インフェクション

よまのべる

「弱気っていうのは伝染するらしいですよ」

 あまりに唐突だったせいか、それとも仕事の疲れのせいか、生返事すらすることが出来ずに、小河原鉄二は後部座席から眺めていた町並みから目を離すことしかできなかった。

 運転席の男が気まずそうに帽子の位置を調整しているのがミラー越しに見える。

「それは、なんていうか、あれか? 今の私のことを言っているのか?」

そこにセリフが載っているかの様に自分の腹部を見つめる。十数年前、まだ学生と呼ばれていた頃、幼いころから続けていた剣道部でのトレーニングともいじめともとられかねない日々のおかげで小河原の身体は削り取られたばかりの木材のような新鮮さにあふれていた。その木材も十数年もの時間が流れる間に多くの不純物をまとわりつかせて、今では立派なふくらみがそこにはあった。

「お気を悪くされたなら、申し訳ありません」あぁそうだった。今はまだ会話の途中だった。と運転席の男に意識を集中させる。

「いや、それほど気にしなくてもいい。ただ、初めてだったもので」相手が妙に丁寧なせいか、こちらまでどこか丁寧に話しかけてしまう。

「申し訳ありません。私たちは本来お客様には話しかけないようにと仰せつかっておりますが、今日はなにぶん小河原先生のお顔がすぐれないようでしたから、つい言葉が口をついて出てきてしまいました」そんなにひどい顔をしていたのか。毛深い手で自分の顔をなでる。贅沢な宝石をあしらえた指輪が岩のような顔を研磨しているかのようにあたる。

 運転席の男が信号の色に合わせてアクセルをゆっくりと踏み込む。なめらかに発進した車がハンドルの動きに合わせて右折していく。

「本当に気にしないでください。あなたが思っている程今日は気分が悪くはないんです」建前で口にしたはずの言葉だったが、不思議と悪い気がしなかった。

 運転席の男からの返事はない。

 静かな空間の中で小河原は昼間のことを思い出す。

 会議室には小河原の他にもう一人の男がいた。この男は小河原の秘書で名を佐藤といった。

 佐藤は大きな存在の陰に隠れるようにして自分の居場所を作るような男で、小河原は人間として彼を好きにはなれなかったが、佐藤のような考えや能力が社会を、特に自分がいるような世界で生きていく上で必要なことも、十分わかっているつもりだった。

「先生、やめた方がいいです。橋本先生には逆らわないほうがいいですって」佐藤が今にも泣き出しそうな声で訴えている。蛇を思わせる細長い体がまとわりつくように思えて距離をとる。

「じゃあ見逃すってのか? あんなの政治とは呼ばない」じゃあなんだって言うんですか? と佐藤が信じられないものを見る目で小河原を睨みつけた。

 小河原は周りの様子をうかがう。窓の戸締りを確認して、ドアの向こうに誰もいないことを確認する。声を潜めるようにして佐藤に語りかける。

「橋本先生。いや、橋本康文は企業から金をもらって仕事を流している。これは変えられない事実であって現実だ。それがやってはいけないことだというのを今時の小学生だって知っている」

「変えられない事実などありません。ただ、先生が一言、たった一言カメラの前でおっしゃればいいんです。『橋本先生は無実だ』と、それだけでそんな事実はメディアの生み出した夢物語になるんです」

「私に市民に対して嘘をつけと言うのか?」私は市長だぞ! と怒鳴りたくなる気持ちを必死に抑える。

「人間はしょせん嘘をつく生き物です。先生だって今まですべて真実だけで生きてきたわけではないでしょう? その延長線上ですって」まるで麻薬の注意喚起の例文に出てきそうなセリフだと、小河原は思う。

「その件については後日しっかりとした答えを出す」できる限り冷静に、しかし、もうこれ以上交渉には応じないことをわからせるためにぴしゃりと言う。

「相手は先生の恩師でしょう? その上、国会議員だ。国ですよ? わかってるんですか? こっちはしがない市です。こんなことしたって百害あって一利なしですよ」

 佐藤が憤慨して小河原の背中に語りかける。

 小河原は長いものに巻かれろというのか。と言い返したくなる。が、すぐに面倒になって口をつぐんだ。

 佐藤なら肯定しかねない。それどころか長いものに巻かれていけばそのうち大きな塊になれるのだからそれを使わない手はない。とでも言い始めかねない。

 会議室のドアに手を掛ける。

「明々後日だ。三日後に正式にコメントする。それまで考えさせてくれ」

「いえ、私も出すぎたマネでした」佐藤はこみあげてくる怒りを抑えるように頭を下げている。

 午後の会議に佐藤の姿はなかった。

「勇気は、勇気は伝染するのか?」ずいぶん気弱で、か細い声だったからか、小河原がそれが自分の声だったことに気が付いたのは運転席の男があわてた返事を返してきてからだった。

「あ、はい。そうですね。勇気も伝染すると思います」その肯定ぶりに佐藤の姿を思い出す。この男も同じように私の言葉ではなく、私の立場に返事をしているのではないかと考えてしまう。

「でも……」と男が言葉を続ける。

「でも?」

「でも悪意も善意も悲しみだって伝染するんですよ。」怖いですよね。と一息入れて、運転席の男が続ける。「だから正義のヒーローは必死に勇気と善意を振りまくんです」運転席の男の言葉はどこかしっかりと芯が通っていて小河原は夢中になる。

「じゃあ、勇気も悪意も善意も悲しみも弱気もみんな伝染したらどうなる?」そんな質問をしたのはただのいたずら心からだったが、運転席の男はなんでもないように答える。

「人間の感情は一つではありませんから。常に悪意と善意がその内側にあるんです。ヒーローだってそうらしいんですよ」それがすべての答えであるように言う。

「まるで本人に聞いたみたいな言い方ですね」

「いえ、そんなことは。ただ、うちの家内が言うんです。『あなたは正義のヒーローなんだからもっと善意と勇気を振りまきなさい』って。私だって嫌なことや悪いことだって考えるのに」運転席の男の口調は言葉の割に明るい。

「いい奥さんだな」なんだ、ただの惚気話かと思いながらも本心からそう言う。

 そんなことを話しているうちに車のカーナビの無機質な女性の声が小河原の自宅付近に着いたことを知らせる。

 車は発進した時のようにゆっくりと速度を落として停車する。運転席の男が手元のスイッチを押すと、扉が開く。小河原が降りると同時に運転手の男も車を降りてお辞儀をする。

「本日は出すぎたマネをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」いまさらになってよく見ると、男はどちらかと言えば細くて弱そうな見た目をした中年の男だった。肉付きがそれほどでもないから少しばかり年を食って見えるが、おそらく自分と同じくらいの年だろうと小河原は推測する。贅肉が揺れる自分が言えた立場ではないが、どうひっくり返してみても正義のヒーローには見えない。

「本当に気にしないでください。今日は楽しかったです。良ければ明日もあなたでお願いします」運転席の男。もとい運転席にいた男は驚いたように頭をあげる。

「え? いいんですか?」

「あなたと、あなたの会社さえよければ」こうして笑っている時、自分の口から出る言葉はどこかうさん臭いが、この時ばかりはそれが隠せてればいいと思った。

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