4 惚れるか、惚れないか

 あの後、彼女は八一に昼を奢られて夕飯は帰って食べた。あの後の真夜中。誰もいない真夜中を狙って、彼女は体をぬぐっている。

 大きな呉服屋であるのが救いだろう。お風呂場があるが、風呂場がある家は稀なのだ。

 この時代、公衆浴場もあるが混浴である。また民衆の憩いの場でもあり、前に一度とよとなるから誘われたが丁重に断った。八一が語った詐称のお陰で、断る理由も納得してくれている。


 呉服屋の人からも善意で風呂をもらってはいるが、入る回数は少ない。この時代で全身での入浴は贅沢だ。お風呂の湯気が部屋に充満している。呉服屋の店主は熱い風呂が好きなのだ。

 お水で少し温くして、彼女は着物を脱いで篭に入れる。生まれたままの姿になった。麹葉も狐姿で同席しており、彼女と共にお水で桶で持ってきて布で脱ぐって汚れを落としていた。

 お湯にはいる際、麹葉は奈央に抱かれながら入浴する。


[温泉もいいけど、人のお風呂もいいわね……]


 気持ち良さそうに声をあげて、奈央は話題を出す。


「麹葉さんはよくお風呂にはいるのですか?」

[ええ、入ると毛並みがよくなる温泉が稲荷の総本山にあるの。問題がなかったら、八一様と奈央ちゃんを案内したいのだけど……難しいからできないねわね。ごめんなさい]


 父親と仲の悪い八一。狙われて未来から来た奈央。稲荷の総本山に行くのは危険であり、またすべてが終われば彼女は記憶を消される。気持ちだけ受けとり、奈央は感謝をした。


うれしいです。ありがとうございます。麹葉さん」

[ううん、いいの。でも、奈央ちゃん。貴女は八一様を素敵な殿方だと思わないの?]


 聞かれて、奈央は微笑む


「思いますよ。八一さんは素敵な殿方ですよ。あんな人と恋をしてみたいです。でも、ここは過去。私は未来の人間。変に思い出は作らない方がいいです。まだ友情の方が潔く別れられると思うんですよ」

[……でも、奈央ちゃん。それは自分の本当の気持ちに蓋をしているだけよ]


 指摘され、奈央は辛そうに笑う。

 頼れる相手が八一しかおらず、頼りがいもあれば惹かれるしかない。奈央は惹かれつつあるものの、恋心にまでいたってはないのだ。だが、恋心にいたる前に自分から諦めなくてはと彼女は考えている。


「ほんと、八一さんはずるいですよ。あんなの女の子が好きになっちゃうの当然です」


 しかし、今は好きになる状況下ではない。彼女は家に帰らなくてはならないといけないのだ。天井を見上げて、奈央は息を吐く。


「……でも、今でも考えると、記憶を消すのは本当にお互いのためですね。私の中にこの記憶が残り続けると、あの人に恋しちゃいますもん。それに、八一さんからして私は範疇はんちゅう外だと思いますよ」


 長生きであろう彼が一人の女に執着するわけ無い。考えながら彼女は木の格子窓を見る。夏の風が吹き込み、彼女の顔に当たる。湯が少し温くなってきており、奈央は麹葉をつれてお湯からでた。





 髪の毛を水気をとって乾かして、奈央は蚊帳かやの中で眠りに入る。麹葉は部屋から出ていく。外に出ると屋根の上へと飛び乗り、屋根の上に座っている人に声をかけた。


[今日も様子見ですか。八一様]


 ある屋根の上には八一が座っていた。扇で扇ぎながら、彼はあやしく笑う。


「何だ、麹葉さん。気付いていたのか。今まで気付いたなら話しかけてもよかったのに」

[……恐れ多く、話しかけにいけませんでした]


 自分より位が高い狐は近寄りがたいのだ。それを知って八一は聞いており、ごめんと悪びれずに謝る。麹葉は呆れて、八一を見つめた。


[……いつもこうして、あの子の様子を伺っていたのですか?]

「まあな」


 八一は扇を扇ぎながら頷く。


「お嬢さんは本当に平和な時代から来たようだ。普通の日常生活をひいこらひいこらと送ってさ。根性が据わっているのか、頑張がんばってこの時代に慣れようとしている。拍手喝采はくしゅかっさいお見事さ」


 朗らかに笑い、彼女の寝ている部屋を見ている。その目は彼女にも見せぬほど、優しく切なそうであった。


「けど、可哀想だよ。何もわからず巻き込まれて、この時代に連れてこられたんだ。早く家に帰してやりたい」


 扇を閉じて、彼は駿府城を見つめていた。明かりのついた木造の建物はいくつかある。城内には幾つかの明かりがあり、まだ起きている人物もいるのだろう。

 八一は駿府の町並みを見つめながら麹葉に声をかけた。


「なぁ、麹葉さん。未来ってどんな感じだと思う?」

[……未来? ……考えたことはありませんね。私たちは変わり行く世の中を見つめるだけなので]

「……妖怪側の意見はそうなんだよな」


 彼は町並みを見つめて、厄介そうに息を吐く。


「私は半分人だから考えることもあるが、お嬢さんの約束のせいで変に強く考えてしまうんだ」

[……昼間の約束ですか?]


 白狐にうなずき、八一は口許を緩めた。


「ああ、未来で会えたら冷たい菓子を奢れって言うんだぞ?

誠な平和ボケが出来る彼女の未来ってどんなもんなのか、気になったのさ」


 麹葉は確かにと同意する。八一と麹葉は戦国の世で生まれて、百年以上は生きてきた。明るい約束が簡単に出来るほど、未来の日本はある程度平穏なのだと彼らは考えている。彼は閉じた扇を物憂ものうげに見つめて苦笑した。


「けど、範疇はんちゅう外だと思われるのはちょっと失礼だぞ。お嬢さん。お守りをしているといえ私も男だ」


 風呂場での言葉を聞いていたらしい。麹葉は目を丸くしており、彼は苦笑した。


「不可抗力だよ。麹葉さん。風に乗って聞こえてきた話を耳にいれただけ」

[……風。八一様、よもや万物を通して情報収集をなさっているのですか?]

「正解。駿府限定で集めた情報は私のもとにくる」


 驚く白い狐に八一は教える。

 駿府城すんぷじょう下限定なら聞くことが出来ると。集めた情報は式神が簡単に情報処理して本体に来るらしい。淡々たんたんと教えるが、麹葉も出来る芸当てはない。

 彼はふぅと息をついて、町を見る。


「まったく、お嬢さんの方が残酷じゃないか。私が長生きだから女を知り尽くしていると思っている。君個人まで知り尽くしている訳ないのに」


 八一は奈央を好ましく思っている。ぶっちゃけると、八一の女の好みとしてドがつくほどのストライク。つまり、滅茶好みなのであった。彼自身は己の女の好みを把握している。だが、ハートのど真ん中を射ぬかれるとは予想外。意外な好みに彼は驚きつつもにやにやと笑う。


「ふふっ、君はまさか私が好ましく思っていると思ってないだろうなぁ?」

[八一様……獲物を狙う目になってますよ……]


 麹葉のつっこみに彼は笑顔になる。


「あははっ、仕方ないだろ。私だってこんなの予想外だ。最初は保護のつもりで見守っていたはずだったのに、お嬢さんの頑張がんばりと反応、チョロさがあまりにも良くて良くて。こちらが惹かれるとは予想外さ」


 陽気に語るが、奈央が聞くと怒りそうなものばかりだ。八一は彼女と共に時間をすごし、心が満たされている。彼はやわらかな月明かりに照らされながら話す。


「思いやれる彼女の為に私は未来での約束を絶対に果たす。恋愛なんて人からしてみれば何度も出来る。彼女には彼女の善き相手を、私には私に見合う相手を。その方が平和だ」


 関わらぬ方が幸せだと言っているのだ。彼の発言に麹葉は納得はしているが、言いたげに口を開くものの、すぐに閉じる。

 八一は首をあげて、空を見つめた。


「ったく、三代治みよじ。お前の言うとおりだよ」


 かつての組織の相棒の名前を呼び、彼は微笑んだ。

 暫くして八一は屋根を降りようとするが一瞬だけ止まる。笑みを消し、川の方を見た。安倍川あべかわには幾つかの光が見える。麹葉も気付いて立ち上がった。

 船もなく川の上を歩くように進む幾つかの提灯の行列。彼らはいんを組む。


ばく


 言葉と共に遠くの川から大きな水柱が上がり、行列が崩れて提灯の明かりがバラバラとなる。散り散りとなった提灯の明かりは消えていくものの、二つの提灯の明かりだけは川を渡りきる。八一は目を細めて、感嘆した。


「へぇ、思ったより復活が早いな。麹葉さん。奈央が起きたら、この事を伝えておいて。私は町におとりを放ちながら借家に帰る。では」


 彼は屋根から降りていく。麹葉が下を見たとき、八一の姿は何処にもなかった。



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