら当の本人がわかることはない。子どもには子どもの苦しみがあるのだ。それはきっと隣に座る亀男も例外ではないように思えた。

「そりゃあそうだよな。でも私に話してくれればどうにかなるかも」

「ならないよ。おじさんは強くて悪い奴と戦うんだろうけど、僕だって強くて悪い奴らと戦わなきゃいけないんだ」百億円はもってないけど。と付け足す。

「それは、なんていうか、大変だな」亀男は両肘を膝について、わかりやすく落胆する。

 夏彦にはなぜこんなにも落ち込んでいるのか、わからなかった。そのことで何か困ることはないと思ったし、実際に困ることはなかったから、これ以上、他人について考えるのはやめようと思ってベンチから立ち上がる。今はそれどころではない。

 立ち上がったはいいが、今から学校に向かう気にはなれなかった。かといって家に帰る気にもなれず、結局なぜ自分が立ち上がったのかすらわからなくなってしまう。

 朱里に昨晩もらった勇気も宝の持ち腐れと言わんばかりだ。

 ふと、いらないものならあげてしまおうと思いついて、右手の拳を強く握って、未だにうつむいている亀男に向かって差し出す。

 亀男はうつむいたまま動かない。

「おじさん。僕は持っててもしょうがないからあげるよ」

 頭を上げた亀男の顔は先ほどまでのツヤのある中年の顔とは思えない程やつれている。きっとその悪い人と戦うのは考えるだけで嫌な物なのだろう。自分にとっての木島や悠馬君と同じだと感じる。

 亀男の両手が震えるように前に出る。太い指が必死に隙間を埋めて、まるで恵のわずかな雫を取りこぼさないように見える。

「おじさん、違うよ」夏彦はもう一度右手を前に伸ばす。

 亀男は自分の手に視線を落とす。ゆっくりと握られた彼の拳はまるで岩のようで、それだけで力強く感じる。

 夏彦は昨晩の朱里が自分にそうしてくれたように自分の拳を亀男の拳に合わせて、思い切り押し込む。朱里がくれたものを自分の中で消費して消えてしまう前に、この亀男に渡して有効活用してもらえればいいと思う。

 体の中にある何かが拳を伝わって向かいに座る亀男に流れていくように感じる。同時にいやな気持も悩みもすべて吸い取ってくれればいいのにと、その苛立ちをぶつけるように拳に力を込める。

「これは?」亀男は拳を引いて手を開くが、そこには何もない。

「勇気だよ。昨日朱里ちゃんからもらったんだけど、僕には使えないからさ。おじさんにあげるよ」あまりの恥ずかしさに顔が熱くなるのがわかる。こんな恥ずかしいことをこともなげに言い放った朱里はすごいと感じる。

 亀男は何のことかわからず、口をあんぐりと開けたまま夏彦をまっすぐ見つめる。やがて、子どもの間で流行るおまじないか何かと思ったのか、勢いよく立ち上がると、大きく太い両腕を空に向けて思いっきり伸ばす。熊のような咆哮が空に響いた。

「どうもありがとう。君のおかげで私は勇気が湧いてきた。これならだれにも負けない」

 亀男の笑顔は豪快で見ているこちらも、気持ち良い。つられて夏彦も笑ってしまう。

 感慨深さも賑やかさもない。昼下がりの団地の広場に甲高い少年の笑い声と野太い中年男の笑い声が混ざりあう。

「おじさん。こんなの子どもだましだよ」

「そんなことはない。要は気の持ちようだよ。君がこれをどう思っているのかわからないが、私は間違いなく君から勇気を受け取った」

「でも朱里ちゃんも言ってたよ。子供だましだって」

「朱里ちゃんはきっと恥ずかしかったんだよ。人を元気づけるのはいつだってくすぐったいものだよ。それに……」

「それに?」

 亀男が先ほどまでの暗さが嘘のように笑顔を夏彦に向ける。

「私は市長だからね。市長は市民の応援があれば最強なんだよ」

「シチョウ? おじさんはシチョウなの?」夏彦にはまだシチョウがなんであるのかわからない。それでも何かすごい人だということだけは理解が出来た。

 亀男はふんっ! と気合の入った声を出すと。意気揚々と歩き始める。

「少年、学校に行きなさい。そして先生に頼んでテレビを観なさい。そこで見せてあげよう正義は勝つんだ!」

 亀男は歩きだす。快晴の空のように快活な笑い声をあげながら歩いていく。俺は怖くなんかないぞ! 強いんだぞ! と虚勢を張っているように見えなくもなかったが、小学生の夏彦にそこまで理解することはできない。

 夏彦は、やはり学校まで行ってみようかと思う。あの亀男の言ったように先生に頼んでテレビをつけてもらおう。そうすれば、僕の譲った勇気がちゃんと仕事をしたか確認することが出来る。朱里ちゃんに勇気の行方を聞かれたときの準備にもなるだろう。それは木島や悠馬君に逆らうことよりきっと簡単だ。

 もしかしたらあの亀男が仲間のピンチに駆けつけてくれるかもしれない。夏彦は不安な気持ちをかき消すように、シチョウとはそういうものだと思うことにした。

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