第10話

 この列車はぼくのためだけに用意されたシオンズゲイトに関するものだという確信があった。イマース空間でならいざしらず、外の世界でこういうことをやるのにどんな手続きが必要なのか、そもそも可能なのかといったことが頭の中で渦を巻いていた。鉄道は線路の敷かれた場所しか走れない。だとするとわざわざこんな専用列車を用意しなくとも、その場所へ来いという指示を出すだけで事は足りるような気がする。これはただのゲームではない。そういううたい文句だったし、これまでにも何度か本当にそう感じたことはあった。今この列車に乗ってぼくはさらに認識を改めた。これは本当に文字通りの意味でただのゲームではないのだ。なにか途方もないことに足を踏み入れたんだという気がした。


 ぼくは窓の外を見る。真っ黒だ。黒い壁にときどきなにかの設備のようなものがあるけれど過ぎ去るのが速すぎて捉えられない。地下鉄だから今どのあたりを走っているのか窓を見てもわからない。ぼくはゴーグルで位置情報を呼び出す。しかし地下だからなのか、乗り込んだ駅のあたりから更新されていなかった。

「さあ、どこへ連れていかれますやら」とぼくはひとりごちた。内側が不安で満たされそうだったから余裕のありそうな言葉を口にしてみたのだ。ぼくは椅子に座って手近な手すりを握りしめていた。そのまま車内を見回したり窓の外を見たりを繰り返した。しばらくそんなことを続けて、やはりおかしいということを確信した。行けども駅につかないのだ。列車はほとんど一定の速度で走り続けているように見える。あの駅からどちらへ進んだとしても、ほどなく次の駅があるはずだった。そこに停まるにしろ通過するにしろ窓からホームが見えるはずだ。それなのに列車は暗いトンネルの中を走り続けている。ぼくはもうとっくにとことん付き合う覚悟を決めているつもりだったのに、改めて覚悟を決め直す必要があった。なにを覚悟しているのかもよくわかっていなかった。この先もきっと何度も覚悟を更新する必要が出てくるだろう。


 ぼくはゴーグルで時計を表示した。乗り込むときに見ておかなかったのでどのぐらい時間が経っているかはわからないけれど、おそらくまだ十分程度しか経っていないだろう。窓から見える景色というものがなく駅も通過しない。ただ真っ暗なトンネルを走り続けている。こんな状態では時間の感覚がおかしくなる。十分後が永遠に来ないような錯覚に陥る。手すりを握る手に力が入る。掌ににじみ出た汗を感じる。イマースモードではどうせゲームだという割り切りがぼくを強くしてくれた。ゲームでなら誰だって勇者になれる。ふだん学校で堂々と発言したりできないような人でも世界を救える。ぼくはそういうゲーム世界にしか足場を作れない人たちを軽蔑していたし、ほとんど嫌悪していた。でも今はわかる。その嫌悪感は自分だってそれと大差ないということから目を背けるためのものだ。


 今この状態だってゲームがもたらしたものだ。そういう意味ではゲーム世界と言える。でもイマースしていない。これは現実の延長なのだ。ぼくはそのことがたまらなく不安だった。いつまで走っても隣の駅に着かないこの列車はいったいどうなっているのか。位置情報は相変わらず更新されない。自分がどこにいるのかも、どこへ向かっているのかもわからない。それでもこれは自分の選んだ道だ。最初に「これから起こることを承諾したことになる」と書いてあったのに〈すすむ〉を選択したのはぼく自身なのだ。ぼくはその行為がもたらした責任の重さを初めて知った。


 窓の外を見る。前の車両を覗き込む。後ろの車両を覗き込む。窓の外を見る。前の車両を覗き込む。後ろの車両を覗き込む。窓の外を見る。いつしかぼくはほとんど無意識にその動作を繰り返していた。体は一定のサイクルで動き続けている。目はその都度ほとんど同じ光景を送り続けている。脳はもはやなにも処理していない。差分処理のための待機状態のように視界になにか変化があるまで活動を停止したようだった。動体検知のAIはこんな風に世界を知覚しているのかもしれない。


 一人でいることには慣れているつもりだった。いつだって一人だったし、周りに人がいるときでさえぼくはそこに存在していないようなものだった。今初めて、ぼくは一人でいることを心細いと感じていた。


 目よりもわずかに早く耳が変化を感じ取った。一定の間隔で響いていた列車の走行音から中低音が急激に減った。先頭車両から順にトンネルを抜け、トンネルの壁で反響していた列車の走行音が解放されていく。ぼくは考えるよりも早く前の車両を覗き込んでいた。先頭車両から光の中へと出ていくところだった。列車は皮をむかれたバナナの果肉みたいにトンネルの外にその身を晒した。ぼくの目は急な明るさの変化についていけず、一時視界が白く飛んだ。ぼくは目をしかめて光量を落としてからゆっくりと目を開く。虹彩の動きを助けながら目が慣れるのを待った。


 列車は高架の上を走っていた。見覚えはない。たいしたことを考える間もなく駅に到着した。ぼくは反射的に立ち上がって扉のところへ行く。列車はホームに滑り込んでいく。ホームの島をいくつも持つそれなりに大きな駅だった。列車は減速し、やがて停車した。扉が開く。ぼくは少しためらった。しかしぼくのためだけに現れた列車がぼくをここへ連れてきてこの駅で扉を開いたのだ。ここへ降りろという意味に違いないだろう。ぼくはホームへと降りた。


 ホームの島は四つあり、その全体を覆う天井がついている。両側にはガラスの壁がある。4つの島が全部一つの箱に入っているような形だった。天井は鉄骨が張り巡らされていて、その重そうな構造体を、ホームの上の逆さにしたエッフェル塔みたいな白い柱が支えている。柱だけで組み上げられているようなその天井はつまようじで組まれた五重塔を思い起こさせた。ホーム全体が高架になっていて、改札はおそらくここから下へ降りたところにあるのだろう。ホームの中央付近にはガラスの箱があり、その箱の中から階段で下へ降りられるようになっている。箱の中は両側の壁に木の格子が組まれていて、階段をおりていくと周囲の壁も木目が露になった板で埋め尽くされていた。ホームの上は鉄骨の天井、下は木の壁。冬の寒い屋外から暖かい部屋の中へ入ったような感覚を覚えた。改札はさらに下のフロアだった。ぼくはエスカレータに乗って階下を目指す。エスカレータ横の壁にはぎっしりと木の板が敷き詰められていて、よく見るとそのひとつひとつに文字が書いてあった。ぼくはその文字に目を走らせた。TAKAHASHI、OGATA、YAMASHITA、KANEKO、ITO…。名前だ。板一枚の左右に一人分ずつ、名前が書かれていた。名前にはそれぞれ五桁の数字がついている。周りを見回すとエスカレータの横以外にも同じような名前の書かれた板がかなりの数で敷き詰められていた。ぼくは圧倒された。何の名前だろう。かなりの人数だ。一枚の板には二人分の名前が書かれているけれど、多くの板で同じ苗字だった。夫婦、兄弟、親子、きっとなんらかの血縁だろう。ここに名前のある人たちはいったいなんなのだろう。この駅を作った人たちなのか、あるいはここで死んだ人なのか。こうして建造物に名前を残すのはなにかの記念か慰霊か、そんなところだろう。


 ぼくはぼんやりと壁を見上げながら改札口へ近づいた。予想していた通り、ぼくが近づくと改札機はそれを待っていたみたいにひとりでに開いた。改札を抜けると正面に少女が立っていてぼくのことを睨みつけていた。ぼくと同じぐらいの背格好で、年もほとんど違わないように見えた。遠くからでも目立つ濃い薔薇色のスニーカー、くるぶしがやっと隠れる程度の短いソックス、膝のところで引きちぎられたようなデニムのパンツに少し大きすぎる柿色のパーカーという服装で、艶のある黒い髪を肩に届かないぐらいに切りそろえている。手入れの行き届いた刃物みたいな顔立ちで、強い意志を秘めた目でぼくを見ていた。

「あんた?」

 少女が言葉を発した。

「え?」

 ぼくが驚いて声を上げるのとほとんど同時にあたりに警報が鳴り響いた。警報を発しながら警護ロボットが通路を走ってくる。

「え?」

 今度は警護ロボットの方を向きながら声を上げた。顔を戻すとほとんど鼻と鼻が触れるほど近くに少女の顔があった。驚きの声を上げる間もなく少女はぼくの手首をつかんだ。

「行くよ」

 少女は強い目でぼくを貫き、そのままぼくの腕を引っ張って走り出した。ぼくはほとんど全速力で走った。それでも少女のほうが速く、ぼくは猛烈な力で引っ張られながら必死についていった。警護ロボットは次々に現れ、ぼくらを追ってくる。トマリナサイ、トマリナサイ、と連呼している。ぼくは後ろを振り返る余裕もなくただひたすらに足を動かした。警護ロボットは何台か追ってきているはずだけれど何台いるかを見る余裕はなかった。ぼくの腕を引っ張っている少女は一度も振り返らない。パーカーのフードが背中で飛び跳ねている。少女は高架下の駐車場へ駈け込んでいく。不意に引っ張られていた腕が緩み、ぼくの視界からパーカーの背中が消えて代わりに見慣れない車が飛び込んできた。パイプのようなフレームでできていて壁も扉も天井もない。かろうじて正面の窓だけはあったけれど、ガラスではなくアクリル樹脂みたいな素材でできているようだった。車というよりジャングルジムにタイヤがついているようなもので、子どもの工作のようにも見えた。

「乗って。早く」

 車の向こう側へ走り込んでいた少女が言った。ぼくは状況が飲み込めないままジャングルジムにもぐりこんだ。入り組んだパイプの中にレーシングカーみたいなシートがあった。ぼくはどうやって乗り込めばいいかわからず、シートの上に膝をつくように乗ってしまってから、やっとの思いでようやく腰を落ち着けた。警護ロボットが車のフレームに手をかけようとしたその時、ぼくはシートの背もたれに叩きつけられた。高い回転音が鳴り響き、止まっている状態からいきなり相当なスピードでスタートしたのだ。スタートしたとたんに九〇度回転し、横滑りしながら駐車場内の通路を走り抜ける。警護ロボットはあっという間に見えなくなった。ぼくは車の姿勢が変わるたびに体内の血液が体の一部に押し寄せるのを感じた。視界は処理速度の限界をはるかに超えた速さで更新されていて何が起きているのかまったく把握できなかった。車はいつの間にか道路へ躍り出て車道をかなりのスピードで走っていた。

「もう大丈夫」

 しばらく走ると少女はそう言ってスピードを緩めた。視界の更新速度が下がってようやくぼくは受け取った情報を処理できる余裕ができた。ぼくらが乗っている車はとても小さく、車体を支えるサスペンションのスプリングやダンパーが露出していた。タイヤは前輪よりも後輪のほうが太く、径も大きい。少女が運転し、ぼくはその隣に座っていた。シートは二人分しかない。背中のすぐ後ろにモータがあって、少女の操作に応じて回転数が変化している。高回転になると音も高くなった。

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