第89話 残り57日 魔王、勇者と対峙する

 魔王ハルヒは、飛び込んだ民家で、担いでいた長剣を構えた。


「アキヒコ! 首は洗ってあるのでしょうね!」

「あ、あの剣は……ど、どうして魔王が持っているの?」


 アキヒコにまとわりついていた邪神セレスが、悲鳴にも似た声を上げた。

 ハルヒは、堕天使サキエルから聞いた伝承を思い出した。


「あんたを殺すためよ」


 ハルヒが床を蹴る。神殺しの剣を振り上げる。

 狙ったのは、勇者ではない。サキエルが言ったとおりなら、ハルヒの持つ剣はただ一人の邪神を封じるために宇宙から地上に落されたことになる。


 その邪神が、解放されて目の前にいる。勇者より優先すべき標的に、叩きつける。

 セレスを狙った。だが、その手前で止まった。

 アキヒコがハルヒの剣を左腕で受け止めていた。盾を持っていなかった。クモコに体液を吸わせたために盾を外していたとは、ハルヒが知るはずもない。


 軽くなったとはいえ、巨石を凝集した密度を持つ剣は、アキヒコの左腕を折り、胴体に達した。

 アキヒコが踏ん張りきれずに吹き飛ぶ。セレスを巻き添えにした。


「アキヒコ、お願い。守って」


 セレスの泣き声が聞こえた。アキヒコにしがみついているのがわかった。


「いいご身分ね。アキヒコ!」


 再び床を蹴り、吹き飛んだ勇者と邪神に、一気に詰め寄る。

 神殺しの剣を引き付けて脇に構え、剣の切っ先を向ける。

 ハルヒが狙ったのは、アキヒコではない。アキヒコの脇腹に張り付いているセレスだ。ハルヒには、セレスが人間には見えていなかった。


 堕天使サキエルが教えたように、世界を混乱に陥れた邪神としてしか認識していない。世界を救おうと思ったのではない。単にアキヒコの不倫相手の一人で、しかも殺すのに躊躇しなくていい相手だから、殺そうとしているのだ。


 剣が届く。その寸前で、アキヒコが剣先を掴んだ。

 左手は折れてぶら下がっている。剣を握った右手の皮が摩擦で破れ、血がほとばしる。

 クモコが、迸った血を求めてアキヒコに飛びついた。


 まだ食事は終わっていなかったのだ。

 アキヒコの力は、山を崩す剣を持ち上げられるほど進化した。だが、それでも魔王ハルヒが押し込む力が上回った。

 アキヒコの右手が破壊され、血で滑った剣が解放される。ハルヒは押し込んだ。


「キシャアァァァァ!」


 クモコの腹に剣が埋まる。アキヒコの血を求めて飛び出し、たまたま剣の通り道に飛び出し、貫かれた。クモコが足をばたばたと動かした。

 さらに、ハルヒは剣を押し込んだ。


「ぐっ……ひいぃぃぃ!」


 ハルヒが十分な手応えを感じた後、剣を引き抜いた。

 クモコの体に空いた穴を通して、血が噴水のように吹き上がった。

 クモコに血はない。体液は赤い色をしていない。吹き上がる血は、女神を名乗る邪神セレスのものだ。


 腹を突かれたクモコが、ひっくり返ってもがいている。

 ハルヒは、すでに倒れたまま身動きもしない人間たちに視線を向けた。

 アキヒコが、視線を遮るように動いた。ハルヒと意識を失ったままの人間たちの間に割り込んだ。すでに、勇者に魔王ハルヒに立ち向かう心はへし折られていた。


「ハルヒ、頼む。ペコとギンタは……見逃してくれ」

「私が知らないとでも思っているの? この女は、お気に入りの一人よね。王都のお姫様の腹には、あんたの子どももいる」


「ど、どうして、それを……」

「知っているのかって? 見たのよ。直接ね」


「ハルヒ……もう、誰も聞いていないから、本気で言う。僕は……勇者だからって、魔王を倒したいなんて思っていない。ハルヒ……異世界に来てうかれていたかもしれない。でも……ハルヒのことが好きなんだ」

「虫酸が走るわ」


 言いながら、ハルヒは左手の薬指にはまっていた指輪を、引きちぎった。

 ただの金属片になった約束の指輪が、アキヒコの前に捨てられる。


「悪くない結果ね。勇者など、恐る必要はない。それが、はっきりとわかったのだから」


 ハルヒは、腹を刺されて虫の息となっているセレスの髪を掴み、視線の高さまで引き上げた。


「世界を混乱に陥れるか……その力、私のために使ってみたくはない?」


 セレスは口から、血の混じった泡を飛ばした。


「くたばれ、魔王」

「結構」


 ハルヒは、神殺しの剣でセレスの頭部を刎ね飛ばした。


「サキエル、いる?」

「はっ」


 堕天使サキエルがハルヒの前に膝をついた。


「戻るわ。飛んで」

「いいのですか? 勇者と仲間たち、殺すには絶好の機会ではないでしょうか」

「私が手をかけるほどの値打ちはない。それが、はっきりしたところよ」

「承知しました」


 堕天使はハルヒを抱え、上空に飛び立った。

 抜けてきた縦穴を降り、再び赤鬼族のノエルたちと合流した。

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