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頭の内側が鉄の棒でたたかれているかのように痛む。左の唇の先は醜く切れていて、他にもところどころの傷から立ち上る鉄臭さが鼻の奥からせり上げてくる。一歩一歩歩くことも億劫でその場に寝転がりたくなる。
ランドセルの留め具は開けられていて蓋ごと揺れている。
「夏彦少年。そんなにとぼとぼ歩いてどうしたかね」ランドセル越しに背中に痛みを感じて振り返る。
朱里はいつもと変わらない笑顔でそこに立っている。夏彦の怪我が見えないわけがなかったが、わざとらしく明るく、それが夏彦にとって救いになることを知っているかのようだった。
「夏彦少年、喜べ。今日は合同焼き肉の日だ」夏彦は自宅のカレンダーの今日の日付に同じ文字が書かれていたことを思い出す。
「これじゃあ、痛くて食べれないよ」口の中にまだ砂があるような不快感があって、つばと一緒にどぶに吐き捨てる。夏彦の口から飛び出した赤黒い液体はその不満を実体化したかのようにおどろおどろしく思えた。
自宅に着くとすでに家の中から肉の焼いたにおいがあふれ出している。玄関には大きな靴が並び、客人の所在を表していた。
「お母さん、もう来てる」朱里が嬉しそうにローファーを脱ぎ捨ててリビングに走りこんでいく。扉からうすい煙がもくもくと廊下に流れてくる。
夏彦が生まれる少し前に建てたという家のリビングは三人で住むには少し広く、ことあるごとにこうやって朱里の家族と集まっていた。少し背の高いテーブルの中心にはホットプレートが設置され、そのまわりには野菜が生い茂った皿と真っ赤な肉の皿が拡げられていた。
「お父さんたちは遅くなるっていうから先に始めちゃいましょう。ほら、二人とも手を洗ってきなさい」朱里の母親は部屋に駆け込むように入ってきた二人を洗面所へと導きながら、準備を進める。
肉を焼き始めると下準備のために出ていた煙はすぐに本格的な真っ白い煙に変わって急いで窓やドアを開け放った。
「それで、夏彦君。どうしちゃったの?」朱里の母親が娘と同じように無遠慮に聞いてくる。
「どうだったって、何が?」昨日のことを思い出して思わず朱里のテストのことかと思うが、すぐに自分の見た目がどう見ても何かあったようにしか見えないことに気づく。「どうかな? 大丈夫かもしれないし。そうじゃないかもしれない」
自分でもまるで他人事だとは思ったのだが、実際そうとしか思えないのだからしょうがない。
「お母さん。無神経だよ」朱里がプレートの上にあった肉を口に放り込みながら言う。
「そんなことないわよ。お母さんたちだって今まで生きてていろいろあったけど、やっぱり一番の解決法は人に聞いてもらうことなの」
「それでもタイミングってものがあるでしょ?」
「結局聞くんだから一緒だよ。大体あなたたちは、お母さんたちがお互いに相談したから……」
「相談してたから二人ともお父さんと結婚できた。もっと親の言うことは聞いた方がいい。でしょう? もう聞き飽きたって、そんなの」夏彦は当たり前のように母親に言い返す朱里がとんでもないことをしでかしているように思えた。
町で怪獣同士が戦うのを思い浮かべる。周りにいる人間たちは我先に逃げ回り、あるものは泣き叫び、あるものは怒号を発する。やがて怪獣は強くぶつかりあい、その衝撃でビルがいとも簡単に崩れ落ちていく。ビルが壊れる衝撃と煙が自分の身体を覆い、視界が奪われる。
視界が開けると二匹の怪獣が心配そうな顔でこちらを見ている。
ねぇ、どうなの? と詰め寄ってくる。
「ほら、二人ともやめなさい。大体、うちの子のことでなんであんたたちが喧嘩になるの?」いつの間にか台所から戻ってきた母親が朱里たちの親子喧嘩の仲裁に入って二人を諌める。
ほどなくして4人が満腹になる頃には夏彦の母親がせっせと片づけを進めてテーブルの上には父親たちのために残した分の材料だけが並べられていた。
「で、実際はどうだったの?」夏彦の母親も朱里の母親も洗い物をするからと台所に行き、二人でテレビ番組を見ている時だった。
「さっき、タイミングがどうとか言ってなかったっけ?」
「それはもういいじゃない。今がその時ってやつなんだよ」また朱里の屁理屈が始まったのかと夏彦は眉をひそめる。
「私が助言したんだから結果を聞く権利があるとは思わない?」
「朱里ちゃん、あれを助言とは言わないよ。先延ばしにしろなんて」
「いいから教えなさいよ。どうだったの?」
「どうもこうもない。さっきも言った通りだよ。大丈夫かもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえず逃げ回ってみたけど、このざまだよ」ゆったりとしたシャツから出ている腕にある傷は、まだ痣にもなっていない。どんなに逃げ回っても結局は数の力に負けて捕まってしまった。
「しょうがないな。お姉さんの魔法を見せてあげよう」朱里はソファから立ち上がる。「手を出して。そう、グーにして」夏彦の右手を引いて拳を握らせる。
朱里は拳を合わせるようにして、グッと力を入れる。夏彦の右手に朱里の体重がかかる。ごつごつとした関節部の骨が刺さっているのではないかと思うほど強く押される。と思えば、ふっと力が抜かれている。
「勇気を増やす魔法。私の勇気を夏彦に移してあげたから、明日はその勇気でもってあの寝癖野郎をとっちめてやりな」歯が浮きそうなセリフを大真面目に口にできる朱里は夏彦にとってうらやましいものではあったが、どうにもまだ彼女のそういった部分に慣れることが出来なかった。
「そんな簡単にいかないよ。気持ちでどうこうなるものじゃない」
「いいからやってみればいいじゃない、勇気で立ち向かう者にだけ奇跡っていうのは起きるんだよ」
「俺にも起こせるかな?」
「もちろん」
「そうだね、朱里ちゃん。ありがとう。俺、頑張ってみるよ」夏彦は精一杯口角を上げて、無理矢理快活な笑顔を作り上げる。
「驚いた」朱里は目を丸くして夏彦の顔を見つめる。その表情がちょうどテレビに映るタレントの表情と被って夏彦は楽しくなる。
「何が?」
「まさか、小学生相手とはいえ、こんな子供だましを信じるとは思わなかったから」
「まさか、こんな子供だましを信じてると思えてることが信じられないよ」夏彦の小さな眉が困ったように歪む。
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