Chapter4 泥の海 ⑧

 フェリクスが次に意識を紡ぐと、そこは見慣れた流山おおたかの森駅前の広場があった。

 陽が傾きかけ西の空には茜色と暗い群青の夜空のコントラストがあった。

 右手首の手錠端末を見る。だが、そこにはあるべきものが無かった。

 代わりに手首に巻かれていたのは昔、亡くなった父の形見として譲り受けたクロノグラフだった。

 示していた時刻は午後五時頃。この場を通りすがる人も、ショッピングモールを利用する人も随分減ったのに、植樹には綺羅びやかなクリスマスの装飾が施されており、余計に寂しさを際立たせているように思えた。

 見慣れた場所の見慣れない光景に困惑するフェリクス。そしてあり得ない姿がフェリクスの前に現れた。

「久しぶり、お兄ちゃん」

 ひょっこりと姿を見せた少女。自分が守りたかった存在。守りきれなかった存在。小島蜜李。

 ということはこれも悪夢の一つか、とフェリクスは胸の内で静かに納得した。これから待ち受ける罰を受け入れるように。今際の際の光景が罰としての悪夢なら素直に受け入れざるを得ない。

「お兄ちゃんが夢で見ていたアタシは、お兄ちゃんの罪の意識がカタチになったもの。お兄ちゃんってほんと真面目だよね。本物のアタシはあんな酷いこと言わないよー。それともそんな風に見てたの?」

 首をかしげてみせて、意地の悪そうな笑みを浮かべる蜜李。

「結構ワガママだったじゃん、お前」

 それに、とフェリクスは微かに目を伏せてトーンの落ちた声で続ける。

「俺はお前を守ることができなかった。俺は弱かった。だから、あんな悪夢を見させられて、蜜李から酷く言われることも当たり前だと思っていた」

「お兄ちゃんひどーい! でもお兄ちゃんがそんな風にずっと思っていてくれてたなんて、嬉しいな」

 ならば目の前にいる彼女は――

「そう。これは夢じゃない。アタシはフェーリャお兄ちゃんの中に宿った蜜李のほんの少しのカケラ。だけど正真正銘の蜜李でもあるよ」

 オーバーレゾナンス――。そうか、そういうことだったのか。フェリクスは微かに目を伏せて、理解を得た。

 あの時、わずかにでも焼き付いたレゾナンスのひとかけらが、俺に力を与えていてくれたのか。

「お前は……ずっと、俺を守っていてくれたのか……」

「えへへ、アタシ、あんまり強くなかったけど、こういう風にお兄ちゃんの助けになれているのなら、良かった」

「お前は、強かったよ。蜜李がいてくれたおかげで、俺はここまで戦ってこれたし、これからも戦っていける。でも蜜李、お前は……」

「なぁに、お兄ちゃん」

「お前は……俺と一緒にいることができて良かったか?」

 フェリクスの言葉に蜜李は困ったように苦笑を浮かべた。

「お兄ちゃんはまだ迷ってる」

「迷ってるって?」

「前を向いて生きることを。あの娘と一緒に戦うことを、アタシに申し訳ないと思ってるの」

 自罰的なフェリクスを否定ように、そして赦すように蜜李はゆっくり首を横に振った。

「アタシはお兄ちゃんの呪いになんかなりたくない。お兄ちゃんの力になりたいの。だから名前を呼んであげて」

「蜜李……いや……」呼ぶべき名前はそれではない。「史香……!」

 その名を持つ者がこちらの存在を手繰り寄せられたのか、フェリクスの右眼にアメジストの輝きが戻った。

 そしてオーバーレゾナンスの証として、左眼にも輝きが灯る。

 だがその毒々しい紫の眼睛が徐々に赤みが混じり始めた。

 血の紅。あるいは焔の輝き。紅蓮のそれへと変貌する。

「これでアタシはお兄ちゃんの中で燃え尽きて、溶けて、本当に一つになる」

「それは……」

「うん。お兄ちゃんが考えてる通り。もうお兄ちゃんを悪く言う悪夢も見ずに済むし、今回が初めてだけどこうやって幻の中でお兄ちゃんと会うこともなくなる」

 もう悪夢であろうと、蜜李に会えなくなる。懺悔の機会は永遠に失われる。

「……そうか」

 寂しさを露わにした微笑を浮かべ、フェリクスは蜜李に歩み寄ると、そこで跪いて祈るように彼女の手を両手で取り、額に当てた。

「……お前にはもうどんな言葉をかければいいのかわからない。どんなに謝ってたところで何にもならない、意味が無い」

 涙で詰まった声で、とつとつと語りかける。握った手の熱が徐々に自分の中に移っていくのがわかった。

「だから、ありがとうって言わせて欲しい。俺を守っていてくれて。そしてこれからも守ってくれて……」

「……ずっと、その言葉を聞きたかったよ、お兄ちゃん」

 そうして蜜李だったがモノの最後の一欠片が溶け落ちると、それが自分の中に染み入ってくるのがわかった。

 周りの光景も霧散していき、五感に現実感が戻ってくる。息苦しい、冷たい、暗い、動きづらい、生臭い。そうだ、自分はたしか、海に落ちて……。

 まったく、現実なんてこんなものばかりだ。

 確かに自分の中に宿った、自分とは別の熱を確かめて、身を包む不快感に抗うようにフェリクスは右眼から感じる繋がりを手繰っていった。


 史香の左眼が毒々しい輝きを取り戻す。

 それは史香とフェリクスの意識の共鳴であり、二人の繋がりが戻った証左でもある。

 フェリクスの存在が確かに戻ってきた感覚に史香は驚き、背後を振り返ると、まるで何かが爆発したように水柱が勢いよく上がった。

 汚れた海に引きずり込まれまいと蘇る。薄汚い東京の曇り空に僅かに差し込む陽の光に、フェリクスの姿が逆光の影となって浮かび上がる。

「フェーリャさん!!」

 フェリクスが空中で静止する。磁力による足場を幾重にも重ねて設置し、敵への足がかりとする。

 三浦がフェリクスの存在を認識すると、脊髄触手が一斉にフェリクスへ鋭く向かっていく。だが――

「うおぉぉぉっ!」

 前方に強力な磁力の障壁を展開。襲いかかってきた脊髄触手を片っ端からへし折っいった。

 弾き返すだけで精一杯だった敵の攻撃を粉砕してみせた。初めて三浦に与えたまともなダメージだ。

 史香たちの前に着地すると、フェリクスは人外の如きオッドアイと化したその双眸で三人に振り返った。

「お前、それ……!」

 結膜は変わらず黒いが、虹彩が紅蓮の色となった左眼を厚治が指差す。藤林凛と同じ瞳。見覚えのあるそれに驚きを露わにした。

 三人に微笑を向け、「待たせてすまなかった」と史香に言葉を投げた。

 史香はただただ呆けていた。レゾナンスしている相手の中に明らかに異なる何かが存在していることを感じ取っていた。とても不思議で暖かいモノ。それがなぜフェリクスの中にあるのか困惑するしかなかったが、ただ一つ、それが自分たちの力になってくれることだけは確かであると認められた。

「死にかけて、戻ってきたと思ったらパワーアップしてるとかサイヤ人かよ」

 疲労の色を隠せない厚治だが、それでも軽口を叩ける気力はまだ残っていた。

「厚治、後ろは頼む。奴は俺が倒す。もう少し耐えてくれ」

「あいよ。でもさすがにもうしんどいからよ、次でキメてくれよ。イケんだろ?」

 厚治の言葉にフェリクスが振り返り、左眼の紅蓮の眼睛で応えると、手元に磁力を発生させ、転がっている一本の長杖〈ディフェンダー〉を手元に引き寄せて掴み上げた。

 史香が少し前に歩み寄る。祈りを捧げるように向けている意識を深めてみた。

 フェリクスと共鳴する意識。その最奥で、もう一つ自分のものともフェリクスのものとも違う存在の熱が脈動しているのがわかった。その熱が史香が向けた意識と絡み合う。

 その熱が共鳴する意識の強さを更に底上げし、押し広げていく。

 史香は感覚で理解できた。この熱こそが、フェリクスの中で息づいている小島密李の残滓。彼女の存在のカケラが手を取り合ってくれている。

「史香、あと少し頑張ってくれ。これであのクソ野郎を倒して勝ちにいくぞ!」

 勇ましい声に史香も「はいっ!」と力強く応えた。

 磁界を展開し、地を蹴る。〈磁力加速〉による急速接近。

 迎え撃つように脊髄触手が襲いかかってくるが、杖を剣のように振るい全て弾き返していった。

 だが先程までのように防御に徹している動きではなかった。敵の攻撃を邪魔な羽虫の如く叩き落として接近する進撃である。

 そしてクロスレンジ。フェリクスが三浦の顔を殴り飛ばせる位置まで接近すると、長杖を振るい、叩きつけた。

 やはり三浦の周囲に展開する量子障壁に打撃が遮られた。ゼラチンを叩いたような感触がおぞましく感じられる。だが構わず、今度は長杖を槍のように持ちかえた。

「〈並列事象召喚・磁力加速〉(サイマルテニアス・リニアドライブ)!!」

 フェリクスの左眼の紅蓮の眼睛が更に輝きを増した。

 周囲に磁界を展開すると同時に、自身にも磁力を付与する。

 目にも留まらぬ高速に連続でくりだされる刺突。その早さはフェリクスの姿が二重、三重にも重なって見えるほどだった。

「あれは……!」

 その光景に厚治は息を呑んだ。見覚えのあるエフェクト。

「蜜李のじゃん!」

 同じく見覚えのあるエフェクトに朝希も声をあげた。

 ほぼ同時にも見える連続刺突は、事実、実際に〝同時に〟繰り出されていた。

 レゾナンスエフェクト〈並列事象召喚(サイマルテニアス)〉

 局地的なもう一つの世界――並列世界から近しい行動を同時に発生させる、多重次元事象を引き起こすエフェクトであり、これこそが小島蜜李がもたらすエフェクトであった。

〈デュアル・レゾナンス〉

 二つのレゾナンスエフェクトを同時に発動させるだけでなく、その出力も数割増しになっている。三浦に攻撃が通じるようになったのはそのためだ。

 刺突を磁力で加速させて威力を増すと同時に、並列事象を召喚することで攻撃回数を増やす。限定的ながら多重次元の屈折を引き起こし、並列世界から呼び込まれる複数の異なる攻撃が完全な同時で三浦を襲った。

 それは〝α状態〟と〝β状態〟の二つの状態とで量子的に存在を揺らがせているオルタネーターからすれば、この二つの状態を同時に攻撃することになり得る。局所的に事象崩壊を二つ同時に引き起こしていた。

 故に〈並列事象召喚〉のエフェクトはオルタネーターからすれば致命的であり、二つの状態を重ね合わせている量子障壁を展開する擬態型である三浦からしてもそれは変わりない。

 だが三浦もやられてばかりではなかった。脊髄触手を再び展開すると長杖を絡め取って攻撃を止めて見せる。

 フェリクスは躊躇なく長杖を手放し、ついでとばかりに飛び蹴りを三浦の首元に突き刺すと、磁場を展開し斥力で以て鋭く跳躍して三浦から離れる。

「厚治っ!!」

 厚治はフェリクスの求めるところを言葉を介さずとも理解できた。手にしている大剣を構えると、残った膂力を振り絞って振り投げた。

 ブーメランのように回転しながらフェリクスの元へ飛んでゆく大剣。まかり間違えばその身を斬り裂きかねない大剣を、フェリクスは一瞥もせずに受け取ってみせると、身を低く屈め、大剣を腰だめに構えた。

 磁力が嵐の如く吹き荒れ、砂埃の中に紛れた砂鉄が舞い上がり、周囲の鉄製の構造物がガタガタと激しく揺れ動く。

「うぉぉぉおおおおおあああああ!!!」

 咆哮する。喉が裂けんばかりに。己を鼓舞するために。限界を超えて力を出し切るために。

 自身の前方に磁界を幾重にも重ねて収束し展開、そして自身にも磁力を付与する。その出力は今までに無い程に高まっているものだと自覚できた。

 フェリクスが地を蹴り出す。同時に、その姿が音速の世界へ誘われ、消えた。

 乾坤一擲という言葉は、この一撃のためにあった。

 文字通りの紫電が迸る

 斬撃が閃く。

 烈風が巻き起こり、塩粒と砂塵の奔流を描き出す。

 磁力によって速度を増した斬撃が〈並列事象召喚〉によって多重に並列していた。

〈ツイン・レールガン〉

 フェリクスと並列する事象から召喚された実体を持った幻影が二重にも重なり、〈レールガン〉の弾体となって三浦の触手と四肢を粉砕する。

 そして、瞬きよりも速く、三浦の胴と脚が、両断された。

 塩となりつつある三浦の下半身が〈レールガン〉の奔流に巻き込まれ、白い礫となって崩れていく。

 打ち上げられた胴体は宙に打ち上げられ、地面に叩きつけられると白い結晶となって砕け散った。

〈レールガン〉の勢いを殺しきれずフェリクスが転倒する。地面を転がり、強かに柵に背中を打ち付けられて、ようやく止まった。

 三半規管をシェイクされ、目眩に呻きながら立ち上がる。微かに顔を上げれば、舞い散る塩の結晶が陽光に煌めいているのが見えた。

 まさしく三浦の終焉だった。

 それを見届けた途端、フェリクスの全身から力が抜けた。大剣を取り落し、膝を地面に着く。アドレナリンの分泌が落ち着き、全身の裂けた皮膚と関節に痛みがぶり返してくる。頭も痛い。脳がオーバーヒートしたように感じる。どれだけ呼吸をしても酸素が足りない。鼻腔に熱い鉄の香りが満ちる。鼻の穴からの流血がフェリクスの顔を赤く染めていく。

 自分を呼ぶ声がする。史香の声だ。それに厚治や朝希も。自衛官たちもこちらに駆け寄ってくる。

 だが彼女たちの姿を捉えていた視界も徐々に狭まってきた。そして重力に引っ張られるようにしてフェリクスは地面に倒れ伏した。

 塩まみれの地面の視界が薄闇に包まれていく。

 その刹那――

――ありがとうね、お兄ちゃん。

 だが心地よい一時の闇に潜るフェリクスの意識を聞き覚えのある別の少女の声がを優しく抱きとめた。

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