「昨日はどうもありがとうございました」

 市役所を出て初めての交差点を曲がったのを皮切りに運転席の男が話しかけてくる。昨晩と同じ男だとは気が付いていたが、小河原の顔を見ても何の反応も示さなかったから、もしかしたら自分の思い違いで今日の運転手は昨晩とは別の男。もしくは昨晩の記憶そのものが良くできた夢だったのかもしれないと思い始めた時だった。

「いえいえ、それより本当に今日もあなたなんですね」小河原は自分が言い出したこととはいえ、現実になると思わなかった。

「実はこの仕事、とても競争率が高いんです」

「そうなのか?」もしかしたら運転席の男の言ったことはただのお世辞かもしれないが、それでも思わず顔がにやけてしまう。他人に人気があるというのはなかなかうれしいものだ。

「でもその分要求されることも多くてですね。条件が厳しいはずなのにやっぱりやりたいという希望者が多いんです」

「そんなに厳しい条件を出した記憶はないですが?」記憶をたどってみてもそれほどの条件を出した記憶はなかった。そもそも税金で給料をもらっている身で送迎をお願いしているのですら、佐藤と橋本の勧めがあったからだ。実際に家に着けばいいと適当な指示をして送迎業者とやり取りをしているのは佐藤だった。

 運転席の男はそうですかとつぶやいただけで特に何も言いはしなかった。

 車は渋滞に巻き込まれることもなく進んでいく。小河原は夜の街の雰囲気がどこか自暴自棄のようで少し苦手だったが、こうして落ち着いて観てみると心なしか穏やかに歩いている人が多いように感じる。

「一市民として私はどう見えます?」

「そうですね。迷われているように思います。勇気が足りていないのかもしれませんね」こんな質問を市長本人から聞いて否定的な言葉をなげられるのは対抗勢力の人間か、公務員を敵視している者だけだと思っていたから、どちらでもないように見える運転席の男からそんなことを聞けると思ってもみなかった小河原は思わず笑い出す。

「そうか、弱気が伝染したかな?」運転席の男はそうですねと笑う。

「私は小河原という名前があまり好きじゃないんだ」こんな話をいきなりされたら驚かせてしまうと思ったが、運転席の男は微笑んでいる。

「そういうこと、ありますよね」なぜか旧来の友人と話している気分になり危険なほど饒舌になるのがわかる。今日は飲酒をしたのかすら、わからなくなるほどだ。

「だって小河だぞ。その上鉄二って二番煎じかよ」

「どうせなら大河原とかの方がよかったですか?」運転席の男も同じ気持ちなのか少し言葉遣いが崩れる。

「そうだな。大河原。それに鉄斎とかどうだ? 強そうじゃないか」大河原鉄斎と頭の中に漢字を並べて満足そうにうなずく。

「大御所みたいで、強そうです。でも、少し悪そうだから小河原鉄二で良かったんじゃないですか? 誰も悪いとは思わない。事実きっと悪くない」

「そうだな、あなたの言うとおりだ。俺は小河原鉄二だからな。それが本当で事実で真実だ。小河原鉄二は悪いことをしない」自分に言い聞かせるように小河原が言う。

 言葉尻が小さくなって、それが自分の自信の無さを表しているようで情けなくなる。負けるな鉄二! と自分を奮い立たせる。

「真実は…… 勇気は強いよな」ただ確認したかった。自分は正しいと。まだであって二日しか経っていなく、そもそも会話などほとんどしていない一市民である運転席の男の言葉だが、それが神の啓示のようにすら感じられた。

「真実はお客様が言うほど強くありません」だからこそ、さびしげな運転席の男の言葉が恐ろしく感じた。見放されたと思い、ふと我に返る。

「真実とか本当とかそういう言葉こそ信用してはいけません。そんなものは人によって変わっちゃうんですよ」

「じゃあ何を信用すればいいんですか?」興奮した小河原の声は怒鳴り声に近い者になっていた。それでも運転席の男は冷静に淡々と返事をする。

「月並みですけど自分自身、じゃないでしょうか? えぇと、これは私の師匠が言ってたことなんですけど、悩んだって結局自分がそうした方がいいと思っていたことをやった方が物事はうまくいくんだそうです」運転席の男は信号が赤に変わったのを見てブレーキを踏み込む。どこかいつもより急にスピードが落ちて、どうにか停止線前に停止する。

「自分自身。か」小河原は何もない天井を見上げる。染みもなくきれいに清掃された車の天井の上に視線を走らせて考える。一体俺は何がしたいんだろう。と。

「君の周りには面白い人が多いな」運転席の男はうれしいのか鼻をすすって笑う。「奥さんと言い、その師匠といい人に恵まれている」

「その中にお客様を入れさせていただいてもよろしいでしょうか?」小河原はどこかうれしくなって是非、と返事をする。

「ところで、師匠ってのは運転のですか?」小河原は楽しくなって思わず運転席に手を掛けたくなる。学生時代に戻って友人と遊びに行った時のことを思い出す。

「いえ、なんていえばいいんですかね。生き方というか。戦い方と言うか。なんだか自分たちでもよくわかってないんですけど、いろいろ教えてくれるから師匠なんです」

「師匠か……」小河原は未だ若いころ橋本に教わった多く事を頭の中でコーヒーとミルクをかき混ぜるように、思い浮かべては安穏とした暗闇に溶かしていく。

 教えを請うた人間と言えば思い浮かぶのは橋本文隆1人だった。この世界で生きていく術や、小河原の青い夢を笑いながらも実現するための力を与えてくれたのは他でもない橋本だったことを再認識する。

「もし…… もしあなたの師匠が悪であることを知ってしまったら。あなたはどうしますか?」さすがに言い過ぎたとも思ったが、どうせこの会話は誰にも聞かれない。それこそ自分がそんな会話なかったと言えばなかったことになるのではないかと無理矢理自分を安心させる。

「そうですね。仲間を集めます。それでもってやっつけます」運転席の男は冗談とでも思ったのか、声を漏らして笑っている。

「やっつけられるのか?」俺は橋本を倒せるのか? やっつけられるのか?

「無理でしょうね。たぶん」運転席の男はあっけらかんとして答える。

「そんなに強いのか。君の師匠は」俺と一緒だなと心の中で呟く。

「強いですよ。それも化け物みたいに。私は見た事ありませんがちぎっては投げるそうです」ちぎっては投げるという表現があまりに幼稚で小河原は想像がつかない。「これは師匠の奥さんから聞いた話なんですけどね。昔、師匠は悪い奴をちぎっては投げたそうです」

「それはもう化け物じゃないか」自分はからかわれているのだと思ったが、ミラー越しに見える運転席の男の表情は今までにない以上に真剣で、思わず、本当に? と聞いてしまう。

「一体あなたの師匠は何者なんです?」例えこれがしがない運転手によるしがない市長を慰めるための作り話だとしても、今日の夕飯時の妻との話題のネタ位にはなるのではないかと思う。

「サラリーマンです。普通の。掃除機とか売ってます。正直者なんで」

「ダジャレかよ」小河原の太い指がついた腕が運転席をたたく。

運転席の男は調子に乗りすぎて怒らせてしまったかと不安になったが、小河原の表情が思っていた以上に上機嫌なのを見て、安心してアクセルに足を乗せる。

「でも、本当に私の師匠が悪で、やっつけなきゃいけなかったら、僕にできるのはみんなに教えることぐらいですね」

「教えるってなにを?」

「あの人は危険ですよ。って。皆さんの善意であの人をやっつけられるかもしれません。だから協力しましょう。って言うんです」

 小河原はどこかで聞いた話だと思い、すぐに橋本から昔ならったことだと思い出す。橋本がどうしてもかなわない敵が現れた時の対処法として教えてもらった方法と言葉は違えど同じだったのだ。

まだ若かった小河原はそれがまるでいじめの理由づけのように思えて好きになれなかったため、記憶の奥底に忘れるように閉じ込めていたのかもしれないと分析する。

「それは好きになれないなぁ」小河原の言葉を聞いて運転席の男が嬉しそうに笑う。

「昔、同じようなことを言った時に、私の師匠も同じこと言ってました。それはいじめと同じだって」

「あなたは本当に人に恵まれている」小河原は満足そうにうなずく。

 カーナビが小河原の自宅付近に就いたことを無機質な声で伝える。腕時計を見ると、いつもより短く感じた帰宅時間はいつもより長かった。

「今日はありがとうございました。明日もよろしく頼むよ」小河原は車から降りながら運転席の男に言う。

「こちらこそありがとうございます。明日もまた、お客様をご担当させていただけるよう精進致します」車から一度下りれば彼は従順な運転手に変わり、丁寧なお辞儀を見せる。

「そういえばあなたはなぜ競争率が高いこの仕事を任されたんですか?」

「真実の話と建前どちらがいいですか?」にやりと、いたずら好きな子どもを思わせる幼さの残る顔が小河原の前にあって、意外に思う。車の外でもこんな顔をするものなのかと感心する。

「それは真実に決まっている」

「市長にお会いしたかったから頑張ったんです」小河原は嬉しそうにそうか、とつぶやく。

 小河原は玄関に向かい、運転席にいた男は運転席に戻っていく。

 玄関に手が触れたと同時にふと後ろを振り返る。運転席の男がちょうどエンジンをかけたところだった。

「おい、本当はなんでなんだ?」

「何がです?」車に戻ったたんに運転中のようなふてぶてしさがすこしばかり戻っており、小河原はうれしく思う。

「真実が信用ならないといったのはあなただ」運転席の男は一瞬きょとんとした顔をしていたが、すぐに微笑む。

「市長、お偉い方のお仕事はそうでない人よりお給金がいいんです」

「嘘だな。あなたの師匠のおかげだ」目には目を、歯には歯を、冗談には冗談を、だ。と小河原は思う。

「なんで知ってるんですか?」運転席の男は目を丸くしてこちらを見ている。

「市長だからな。市民のことはなんでも御見通しなんだよ」小河原は気分よく玄関の扉を開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る