第90話 残り56日 勇者、クモコの進化を知る
勇者アキヒコは、魔王ハルヒに成すすべもなく敗北した。
しばらく意識が混濁し、視界がはっきりとしたとき、自分の体が治療されていることを知った。
折れた左腕と脇腹、右手に白い糸が巻かれ、脈動する痛みはあったが、苦しむほどではなかった。
アキヒコは、人の形をした何かが、魔術師ペコに覆い被さるようにしているのに気がついた。
「誰だ?」
魔術師ペコに覆いかぶさっていた何者かが、立ち上がり、振り向いた。それでも、女性らしいという輪郭以外はわからない。まるで、昆虫の蛹の中身を見ているようだった。
「もう、大丈夫」
ぎこちない声音は、初めて聞いたものだ。だが、アキヒコには思い当たるものがいた。
「まさか……クモコか?」
「はい」
「お前が、治療してくれたのか?」
「はい」
血を止め、折れた骨を元の位置に戻し、固定する。簡単にそれだけだが、十分な治療だ。
「その姿はどうしたんだ?」
「進化……した……」
「女神セレスの血のおかげか?」
クモコも、セレスが恐れた剣で貫かれた。だが、クモコは神ではない。クモコの破れた腹のなかに、進化の邪神セレスの血が大量に流れ込んだのを見た。さらに、外側からも全身に浴びたはずだ。
女神を名乗り、邪神として討たれたセレスは滅んだ。勇者アキヒコは、そのことだけは理解できた。
「……はい」
クモコが立ち上がり、アキヒコの前に膝を付く。やはり、流動する液体で体がつくられているように、凹凸も陰影もない。
「でも……まだ血が足りない。形までは……つ、つくれない」
「このままだと、どうなる?」
「多分……崩れる……」
クモコが自分の腕を持ち上げた。腕から、おびただしい液体が糸を引いて落ちた。人型を維持できず、体が崩れ始めている。
「……女神の血か。しかし……女神はもう……」
「ある……ご主人の中……」
アキヒコは思い出した。アキヒコに力を与えた少女セレスは、自分の血を飲ませた。血によって、進化を促すのがセレスの力なのだ。
アキヒコは、右手を差し出した。左腕は折れている。動かせない。アキヒコの意図を悟り、クモコが右手を覆う糸を外す。
アキヒコの右の手の平から、血が滴り落ちた。
「女神の血をもっと吸うと、どんな姿になるんだ?」
「……たぶん……ご主人と同じ。ご主人が……一番知っている姿……」
「僕と同じか……クモコは、それでいいのか?」
クモコは頷き、アキヒコが差し出した手のひらに噛み付いた。傷口は塞がっていない。アキヒコは、大量の血が流れ出ていくのを感じた。
アキヒコの体内にある女神セレスの血は多くないだろう。だが、勇者の血である。栄養があるのか、クモコの姿に徐々に陰影が宿っていく。
クモコは、体の変化に疲れたのか、あるいは安心したのか、腹が一杯になったのか、アキヒコに寄りかかって眠ってしまった。
服を着ていない。クモコなのだから当然だ。全裸の女性の体がアキヒコに寄りかかっている。アキヒコは、苦労して自分の上着を脱ぎ、クモコに着せた。
視線の先で、魔術師ペコが体をうごかした。
「ペコ、意識が戻ったか?」
「アキヒコ……離れて! そいつは魔王よ! 覚えているわ! 王城の庭園に現れた!」
アキヒコは、人化したクモコの姿を見ていない。突然ペコが叫んだ。その意味がわからなかった。
「待て! これはクモコだ。進化したんだ! 僕たちを守ってくれた。敵じゃない!」
「……クモコですって?」
呟くと、ペコは床に倒れた。叫べるような体調ではなかったのだろう。再び意識を失ったようだ。
アキヒコは、自分の胸に寄りかかって寝ているクモコの体を引き剥がした。
どう見ても、ハルヒだった。
アキヒコの血を大量に吸ったクモコが、人間の姿に進化した。進化したのは、アキヒコが最も知る姿になる。クモコ自身がそう言ったのだ。
「……まさか、ハルヒか……当然だな。好きだったんだ……好きで、結婚したんだものな。ずっと一緒に……一生、離れるつもりはなかったのに……」
アキヒコの目から涙が溢れた。
全裸のクモコの姿が、ハルヒと同一かどうかまでは、アキヒコにはわからない。
アキヒコは、ハルヒの全裸を見たことがなかった。事故を起こし、異世界に旅立たされることになったあの日、事故がなければ、ついに見ることになる予定だったのだ。
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