第9話

 ぼくは鳥肌の波が尻の上から脳天へ滑りぬけるのを感じた。そういえばシオンズゲイトはイマースモード専用のゲームではない。エクステンドモードとイマースモードを行き来すると書いてあったはずだ。そんなことはすっかり忘れていた。きっとこれはエクステンドモードでのミッションなのだ。ぼくは視界の中央に浮かんでいる文字を何度か読み返した。じょおうのあしもとでさしのべられるてをとれ。女王の足元で差し伸べられる手を取れ。目の焦点が文字からその向こうの景色へと移動する。といって景色を見ているわけでもない。ぼくはもはやなにも見ていなかった。


 女王。ぼくには思い当たる女王が二つあった。この町にはクイーンと名のつく場所がいくつかある。ぼくは女王の足元を想像してみた。「あ」とわずかに声に出して、自分が走り始めたことに少し遅れて気づいた。行動しようと思う前にすでに走り始めていた。このビルの地下から行ける場所にクイーンの名がついている。しかもその足元、地下の深いところには鉄道が走っているのだ。本数こそ少ないもののこの鉄道は今も動いている。その鉄道の利用者のためだけに、この周辺のビルはエントランス階より下だけが出入りできるように管理されている。上の階は閉鎖されていて、警備ロボットがガードしているので立ち入ることはできない。開放されている部分のメンテナンスもすべてロボットによる管理だ。


 ぼくは階段を駆け下りた。併設されているエスカレータは人が近づくと動き始めるようになっているけれど階段を駆け下りる方が早い。地下へおりて地下鉄駅の方へ走る。地上で見ると複数のビルが並んでいるこの辺りは地下で全部つながっている。地下と言ってもこのあいだ迷い込んださっぽろの地下街とはまるで違う。全体的に天井が高く、部分的には吹き抜けになっていて地下深くまで地上からの自然光が入るような設計だ。地下なのに太陽に照らされている。おかげで昼と夜ではまったく違う姿を見せる。ぼくはこの町でこの空間だけは以前から好きだった。ばかげた高さのビルを建てられる力をもってこそ実現されたであろうこの信じがたいほどの地下空間。未来を夢見てこの場所を作った人々に尊敬も覚えたし、羨ましくも感じた。同時に、未来を思って作られたこの場所が、やってきたその未来において朽ちない廃墟として永遠を呼吸していることを気の毒にも思った。


 広大な空間を大小様々なロボットが行き来していた。ロボットはそれぞれの目的に合わせた姿をしている。たとえば床を掃除しているロボットは階段も移動できるような複数のタイヤを組み合わせた足を持っている。アクセルのフェルマータもあんな足をしていた。高所メンテナンスを担当するロボットは複数のプロペラを持った飛行タイプだ。もちろんどのロボットも人工知能を搭載している。それぞれの機能に特化した人工知能だ。ロボットたちは体も脳もその仕事のためにチューニングされた、いわば究極のスペシャリストと言える。


 ひときわ巨大な空間に出る。地上階から地下深くの地下鉄ホームまでの吹き抜けだ。吹き抜けの周囲は回廊のようになっていて、床が多層になっているのが見える。実物大の断面模型みたいだ。それぞれの床にはかつてショップが並んでいたという話だけれど、今は清掃ロボットが走り回っているぐらいで途中階に降りられるエレベータも利用者はほとんどない。吹き抜け部分を一気につらぬく長いエスカレータが地上の窓から入る光を運ぶように降りている。ぼくは回廊を回り込んでそのひときわ長いエスカレータに乗った。ぼくが近づくとエスカレータは作動音をさせて動き始める。モータが回転を始めるときの独特の音が響く。低い音から始まって回転数とともに一気に高音へ駆け上がる。ほとんど同時にギアやベルトなどが次々に駆動を伝えて金属製のたくさんの部品が一斉に動き始める。重い金属の部品たちが相互に力を伝えあい、断面が扇形をしているステップを繰り出す。平面として繰り出されたステップにぼくが踏み出す。足を乗せるとステップはそれを待っていたかのように回転し始め、ぼくの足元に階段が生まれる。ステップはその複雑な動作をぼくの足に気づかれることもなく完遂する。移動する階段となったステップはそのままぼくを地下深くへと運んでいく。終端部に差し掛かると再びステップは回転して平面になる。ぼくの目には階段が沈み込んで平面になっていくように見える。ステップの断面が扇形でその回転によって階段が生まれたり消えたりしているとはとても思えない。


 モータの単純な回転運動からこれだけの複雑な仕事を生み出す。それがエスカレータだ。かつてはきっと一日中、すべてのステップにぎっしりと人を乗せて回り続けたのだろう。今では多くの時間を眠って過ごし、たまに人が来るとこうしてたった一人でもちゃんと運んでくれる。エスカレータの仕事は人を運ぶことで、その数が多かろうと少なかろうと彼らには関係ない。運ぶべき人が来れば運ぶ。いなければ待つ。あまりにも停止時間が長いと駆動部分が膠着してしまうからときどき無人でも動かすはずだ。それがどんなふうにプログラムされているのかぼくは知らないけれど、こういうものは動かしておかないと動かなくなってしまうということはなんとなくわかる。


 ぼくは足を踏み出してエスカレータから降りた。ぼくが立っていたステップは終端部に吸い込まれる。きっと今から数十秒、あるいはもしかしたら数分かかってまた上の端から出てくるだろう。ぼくは今降りてきたエスカレータを見上げた。今は誰もいない。このままだとおそらく、もう一度上から出てくる前にエスカレータはまた停止して待機モードに入ってしまうだろう。そうするとぼくを乗せてきたステップはエスカレータの裏側でまた誰かを乗せる時を待つことになる。きっと退屈することもなく待ち続けるのだ。


 そのまましばらく見ているとエスカレータが停止した。一定のリズムで続いていた作動音がやみ、それぞれの部品たちが息をひそめたように感じた。作動音が遠のいた後、ぼくの耳には静寂が聞こえ始めた。意識されなくなるほど耳を支配していた音が去った瞬間にだけ、この静寂が聞こえる。そのまま少し時間がたつと静寂だと思ったものが本当は静寂ではなく、そこには活動する掃除ロボットの作動音、空調や水道設備の音、電気系統のノイズなど様々な音があるということに気づく。そうなると今度はそれらの音が止まるまで静寂が聞こえることはない。ぼくは停止したエスカレータを見上げたまま静寂が去っていくのを確かめてから駅の方へと歩き出した。


 必要なものはなんでも自宅にいながら手に入れることができる。行きたいところへもソファに寝転んだまま行くことができる。高層ビルに上らなくても高所からの景色は楽しめるし、出入国の手続きをしなくても外国へ行ける。月面でも深海でも、カメラが行ける場所の情報はたいてい存在していて、情報さえ存在していればゴーグルでその場所へ行くことができる。人にも会うことができる。一緒に映画を見たり、アトラクションを体験したり、それぞれ同じものを注文して同じものを食べたりすることさえできる。同じ時間を共有するという意味で何ら問題はない。実際、ぼくはゴーグルが見せるイマース空間の中で、ここではもう動かないあのゴンドラのついたホイールに乗った。それでもなお、特に大切な人と会うといった場合には、同じ場所で顔を合わせ、同じ空気を吸うということを重視する人がいる。主にそうした理由でだけ人は移動する。ついこのあいだまで、ぼくはそういう感覚を少しわかるような気がしていた。でもゲームの世界でゴンドラに乗り、さっぽろへ行ってアクセルと出会ったりした今、もはや鉄道で自分が移動しなければならない理由はまったくなくなってしまった。あのさっぽろの地下街で暴れるロボットと向き合ってアクセルと出会ったとき、ぼくとアクセルは物理的には違う空気を吸っていた。ぼくの体は自宅の椅子にあったし、アクセルもおそらく似たような状況だったろう。でもそれがなんだというのか。ぼくはあの時まぎれもなくアクセルと出会ったし同じ時間を共有したのだ。


 改札口は無人の自動改札機が管理している。これもロボットほど複雑ではないものの似たようなものだ。ぼくが近づくと改札機がひとりでに開いた。ぼくは幾分戸惑ったけれど改札を通り抜けてホームに出た。ホームの縁から線路を目で追う。線路はホームの照明が届くところから先は暗闇に塗りつぶされていた。線路に沿って視線を戻し、反対側へと滑らせる。反対側も同じように暗がりの中へ吸い込まれている。一日に何本か、ここに列車がやってくる。でも今はぼく以外には誰もいない。おそらく列車の時刻までまだかなりあるのだろう。外出する人が少ないとはいえ、一日に何本かしか走っていない鉄道の利用者はそれなりにある。このホームが混雑することは想像しにくいけれど、利用客がぼく一人ということもあるまい。

「さしのべられるてをとれ」ぼくはミッションの文言を繰り返した。ここが女王の足元だとすれば、あとは差し伸べられる手を取るだけだ。ぼくはあたりを見回したけれど人は誰もいない。ロボットなら数体いるけれど、ぼくに近づいてくるものはなかった。


 最初の変化は線路から届いた。わずかな音が聞こえ始めてそれが次第に大きくなる。少しすると空気からも音が伝わってくる。列車がやってくる。ぼくは線路の先の暗がりを見比べた。顔を向けて見比べてみると音のわずかな差で列車が近づいてくる方向がわかる。何度か見比べてからぼくは右側の暗がりを見据えた。線路からの音と空気からの音が混ざり合いながらクレッシエンドしていき、モータの駆動音、車輪とレールの継ぎ目が叩き出すリズム、架線とパンタグラフの摩擦音、トンネル内の空気が押されて奏でる音などが重なりあって近づいてくる。暗がりの中に光が見え始める。前照灯のまぶしさで初めは前照灯だけが進んでくるように見える。ホームに近づいてくると前照灯の明るさが中和されるように目の露出が合って列車の姿が見えてくる。正面の窓が見え、その中に運転台が見える。無人だ。列車は自動運転だから本来運転台は必要ないし窓だってなくてもいい。それでも自動運転に問題が生じたときに人が乗り込んで制御できるように運転台が用意されているのだ。ぼくは減速しながら目の前を過ぎていく車両を見つめた。車内は明るく、誰も乗っていなかった。列車はやがて停止し、扉が開いた。ぼくはホームを見渡す。ホームにはぼくのほかに誰もおらず、開いた扉から降りてくる人もいなかった。ぼくは目の前で開いている扉を見た。その車両も無人だった。ぼくはもう一度ホームを見回してから車両を見た。行き先表示部には文字は表示されておらず、ただ光の線のようなものが流れるように表示されていた。ホームにも車内にもアナウンスはなく、どこへ向かう列車なのかもわからない。開いた扉はぼくが乗り込むのを待っているようだった。

「差し伸べられた手だ」

 ぼくは思い切って乗り込んだ。ぼくが乗り込むと発車メロディが流れ、メロディが鳴りやむと扉が閉まった。言葉によるアナウンスは一切なかった。列車が動き出したのを確認してからぼくは椅子に腰を下ろした。

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