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車の発進はいつもに比べて少し乱雑に思えた。市役所の門を通り過ぎながら小河原は窓越しに役所を見上げる。いくつかの窓からは未だ明かりがこぼれていて、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「いつも悪いな」小河原は決して聞こえはしない役所に残る部下に向けたのか、それとも運転席の男になのか、自分でもよくわからないまま言う。
運転席の男は黙ったまま帽子を整える。
「俺はどうすればいいんだろうな?」小河原の声は偶然近くを通り過ぎて行った救急車にかき消される。
いつもより少し荒い運転の車は無言のまま進む。まるでここ数日の会話なんてなかったかのように静かな車は無遠慮に小河原の家に近づいていく。
「お客様、大変申し上げにくいのですが、私がこうしてお客様をお送りできるのも今日で最後かもしれません」いくつ目かの信号で止まった時、運転席の男がなんの前触れもなく言った。声は震えていた。
小河原も震えた声で返事をする。
「それはちょうどよかった。私もあなたにこうやって送ってもらえるのが今日で最後になるかもしれなかったんです」最後まで言い終えてからすぐに小河原は頭を振りながら続けた。「別にあなたが悪いとかそういうわけではないんです。ただなんというか、こうして送ってもらう必要がなくなるというか、その権限すらなくなるかもしれないんです」
「少しだけ寄り道しても?」運転席の男がいつもなら右折レーンに入る道をまっすぐ進む。
「構わないよ」
車はビルの立ち並ぶ大通りから細い道に入っていく。一昔前まで個人商店や小さな工場であふれていた町並みの中にある青い看板のコンビニエンスストアまで来るとエンジンが止まる。
小河原は瞼を閉じて上を見上げる。真っ暗な世界が広がり、そこに佐藤が立っている。親の仇を見るような目でこちらを睨み。思いつく限りの糾弾をしている。これはただの想像だろうか。それにしては嫌にリアルな妄想に思える。
十数分前に役所を出る前のことを脳内で再生する。
大きな会議室に佐藤と二人でいた。小河原と佐藤は少し離れた席に腰かけている。
「小河原先生。覚悟はお決まりになりましたか?」
「覚悟? 何の?」小河原も佐藤も何もない机の上を見つめている。
「真実を話すための覚悟です」当然じゃないですかとも言う。
「それは」それはどっちの意味での真実だ? と聞きたくなる。が、すぐにその質問には何の意味もないことに気が付く。あの男も言っていたではないか。真実という言葉程信用が出来ないものはない。と。
「三日後という期限をお決めになったのは先生です。どうされるおつもりですか?」そこにはいつもの狡猾さもずるがしこさのようないやらしさもない。ただ冷静に、当たり前のように相手を追い詰めるような圧力だが小河原の口を重くする。
「明日、正式にコメントを出す。会見は1時からでいいだろう。用意してくれ」本当にそれでいいのか? と自分の中で自分に問いただす。答えはない。心の中にあるのはもやもやとした悩みの固まりだけだ。
「橋本先生は先生に多大な期待をされています。それは私からでもわかるほどです。橋本先生はそこいらの政治家とは違います。私はこういう時にそういうお方を守れる人が人の上に立つべきだと思います」
「しかし、それでは何のために私はいるのだ?」
「先生。これは正義です。人は他人の罪を追求するだけの者についてきません。しかし、どうでしょう。私たちの行動で橋本先生という正義を守れるなら、たとえその行為が本来は違法行為であったとしてもそれは正義なのです。その人の行いで人を救うことは正義です」
小河原は両肘を机について、重くなった自分の頭を支える。
「むちゃくちゃだ」
「むちゃくちゃでもなんでもやらなければならないのです」佐藤も気づけば両手で頭を抱えている。
「私は先生を、小河原鉄二をまだ終わらせたくないんです。それだけはわかってください」
「わかったよ」喉が擦れて声にならない声が微かに響いた。小河原を何か縛られたような拘束感が襲う。
佐藤が会議室を出て行く。
「どちらにせよ。市民を裏切った市長に先はない」佐藤の耳に小河原の声は届かない。
だだっ広い部屋には醜く肥えた小河原市長の姿だけが残っていた。
コンコンと乾いた音が小河原の鼓膜を揺らす。音のする方へ視線を向けると運転席にいた男がコンビニエンスストアから金色の缶コーヒーを手にして戻ってきたところだった。
小河原はドアを開いて外に出る。生暖かい風が頬をなでるようにして吹き去って行く。
「こんなものしかありませんが、よろしかったらどうぞ」差し出された缶コーヒーはひんやりと冷たい。小河原の手から体温が缶コーヒーへと奪われていくのがわかる。
「あなたはどうして今日までなんですか?」缶コーヒーをこんなにも落ちついて飲むのはどれくらいぶりだろうかと思う。
思えば橋本と出会ってからと言うものの、今の世界で生き残るために必死で走ってきたから、誰の目も気にせずに息を抜くことなどあまりなかったのだ。
「一昨日、初めてお客様をお送りした日、お話してしまったことがばれてしまったんです」運転席にいた男は恥ずかしそうに鼻の頭を掻く。
「それはどうしてまた?」不思議であるというより不気味に感じた。あの車には自分とこの男しかいなかったはずだと、もうかすみに包まれてしまったような記憶を手探りで思い出す。
「人って他の人が出来ないような体験をすると、思わず他の人に自慢したくなっちゃうんですよね」
何とも間抜けな答えに小河原は吹き出してしまう。
「自業自得だな」缶コーヒーをすする。
「そうなんです。自業自得なんです。でもまぁこれもいいかなって思うんです」運転席にいた男も缶コーヒーをすする。
「どうしてです? 高いんでしょう? この仕事」競争率も給料も。小河原は心の中だけで言う。
「市長とお話する機会なんて中々ないですし、これも貴重な体験というか。なんにせよ、子どもに自慢もできますよ」
「そいつは良かった。話をするだけで光栄に思ってもらえるのは市長冥利に尽きる」
中途半端に栄えた都市の夜空は汚い。見える星も数少なく。これが人々を不安にする元凶ではないかと小河原は考える。
「短い間でしたがありがとうございました」運転席にいた男が軽い会釈をする。
「いえ、こちらこそ。頼りない市長で申し訳なかった」小河原は同じように会釈を返す。
「それでは行きましょうか。足止めしてしまい申し訳ありません」男は運転席に戻り、スイッチを押して後部座席の扉を開く。
小河原は乗り込もうとするが、ふと思い立ったように立ち止まる。
「今日はここまででいい」
「いや、最後までお送りさせてください」
「少し夜風にあたって帰りたいんだ。ここからなら歩いて帰れない距離じゃない。それでももし送るというなら、代わりに明日もう一度だけ市役所に来てくれないか?」
「でもお客様。私は明日にはもうお客様の担当ではありません」運転席の男ははっきりと答える。
「今日の分の残業だよ。なんならあなたの会社に払っているのとは別に金を払ってもいい」
「そこまで言うのであれば構いませんが、どうしてです?」
「仲間が必要なんだ」小河原は右手に持ったスチール缶を強く握りしめる。
「私なんかでいいんですか?」
「あなたの師匠は化け物みたいに強くて、あなたは正義の味方なんだろ? あなたが仲間なら俺は正義でいられる」小河原は自分で言っておきながらもよくわからないが、突拍子もない意見が自分自身を励ましているように思えた。
「市長、暴君と呼ばれる日も遠くはないかもしれませんよ」相変わらず運転席にいる時だけふてぶてしい。
「それでも必要なんだよ。どうしようもないくらい強い敵と戦うには勇気と覚悟が必要だ」
小河原は車に背を向けて歩き始める。
「仲間が必要だ」小さな決意は再び吹いた生暖かい風が攫っていった。
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