3 満月の下のドラゴン
部屋まで子犬を連れて帰り、ベッドの上で後ろ足の怪我を見てみる。
小さな切り傷があるだけでぱっと見大事はないようだが、痛がっているし、骨に異常があったりしたら、さすがにファナでは分からない。
とりあえず応急処置に、擦り傷に効くハーブと痛み止めの薬草を混ぜて磨り潰し、患部に塗る。
包帯を巻いて、頭を撫でてやると、子犬は膝の上でうっとりと目を閉じた。
「おねぇちゃん良い匂いがする……ママと同じ匂い……紫の花の匂いだ……」
「ラベンダーかしら」
先ほどの薬も石鹸に混ぜて使っているラベンダーも、城のハーブ畑からくすねてきた物だ。
庭師には少々申し訳ないが、こうして役に立ったので許して欲しい。
「ママね……お空に帰ったの……おそーしきだったんだけど……ボク出たくなくて、馬車の荷台にかくれたの……」
安心したのか、痛み止めの効果が出たのか、子犬の声は眠そうだ。
「そうしたら……すごく遠いところまで来ちゃった……このままおうちに帰れなかったらどうしよう……」
子犬がうとうとしながら顔をこちらに向ける。
「ぼく、ひとりぼっちになっちゃう……。
おねぇちゃん、いっしょにいてくれる?」
「ええ、いいわよ」
「じゃあ、ぼくのおよめさんになってくれる?」
その言葉にファナは思わず頭を撫でていた手を止めた。
子供の戯れ言と分かってはいるが、驚いたのだ。
「ま、まだ名前も知らないけれどね」
そう答えると、子犬は今までの眠気もどこへやら、ぱっと目を見開いて首を上げる。
「ぼく、ぼるふがんぐっていうの! かっこいい名前でしょ?」
自慢げにそう言って、尻尾をぶんぶん振る。
「ヴォルフガング……」
この小さな犬にはいささか大仰で不釣り合いではなかろうか。
そう思ったが、彼があまりに嬉しそうなのでファナは黙っていた。
「ぼるふって呼んでいいよ!」
「ぼ、ヴォルフ」
さっそく呼ぶと、子犬はワオーンと遠吠えをした。
慌てて唇に人差し指を立てる。
「しーっ!」
えへへ……と笑ってごまかすヴォルフ。
「わたしはファナよ」
「ふぁなちゃん! じゃあ、ふぁなちゃん、ぼくのおよめさんになってくれる?」
これはおままごとみたいなものかもしれない。
十年の人生で、一度もおままごとをしたことはないけれど。
そう考えて、ファナは頷いた。
「いいわ。ヴォルフのお嫁さんになります」
答えると、子犬はぱぁぁっと顔を輝かせ尻尾を振った。
再びこちらの膝に顎を乗せると、ぺったりと耳を伏せる。
頭を撫でろということなのだろう。
希望通りにしてやると、くぁ……っと大きく口を開けてあくびをした。
(さて……これからどうしようかしら)
子犬を撫でながらファナは内心頭を抱えた。
朝になれば、地下牢が空っぽなことがばれてしまう。
城の外に逃がすとしたら、裏手の森の中だろう。
あそこなら、隠し通路から古い涸れ井戸を抜けて行ける。
だが問題は――……、
(この子一人で、とても生きていけるとは思えないわ……)
森の中でまた罠に掛かるか、違う人間に捕らえられるか。
(家はすごく遠いって言ってたし……)
本で読んだことがあるけれど、確か獣人の国は東の果てにあるはずだ。
もう自分もここを抜け出して、この子犬と一緒に旅をしようか。
(それは……とても楽しそうだわ……)
そんな事を考え始めた、その時。
「…………!」
ぴくりと子犬の耳が動いた。
かと思ったら、
「……にいちゃんだ!」
ばっと起き上がり辺りを見回す。
「え?」
「ふぁなちゃん! にいちゃんの音がする! にいちゃんがちかくにいる!」
ベッドから飛び降りてくるくる床を回り始める。
「ぼく、おそとに行きたい!」
「わ、分かったわ! 分かったから!」
興奮する子犬を抱き上げてなだめると、ファナは部屋を抜け出し隠し通路に入った。
そこから涸れ井戸を目ざし、井戸の中の階段を上ると、城の裏手の森に出る。
森の中は暗く、空には大きな満月が懸かっていた。
その満月が陰った。
雲ではない。
鳥――……いや、それよりももっと大きなものが翼を広げて飛んでいる。
「……ドラゴンだわ……!」
ファナが呟くのと同時に、彼女の腕の中からヴォルフが飛び出した。
「にいちゃん!」
「え!?」
尻尾を振り、嬉しそうに地面を飛び跳ねながら子犬がこちらを見る。
「にいちゃんのママはね、どらごんなの」
つまり腹違いということだろうか。
こんなに嬉しそうにしていることだし、仲は良いのだろう。
自分と妹とは大違いだ。
そう思って、ファナは少し寂しくなった。
ドラゴンは十匹ほどの群れでこちらに向かって来る。
「にいちゃーん!」
ヴォルフが遠吠えをする。
やがてファナの目の前に、三メートルほどの巨大な竜が降り立った。
青い鱗が月明かりを反射している。
ヘビのような金色の目に睨まれて、ファナは思わず一歩後退った。
「にいちゃん、ふぁなちゃんがね、たすけてくれたよ!」
ドラゴンの足元まで駆け寄りじゃれつく子犬。
あまりに大きさが違うので、踏み潰されないか心配だ。
「……人の子、弟が世話になったようだな」
低く抑揚のない声。
言葉が出ずに、ファナは無言で首を振った。
その間にヴォルフは後ろ足二本で立つと、兄が腰に下げていた短剣を引き抜いた。
あっという間の出来事だった。
彼はその短剣で、自分のたてがみの一部を切り取ったのだ。
「あ、ああ!」
悲鳴のような声を上げたのは、兄のすぐ横にいた、黒い羽毛の小柄なドラゴン。
「お、おま……! 何してるん!?」
一方のファナは、ヴォルフを今まで完全に子犬と同じ扱いで見ていたので、二足歩行できることや、そんなに器用にナイフを扱えることに、純粋に驚いていた。
「いいから、れねおじちゃん、それちょーだい」
ヴォルフは、黒い羽毛のドラゴンの冠羽に飾ってあった黄色いリボンを指さす。
「おじちゃんはヤメロっつってんだろ!」
文句を言いながらもレネと呼ばれたドラゴンは、鶏に似た長い前足で頭からリボンを取った。
「ぼく、ふぁなちゃんをおよめさんにするの。やくそくしたの」
切り落としたたてがみをそのリボンで束ねると、ヴォルフはまるで花束のようにそれをファナに渡す。
「ほぉう……」
兄ドラゴンの眼が細くなる。
「人の子、名は何という」
「ふぁ、ふぁな……」
喉から出た声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
「ファナティアス・フェイ・ネモフィラ」
「ねもふぃらって……」
頭を抱え始めたのは、やはりレネおじさんで。
兄ドラゴンはなぜか心底楽しそうにくつくつ笑った。
「ふぁなちゃん、それなくさないでね。やくそくだからね」
念を押すヴォルフに、こっくりと頷く。
やがて彼は兄ドラゴンに抱えられ、他の竜達と共に東の空へと飛んで行った。
ヴォルフの影が小さくなるまで見送る。
地平線の向こうから、太陽が顔を出す。
そろそろ戻らなければ。
朝が来て、城の中はにわかに騒がしくなった。
その理由に心当たりはあるが、もちろんファナは黙っていた。
ヴォルフは可愛かったし温かかった。
(あれは夢だったんじゃないかしら)
月明かりの下の竜たちを思い出して、ファナは自問する。
だが彼女の宝物入れである小さな木箱には、確かに黄色いリボンで束ねられた柔らかな赤毛が入っているのだった。
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