12 後日談 戻ってきた日常
八月上旬。朝日が入り込み、暑さを感じさせるが昼間よりましな温度。
部屋の棚を拭いて、直文は掃除機をかけていた。隅々まで綺麗になっており、彼の私物は大きなバッグに入っている。一切、彼の痕跡は残っていない。掃除機を元の場所に戻し、部屋にあるバッグを手にして肩にかける。
彼は部屋に一礼して、ドアを閉じて玄関へと向かう。靴を履いていると、後ろから依乃が声をかけてくる。
「直文さん。見送ります」
直文は後ろに向く。依乃も出掛け着の姿で見送る気満々だった。彼は立ち上がって、申し訳なさそうに話す。
「ありがとう。それに、今まで巻き込んで申し訳なかった」
本部から呼び出しがあり、また別の任務が追加された。彼は任務完了の報告はしてあるが、一旦戻ってまず上司に文句を言いに行くとのこと。依乃は「気にしないで」と笑って見せた。
彼女の名前が戻ってから、家の周囲と中で起きる怪奇現象はぱったりとやんだ。名前を取り戻して怪奇現象が減ったのもある。怪奇現象がなくなった代わりに、幽霊と怪異の姿を視認できるようになった為、家と依乃の守りは継続している。
ネットでナナシの名前を調べても、掲示板やSNSに名はない。掲示板で確認できなかった名も確認できるようになっていた。失踪者については、組織の方で処理をして遺族の元に届けているようだ。
彼女は靴を履く。家の鍵を閉めて二人は有里家の前を去っていった。
車道側に彼が歩いて、依乃を車に近づかせないように歩いていく。
見送り場所は近くの橋がある公園だ。
「本当は有里さん達にも挨拶はしたかったけど、代わりに一筆認めて置いたよ。お世話になった品物もリビングに置いてある。君の親御さんが帰ってきたら、感謝と謝罪の旨を伝えておいてくれるかな?」
「はい。本当にお礼は此方がすべきなのですが……」
依乃自身が最大のお礼をしたかった。だが、彼女自身にできることは少ない。親から礼の件を話しても名前の件については絵空事として捉えており、できないだろう。直文は笑って首を横に振る。
「礼なんていいよ。俺自身がその礼を貰っているようなものだからね」
意味がわからず、彼女は不思議そうに瞬きをした。
名前を取り戻して、人として普通の日常を送っている。それだけで、直文は十分な報酬なのだ。
大きなYの字を逆さにしたモニュメントが見える。それは二つの橋を支えていた。川辺にある公園で、依乃の住む地域の人々にとっては地元の象徴的な公園だ。
ジョギングや犬の散歩をしている人が歩いていく。
橋を渡っていると強い風が吹く。
依乃は立ち止まった。少女のポニーテールと首元のネックレスも揺れる。直文も立ち止まって風が吹く方向を見た。
巴川という川が続いていく。流れはそこそこ早いが、彼と彼女は川の先を見るが、住宅街と橋が見えるだけ。川の先には海が繋がっていると解っている。
風の中にある匂い、周囲の建物、木々にいつもの人々。彼女にとってはいつもの日常の風景だったはずだが、景色が明るく鮮明に見えた。いつもの日常に戻ってきたのだと実感し、依乃は泣きそうになる。流れていく川の先を見つめていると、隣の直文は優しく微笑んでいた。
「いつもの平穏な日常があるのは尊いことだ。……だから、君が名のある当たり前の日常に戻れてよかった」
「ですが、戻してくれたのは直文さんです。私はそんなにしてませんし、お礼もたいして……」
彼女が気にしているのは恩義を十分に返せてないことである。依乃が落ち込んでいる姿を見て、直文は顎を触って考える。
「……俺としては、君が幸せに生きているならいいんだ。けど、気にするなんて君は優しいね」
慈しみの瞳で見られて、依乃は顔を赤くして視線をそらす。相変わらず、少女漫画場面製造者な直文に振り回されている。
依乃自身納得できぬならば、ケジメをつけるのを兼ねて直文はあるものをバッグから何かを出す。
真っ白で真新しい便箋だ。中身は入っているらしい。直文はその手紙を依乃に渡す。
「お礼をしたいなら、これをしばらく預かってくれないかな。中身は恥ずかしいから見ないでね。まあ見れないように術はかけてあるんだけどさ」
彼女は手紙を見つめる。誰かに送る為の手紙ではないようだが、依乃は聞きたかった。
「……どうして預かってほしいのですか?」
彼は照れ臭そうに笑う。
「色々と腹を括る為。両想いとわかるのはいいけど、俺は君の気持ちに誠実に答えたい。こんな若作りのじじいでも必死になることあるのさ」
両思いと聞いて依乃は顔を赤くし、直文は頬を指で掻く。話を聞いて彼女は直文のしたいことをなんとなく察した。手紙を受け取り、依乃は胸に抱いて頷く。
「確かに受け取りました」
「ありがとう」
「……はい」
彼女は顔に熱を持って返事をする。
朝の陽光が彼に当たった。彼の艶やかな髪が風になびく。依乃は直文を見ると彼も向いた。目が合うと彼は表情を柔らかくし、彼女も笑って感謝と言葉を述べる。
「……直文さん。……本当にありがとうございました。また何処かで会いましょう!」
別れではない再会を願う言葉。それは彼を喜ばせるもので、光がこぼれるほどの笑顔を見せる。
「当然、また会えるよ。はなびちゃん──ううん、依乃っ!」
音が聞こえるほどの強い風が吹く。彼女は目をつぶって、手紙を飛ばないように抱き締めた。
風が弱まる。彼女が気付いて目を開けて、直文がいた場所を見た。人影もなく、痕跡すら残っていない。周囲の人も直文が消えたことに違和感がないようだ。
彼女が瞬きをして、手紙をつかんで空を見つめた。
依乃は彼の携帯電話の番号も知っているため、会おうと思えば会える。だが、電話をしようとは思わない。SNSのアプリで連絡を取ろうとは思わない。
依乃は直接の再会を願って空を見続けた。
──家に帰り、彼女は手紙を机に閉まった。玄関から鍵を開ける音が聞こえ、依乃は目を丸くする。外からは聞き覚えのある声が聞こえて、依乃は慌てて階段を降りていった。玄関のドアが開いて、父親と母親が入ってくる。
娘の姿を見て、父親は安心した。
「依乃。ただいまっ。元気そうでよかった……!」
母親は靴を脱ぎ捨てて、彼女を抱き締めた。
「依乃。ただいま! ごめんね! どうしてもはずせない仕事で……ごめんね。……本当に何もなくてよかった。久田さんのお陰ねっ……よかった……っ!」
胸を撫で下ろす母親。二人の口から自分の名前を聞こえて、彼女は目を丸くする。久しぶりの二人からの名前呼びに涙を流した。娘が泣く姿に両親は驚く。
「依乃? どうした?」
「何処か痛いの、依乃。大丈夫?」
二人は事情を知らないため、愛娘の泣く姿に戸惑うのは仕方ない。依乃は涙を拭って、笑顔を浮かべる。
「ううん、なんでもない。……お父さん、お母さん。お帰りなさいっ!」
彼女の笑顔は、五年前に打ち上がるはずだった花火であった。
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