夏彦は憂鬱だった。まだ、小学生である自分には“憂鬱”という言葉はどこか贅沢にも思えたが、明日のことを考えれば嫌になり、明後日のことを考えるともっと嫌になるこの気持ちを言葉にしようとすれば母の友人が良く使う“憂鬱”という言葉がぴったりだと思った。

 歩くたびに半開きのランドセルの留め金がカチカチと音を鳴らしてうっとおしい。偶々足元にあった小指の先ほどの小石を思い切り蹴り飛ばす。小石はそのいびつな形によってコロコロと行先を変えながらやがて歩道から車道に乗り出した。

 後ろから大きなトラックが走ってきて、前輪で小石を踏みつける。小石は自分より大きなタイヤになすすべなく押しつぶされ、その後ろから来た後輪に弾き飛ばされて夏彦が蹴り飛ばす前にあった辺りに戻される。

「なんだよ。それ」なぜか自分が否定された気になる。トラックとか、その運転手とかそんな小さなものではなくて、もっと大きな世界みたいなものに小石一つの位置すら自分には変えることは許さないと言われたように感じる。

 目の前の横断歩道の信号がチカチカと青点滅を繰り返す。自分の脚力では渡りきれないだろうと歩みを止める。しかし、ふと考える。ここで自分が横断歩道に踏み込んでいったとして、そこにさっきのように大きなトラックが来て、小石のように今の場所に戻されてしまうではないだろうかと不安が頭をよぎった。

 赤信号の横にある。青に変わるまでの残り時間の表示があと一つになった時、夏彦は誰かにランドセルと叩かれた。

 何事かと後ろを振り向くと同じ紺色のランドセルを背負った男の子がそこに立っている。ぼさぼさの寝癖がだらしないのだが、つるつるのテントウムシの背中のような頭の自分よりいくらかましに思えてくる。

「木島くん」おう、と木島が返事をする。

「まだ何か?」ついさっきまで学校の飼育小屋の裏で木島と他のクラスメイト数人に囲まれていたことを思い出して顔を背ける。

「さっきの慰謝料の話だけどよ」必死に背伸びして大人の言葉を使う彼はとてもちっぽけに見えるが、それに逆らえずに黙って従う自分はよりちっぽけに思えてむなしくなる。

 信号が青に変わり、夏彦は歩き出す。それに合わせるようにして木島が夏彦の隣を歩く。

「悠馬君がさすがにひどいんじゃないかって言って、それでお前に知らせに来たんだよ」本当だぜと木島は言う。

「それで?」淡々と話を聞いている夏彦が気に入らないのか木島の表情が曇る。

「だからさすがに百億円ってのは無理だと思うんだ」当たり前だ。100円玉すら大金である僕たち小学生にとって百億円はいっぱいとかたくさんとかその程度の意味合いしかない。

 それをわざわざ訂正しにくる意味はあるのだろうか。

「でもお前も悪いんだ。先生も言ってただろ? 嘘つきは泥棒の始まり。悪いことはしてはいけませんって。だから夏彦になんの罰もないのはできないんだ」木島は自分の言葉に酔っているように拳を握る。

「だけどさすがに百億円はひどい。ひどすぎる。悪いことした悪人だってそんなに持ってないよ。だから減らしてやろうって話になった」木島が自分の手柄を自慢するように胸を張る。

「減らす?」罪を? いや罰をかなと、本の少しだけ心が躍る。

「そう、百億円は多いから千円にしようって言ったんだ。悠馬君が」あと俺もと付け足した。

「千円? 無理だよ。僕、そんなに持ってない」

「ジョージョーシャクリョーだぜ。出血大サービスだ。これ以上はさげらんねぇよ。だから何とかして持って来いよ」と木島は言うと、信号が再び点滅し始めた横断歩道を走って戻ると、忘れんなよ。絶対だぞと、車の音にかき消されないように大声で叫んでいた。

 夏彦は木島の声が聞こえなくなるまで走っていった。いくつかの角を曲がって家の近くまでやってくる。ここまでくれば木島も悠馬君もいない。

「千円かぁ」結局夏彦はそのまま家に帰る気分にもならず、自宅のすぐ近くにある公園のブランコに座っている。

 結論から言えば自分で千円もの大金を用意することは不可能だった。それを実現するには母親がいつも財布をしまっている戸棚からこっそり偉そうな学者の顔が描かれた千円札を借りるしかない。

 夏彦は家から遠ざけてブランコに縛り付けられているかのようだった。

「何してんの? また泣いてるの?」

 知らぬ間に隣のブランコに人がいることに一瞬驚くが、すぐに知っている人だったと安心する。

「朱里(あかり)ちゃん」白と紺の制服が彼女が立ったままブランコを漕ぐたびに体に置いていかれてふわりと浮きあがる。

「当ててあげようか?」朱里はブランコから飛び降りると夏彦の前に立って笑う。年上の女の子に笑いかけられた気恥ずかしさで夏彦はうつむいたままだ。

「そうだな。まず百億円はひどいよね」

 今度こそ安心できない驚きで夏彦は朱里の顔を見上げる。どうして? と口にする前に朱里は話を続ける。

「でも千円もひどい。あの寝癖頭め、とっちめてやろうか」

「聞いてたの?」夏彦は恐る恐る聞く。

「どちらかと言えば見てた」朱里はけろりと答える。あまりに潔くて、見てたならどうして助けてくれなかったのかと責めることも忘れてしまう。

「で、どうしてそんなことになっちゃったの?」朱里は再び隣のブランコに腰かける。

気が付けば夕焼けが公園全体をはっきりと鮮明に照らしている。季節外れの強い日差しに思わず顔を背けた。

「みんなが僕は嘘つきだって言い始めたんだ。詐欺罪だ。って」

「どんな嘘をついたの?」朱里はの聞き方は同情でも責めているようでもなく、夏彦は自然に話し始めることができた。

「父親の仕事って作文があったんだ。もちろん授業で」この年で父のことをお父さんではなく父親と呼ぶことをすこし恥ずかしく思いながらもポツリポツリと言葉が出てくる。

 朱里は時折「うん」とか「ふ~ん」とかの相槌を打ちながら話を聞くことに集中している。

「だからうちのおとうさんのこと書いたんだ。ちょっとカッコ悪いけど、偉い人たちといっぱい仕事して、いっぱい頼ってもらってるって。そしたらみんながそんなの嘘だって言い始めて…… 真実じゃないって言うんだ。」昼間の教室を思い出して涙と嗚咽がせりあがってくる。

「それで嘘つきだって?」朱里の言葉に黙ってうなずく。

「みんなが言うんだ。お前のお父さんはぺこぺこ頭を下げてるだけだって。頭を下げるのがお前のお父さんの仕事で、偉い人たちと一緒に仕事してるわけじゃないんだって。嘘をついてみんなを騙したから慰謝料を払わなきゃいけないって」

「それはひどいね」朱里は最近の小学生は、といってもたった3年前まで自分も小学生だったわけだが、ずいぶんとませたイジメを行うものだと感心してしまう。

「それで千円持って来いって?」

「ジョージョーシャクリョウらしいよ」木島に言われた単語をそのまま言う。

「情状酌量かぁ。ずいぶん難しい言葉を知ってるね」

「朱里ちゃん、僕どうすればいいかな?」

「とりあえず先延ばしにしてみれば?」

 あまりに無責任な提案に夏彦はため息をつく。

「もう少し待って。そうすればきっとあなたの期待通りの結果がでると思うんだって言って先延ばしにしてもらうんだよ」

「それは問題そのものを先延ばしにしてるだけじゃない?」

「難しいこと知ってるね。でもいいんだよ。実際、偉い人だって問題は先延ばしにしてるじゃん。この前テレビで見たよ。記者の人がみんなでマイクを向けて本当のことを話してくださいって市長さんに詰め寄ってるの。そしたら市長さん、そのことについては今は話しません。って。きっとあれは先延ばしにして待ってるんだよ」

「何を?」

「チャンスだよ。一発逆転! 起死回生! 一撃必殺だよ」

「最後のは違うと思うよ」朱里が話すことは、たまによくわからないが、それでも元気づけられるのは確かだった。

「だからさ。夏彦も先延ばしにしちゃおうよ。それで待ってればいつか来るよ」

「一発逆転、起死回生、一撃必殺のチャンスが?」

「最後のはだめだよ。殺しちゃうのは良くない」朱里は大まじめな顔で言うが、夏彦には何の話をしているのかよくわからなかった。

「朱里ちゃん。ありがとう」

 結局、何も解決はしていなかったが、とりあえずは言われたとおり先延ばしにしてみるのも悪くないと思った。市長さんのことはわからないが、自分の罪くらいなら忘れてもらえる気がしていた。

 夏彦はまだブランコに座る朱里に帰ろうよと言う。お互いの家はここから家が近かったから当然、朱里も一緒に家に帰ると思ったのだ。

「私はまだ少しここにいるよ」

「待ってるの?」冗談のつもり聞いたが、朱里は相変わらず真面目な顔でうなずいた。

「夏彦、覚えておいた方がいいよ。大きくなるとどうしようもないことってのがあるんだけど、私はそれにもきっと抜け道があると思うの」

 夏彦は良くわからずに首をかしげる。

「今にも自分の間違えに気が付いた先生が赤ペンと下敷きをもって私を追いかけてきて、私の答案についたいっぱいの罰を丸に変えてくれるかもしれない」

「それは……」それはきっと無理だろうと言おうと思ったが、朱里自身が言っていた通り、きっと子どもの自分にはわからないことが朱里のように大きくなっていくにつれあるのだろう。と思い。それじゃあ僕は帰るねと伝えて家に帰ることにした。

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