第8話
ぼんやりとした感覚の中で少しずつ世界が色を持ち始める。自分のOSが起動し、まず重力を感じて姿勢を知る。手足のデバイスドライバがロードされて自分の範囲がわかってくる。世界との境界を失って溶け出していた自分が体という入れ物に収まっていく感覚。目を覚ましたと知ることでそれまで眠っていたという事実を確認する。感覚器官が送ってくる情報はドライバが読み込まれるまで知覚されない。ドライバは相次いで読み込まれ、布団の肌触りが届き音が届き匂いが届く。そうしているうちに視界が次第にはっきりしてくる。
ぼくは自分が目を覚ましたことを確認するとベッドの上で布団をかぶったまま寝がえりを打った。机の上を見るとゴーグルが乗っている。やはり帰ってくる方法は今回もわからずじまいだった。向こうで眠るとこちらで目覚めるというのが最もありそうだと思うのだけれど、昨日は向こうで眠りについた記憶はない。こちらで目覚める前に記憶の一部が失われてしまうのかもしれない。
記憶を失うとはどういうことなのだろうかとぼくは考えた。複数の人が同じ時間を共有し、同じ体験をし、その上でその中の誰かが記憶を失った場合、失ったということがわかるだろう。おまえも一緒にいたんだぞ、と言ってくれる人がいるからだ。でも一人で記憶を失ったり、同じ体験をしたすべての人が同じように記憶を失ったとしたら、それは失ったのか初めからなかったのかどうやって区別したらいいのだろう。
残っている記憶をたどる。イマースしたシオンズゲイトの世界でホイールのゴンドラに乗った。降りてきて家に向かった。向かったことは覚えている。でもその次は今目覚めたところだ。ぼくはあの後家へ戻り母さんや父さんがいたりいなかったり夕食を食べたり食べなかったり風呂に入ったり入らなかったり他のなにかが起こったり起こらなかったりしてから布団に入って眠った、そしてその記憶が全部失われた。本当にそうだろうか。記憶が失われてしまえばそれは初めからなかったのと変わらない。ぼくはもっとぜんぜん違うところへ行ったかもしれないし、もしかしたらもう一度ホイールのゴンドラに乗ってどこかへワープしたかもしれない。記憶がなくなってしまえばその間に何をしていたかなんてわからない。もしも失われたのが眠りについた直後から目覚める直前までの部分だったとしたら、その記憶が失われたことにすら気づかないだろう。誰かが見ていてくれないかぎり。ぼくはこのゲームを続けるのが少し怖くなってきた。
立ち上がって着替えをする。着ていたものを脱ぎ、別のものを着る。この動作はさながらサブシステムとして、メインの意識の外側で自動的に実行できるようになっている。ぼくは絡み合ったいろいろなものについてどこへ向かっているともわからない考えを巡らせていた。頭はそれで手一杯だったけれど、着替えは滞りなく進んだ。何を脱いだのかも何を着たのかもわからないまま着替えは終わった。エスカレータに乗るよりもはるかに複雑な処理だけれど毎日繰り返していればサブシステム化する。ひとたびサブシステムになってしまえばあとはほとんど自動的に実行できる。人間というのはそういうサブシステムを組み合わせて作られた大がかりなシステムだという気がした。
「母さん」と呼びかけながらゴーグルを身に着けて部屋を出る。呼びかけながら、ぼくはどこかで返事はあるまいと思っていた。もうだいぶ前から分かっていたような気がした。母さんがいるならこんな時刻まで起こされずに寝ていることなどありそうもないからだ。「母さん」ともう一度呼びながら家の中を回る。家の中は綺麗に片付いていて、予想通り、ぼくのほかには誰もいなかった。出かけたのか、あるいは、初めからいなかったのかも。横目でダイニングのテーブルを見やると、今日はトーストも用意されていなかった。人気のないきれいに片付いた部屋は生活感のようなものがなく、たしかに見慣れた家なのにモデルハウスのようなよそよそしさがあった。
ぼくはそのまま家を出た。少し寝坊しただけのいつもの朝だった。坂をのぼれば学校へ行ける。くだれば駅に、さらに行くとみらいの町だ。港湾部を見下ろすと空気の層で彩度を落とされたビル群が見えた。ぼくは学校のある方を一瞥してから坂をくだり始めた。学校へ行けば普段のような時間を過ごせるかもしれない。なんとなく授業に参加する、休み時間には一人で考え事をする、一人で購買のパンかなにかを食べて放課後帰ってくるときっと母さんが居間で外出している、それがぼくの日常だ。うんざりするほど平和だ。平和は安定で、安定は停滞だ。
人々がハツカネズミの回し車みたいにぶん回していた経済は人口の大幅な減少とエネルギー革命によって規模を縮小した。小さくなった回し車は少ない力で回るようになった。がむしゃらに回さなくていい経済がやっと待望の安定をもたらした。でもそれは壮大な停滞を意味していた。急に発生した大量の暇に適応できなかった人々は発狂した。一方で暇つぶしのコンテンツは大量に提供され、多くの人々はうまく順応して今を満喫している。それはそう悪いことでもない。それでも、ぼくはその安寧の中で生きたいとは思わなかった。今この坂をのぼることはその息苦しいほど閉ざされた平和の中で死んだように生きることを受け入れる意思表示になってしまう気がした。その思いがぼくの足を学校と反対の方へ向かせたのだった。
おれとおまえどっちが正しいかいずれわかる、坂道を歩くぼくの中にあの鋭い目をした少年が放った言葉が響く。そんなような言葉だった。アクセル。ぼくはポンチョを着たアクセルの姿を容易に思い出すことができた。変声期の特徴を備えた声は姿以上に鮮明に思い出せた。でも、とぼくは思う。こうして今思い出しているアクセルはきっとアクセル本人とは違うだろう。記憶して後から思い出すときは細部まで完全ではないものだ。それにアクセルのように強い印象を受けた人物の記憶は時間がたつほどに発酵するようにして変化していく。ぼくの中のアクセルは出会ったときの本人とは少し離れたものになっているはずだ。
初対面で本能的に自分とは合わないと感じた相手。それなのに自然に会話することができた。意見もまるっきり合わなかったのにこうして思い出している。ぼくはそのことをずっと不思議に思っていたのだけれど、今になってその理由に気づいた。アクセルはぼくのことを対等に見てくれたのだ。おれとおまえどっちが正しいか、それはつまりおれかおまえかどちらかが正しい、それも、同じぐらいの確からしさで正しい、少なくともアクセルはそう思っているということの表明だと思えた。ぼくは誰かにそんな風に対等に見られたことがなかったということに今さら気づかされた。もう一度会いたいかと問われたらよくわからない。あまり会いたくないような気もした。それでもぼくの中でアクセルは大きな存在になっていた。
◇
シオンズゲイトにイマースせずにみらいの町へ来たのは久しぶりだった。あのゲームを始めるまでは人の気配のないこの景色の方が見慣れていたのに、今は寂れている方が不思議に感じる。ゲームの中と同じようにペデストリアンデッキはある。しかしそこに組み込まれた人を運ぶための装置はみんな沈黙している。ぼくは停止したエスカレータをのぼった。止まっているエスカレータは階段と同じようなものなのに、一段目に足を乗せるとき大きな違和感に襲われる。止まっているエスカレータを認識して、頭では理解しているつもりだ。それなのに視覚情報からエスカレータを認識したサブシステムが、自動的に踏み出す足を補正しようとする。動くエスカレータのステップに乗るための補正をかけようとする。ものごとに慣れるというのはこのサブシステムを作ることに他ならない。止まっているエスカレータは普段見えないサブシステムの存在を浮き彫りにする。一段目さえ踏んでしまえばエスカレータ用のサブシステムは処理を中断して階段用のサブシステムに引き継がれる。違和感は半紙に落とした水滴のようにいつの間にか姿を消す。ぼくはこういうサブシステムを意識する瞬間に、自分というのはソフトウェアのようなものなのかもしれないと感じる。
エスカレータをのぼりきると動かない動く歩道がある。動く歩道なんていう呼称をそのままにしておくからわけのわからない言い回しになる。これも名前の呪いだ。古い新幹線みたいなものだ。動かない動く歩道に一歩目を踏み出すとやはり違和感を覚えた。これもぼくの中でサブシステム化されていたということだろう。
通路の先にあるひときわ巨大な建物の前で立ち止まり、その頂を見上げた。灰色の空が思ったよりも低いところに重く淀んでいる。この巨大な建造物はビルディングではなく柱のように見えた。空が町を押しつぶさないように支えている柱だ。人がいなくなったから柱になったのか、あるいは人がいる頃から人もろとも柱だったのか。
ぼくはビルの入口の前に立つ。見覚えのあるエントランスだ。ここへ、人がいなくなったこの場所へ来たことがあっただろうか、と記憶をたどる。はっきりしない。鮮明に覚えているのは人が行き交っていた景色だ。あれは最初にシオンズゲイトへイマースした時だったろう。このエントランスで建物の名前を端末のカメラに収めたらミッションがスタートしたのだった。ぼくはそんなことを思い出しながらゴーグルごしにビルの名前を見上げた。ランドマークタワー。期待されなくてもランドマークになれたはずのビルを縛った運命の名前。名前とは呪縛だ。
ゴーグルごしに見つめていると情報が表示される。これはゲームに関係なく用意されている機能で、
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じょおうのあしもとでさしのべられるてをとれ
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