Chapter4 泥の海 ⑦
例えその言葉の意味を瞬時に理解できずとも、厚治と他のレッド・オレンジラベルのオブジェクターは瞬時に危機を察知することができた。すぐに散開していくオブジェクターとエフェクターたち。
擬態型については厚治を含めた他のオブジェクターも環境省と社会衛生庁を通じて、その存在自体は通告されている。ほとんどの者が眉唾ものとしか受け取っていなかったが。
その存在が今、目の前にいる。確かめるまでもなく奴には通常攻撃は通用しない。肌感覚で知覚できるその気配は、間違いなくオルタネーターそのものだった。
三浦の姿かたちをした〝存在〟が改めて敵意を向けてきた。背中から触手を現出させると、勢いよくそれを振るってきた。触手は通常のオルタネーターのようにスノーノイズの塊ではなく、脊髄をいくつも連ねたおぞましい形をしていた。
各々の得物で三浦の攻撃を防御するオブジェクターたち。一撃一撃が通常のオルタネーターよりも遥かに重たい。全身の膂力を込め直して、脊髄触手を押し返す。
「フェーリャ、過去に出くわした擬態型もあんな感じだったか!?」
「わからん! だけど普通の奴より遥かに強いことは確かだ!」
「良い機会だ。擬態だろうが他人様を見下して迷惑かけてばかりのクソネトウヨの素っ首、斬り落としてやるよ!」
厚治が踏み出す。強靭な膂力によって一直線に跳躍し、三浦に接近する。
三浦の姿を目前にして、厚治は微かに息を呑んだ。姿かたちこそ、やはり三浦峻平そのものだが、決定的に何かが違う。その違和感が理性を削り頭がおかしくなりそうな感覚を煽ってくる。
僅かにグリッチノイズの走っている外見、目を凝らせばあやふやだとわかる輪郭、どこに目を向けているのかわかったものではない定まっていない焦点、だが確実に敵意だけはこちらに向いていることがわかった。
恐怖を押しのけ、大剣を振りかぶる。
ずぶり、という身の毛のよだつような不気味な感触。アスファルトを砕く一撃すらも、宙空で柔らかな壁のようなものに遮られる。
厚治はなおも刃を突き立てようと踏ん張り足腰に力を込めるが、遮るように脊髄触手が襲いかかる。
即座に反応し三浦の攻撃を弾き返すが、なおも三浦が攻撃を畳み掛けていく。その猛攻をどうにか捌きながら厚治は後退する。フェリクスが駆け出し、襲いかかる脊髄触手を斬り落として厚治の後退を支援した。
――力技が駄目なら手数ならどうだ。
入れ替わるようにフェリクスが三浦へ突撃する。その身を八つ裂きにしてやろうと、ショートブレードを突き立てる。が、やはりこれも障壁に無効化される。構わずもう片方のブレードも振るう。絶え間ない連続攻撃で障壁をこじ開けてやろうという算段だったが、すぐに無駄だと判断し、敵の攻撃もあって引き下がった。
「おいフェーリャ、あいつ……」
向けられた厚治の言わんとすることを察して、フェリクスも頷く。
見えない壁――さしづめ量子障壁とも言うべきバリアらしきものが三浦の周囲に展開されている。それに攻撃を遮られた時の感触に、二人は覚えがあった。まだエフェクターとペアを組んで間もない頃のこと。上手くレゾナンスができずに、レゾナンス状態が途切れたままオルタネーターに攻撃した時の感触だ。攻撃を当てたようで当てていない。二つの確定していない事象が折り重なった状態の理解しがたい感覚。
「おそらく、〝α状態〟と〝β状態〟の事象の重なりをバリアみたいにしてるんだろう」とフェリクスは推測する。
なぜ、そうする必要があると疑問を抱く厚治。そうしなければならない状況にあるからだ。
「つまり、オルタネーターは三浦という観測できるカタチを手に入れてしまったもんだから、わざわざバリアなんか張らなきゃいけないのか」
ならばあの量子障壁は通常のオルタネーターの在り方と変わらない。異なる点はその出力だか密度だかが高いせいだろう、と二人は結論づけた。理屈では破れないことはない。ならば――
「いくぜ、朝希! 全力全開だ!」
「史香頼む、出力百パーセント!」
史香と朝希の左眼の毒々しい眼睛の輝きが更に増すと、二人が同時に地面を蹴り出し、飛ぶように三浦へと再度接近を試みた。
磁力によってフェリクスが更に超加速する。脊髄触手の乱舞を潜り抜け、三浦の眼前へと飛び込んだ。
だが量子障壁に衝突する寸前に方向転換する。そしてフェリクスの影となって背後についていた厚治が踏み込み、大剣の斬撃を叩き込んだ。だがやはり障壁に阻まれ、刃は三浦本体へ届かない。
フェリクスは大きく弧を描くように小刻みに連続した〈レールガン〉で、三浦の背後に回り込む。
「くたばれ、このクソデブ!!」
ショートブレードを逆手から順手に持ち替え刃を突き立てる。二人による前後からの同時攻撃。だが――
三浦に届くことなく、やはり宙空で量子障壁によって阻まれていた。フェリクスは構わずもその後頭部めがけ、今度は逆手に持ち替えたもう一振りのショートブレードを突き刺すように振りかざし突き立てる。
三浦が腕を掲げ、そして背後のフェリクスの方へ振り下ろす。
疑問と驚きに口を開くと同時に衝撃波がフェリクスを襲う。吹き飛ばされ、ろくに受け身も取ることができずにしたたかに地面に叩きつけられた。
ゆったりとした緩慢な動きで厚治の方へ振り向く三浦の姿かたちをした〝存在〟。
厚治は構わず、突き立てた大剣を横方向に振り抜こうとした。粘度のある障壁に刃が絡め取られていくが、それでも徐々に障壁を斬り裂いていく。
「ぬぅぁあああああっ!!」
あらん限りの膂力を振り絞り咆哮する。あまりの高い出力のレゾナンスで負荷が高まっているのか、鼻から一筋の赤い雫が流れ落ちる。それはペアである朝希も同様であり、鼻血が流れ出て膝をついてしまった。
厚治は共鳴する意識の中でペアの負荷が高まっていることを把握できていた。それでも、耐えてくれ、と懇願するしかない。
全身の筋肉がはち切れそうになる寸前、大剣〈パルヴァライザー〉が真一文字に振り抜かれ、障壁が斬り裂かる。
「ひけっ、厚治ぃ!」
厚治は背後からの声に横っ飛びする。いつの間にか背後に周っていたフェリクス。まるで左手を照準のように伸ばして、右手でショートブレードを逆手に投擲の構えをとっていた。
フェリクスと史香も限界以上にレゾナンスの出力を高めていた。鼻からの流血を厭わず、力を溜めていく。展開された磁界が周囲の鋼鉄製の構造物を大きく揺らしていく。
強力な磁界がフェリクスの前方に収束すると、それは銃で言うバレルの役割を持った。
即ち――
「〈レールガン〉ッ!!!」
右手で保持していたショートブレードを全力投擲。バレルとして収束展開した磁界がレールの役割を果たし、ローレンツ力がショートブレードを音速超えで投射した。
衝撃波がぶちまけられる。鼓膜を突き破りかねない炸裂音。巻き起こる烈風に塩と砂埃が巻き上げられ砂煙となる。
確かな手応えはあった。やはりあの量子障壁は絶対の防御力を誇るわけではなかった。
砂煙の中で三浦が蹲っているのが見えた。だが晴れた砂煙の中で三浦が立ち上がると、フェリクスは慄然とするしかなかった。
「こんだけやって、腕一本かよ……!」
左胸から先が抉り取られているが、三浦は黙然として二人を見据えている。
折れそうな心を無視して、厚治は大剣を握りしめて立ち向かっていった。
フェリクスも残ったショートブレードを片手に三浦に飛びかかろうとする。だが――
三浦の全方位攻撃。脊髄触手を振り乱し、風を割く音とともに床を粉砕する。
二人はどうにか防御してみせたが、勢いは殺しきれず壁や柱に叩きつけられた。骨身が軋み、内臓を吐き出すような衝撃に晒され、よろめきながらもどうにかすぐに立ち上がる。
「アツジ!」
「来るなっ!」
物陰に身を潜めていた朝希を制止する。
「悪いが、お前たちのことに構う余裕はない。自分の身は自分で逃げ回って守ってくれ……!」
フェリクスも「いいな?」という視線を史香に向ける。二人の切迫した空気にあてられ、史香も朝希も息を呑んで、改めて身を潜める。自分にできることはもうこれ以上何も無い、と察する聡明さは残っていた。自分たちは、もうレゾナンスを保つ以外に役に立てない……。
「すっとろい愚図に成り代わったんならすっとろくなって欲しいってのに……」とフェリクスが冷や汗を拭う。
「中身は化け物になったんだ。そりゃ人間離れするだろうよ」厚治もそれに続いてぼやいた。
「いい加減にしてくれ。人類がバケモノと存亡をかけて戦ってるのに足引っ張ってくる人間が現れるこのパターン。マジで死んでくれ」
「もう死んでるよ。死んでも尚邪魔してくるのが厄介すぎる」
フェリクスと厚治は手にしている剣を構え直す。
攻撃の余波を受けたのか、それとも三浦の攻撃をいつのまにか掠めていたのか、ところどころの皮膚が裂けており血が流れると一緒に、僅かながら塩が噴いていた。レゾナンスで抵抗力を高めていなければ、今頃は塩の柱となって舞い散っていただろう。
折れかけている精神に集中力が欠け始めたのか、周囲の声が鼓膜に届き始めていた。うめき声、悲鳴、指示を請う声、指示する声、痛いと喚く声、泣き声、慟哭、今際の際の声にならない声。
その声に釣られて、視線を僅かにめぐらした。少女のものと思しき服装が塩の山に埋もれている。迷彩服の人間が少女を抱えて逃げる姿。塩の山の前で泣きわめく少女を引き剥がそうとする自衛官。自衛官に蘇生を試みるオブジェクター。もう泣くことも能わず絶望に打ちひしがれて慄然とするしかない少女の姿。頭を抱えて恐怖にうずくまるしかない自衛官。
フェリクスと厚治がこれまで幾度も見聞きしてきた地獄、その濃縮された縮図が今ここにある。
「なんなんだよ、あいつ……くそがっ」荒い息の中でフェリクスは三浦を睨めつける。
だが二人は地獄を前にして絶望よりも、この状況を引き起こした愚か者に対しての苛立ちと憤怒を湧き上がらせられる人間だった。
「ふざけんじゃねえぞ、あのクソネトウヨ。何人のオブジェクターと子供を殺したんだ……。何人の自衛官を殺した……!」
吐き捨てる厚治。
藤林には藤林で彼女なりの正義があった。浅はかで短慮極まりない行動に出たが、それもエフェクターの少女たちを慮ってのことだ。
今、死地を共にしている自衛官たちもそうだ。オブジェクターとエフェクターを気に食わないとしても、国防という責務に殉じている。
だが、こいつは何なんだ。この三浦という男は。
推測でしかないが、おそらく勝手な行動をして擬態型にやられたようなことをしでかしたのだろう。その挙句の果てがこの地獄絵図だ。
「バケモノに成り果てたんなら、心置きなくぶっ殺してぇ……」とフェリクス。
「正当な理由で政治屋ぶっ殺せる機会なんて、後にも先にもこれだけだぜ」と厚治。
そうして互いの顔を見合わせた。まだ戦う意思が折れきっていない顔を互いに確かめる。
「史香、すまないがもう少し踏ん張ってくれ」
「もうちょっとがんばってくれたら、なんか好きなもん買ってやるよ」
かけられた言葉に二人は力強く頷く。史香も朝希もまだ折れてはいなかった。
三浦は狂ったようにゆらゆらと左右に体を揺らしていた。ぐるぐると首を回すと、まるで何かを見つけたかのように、ある一点を見つめて止まった。
「な、何をするつもりだ……?」その怖気のするような異様な行動に厚地が低く呟く。
三浦の奴の視線の先――水上バスターミナル。事態の急変を受けて、撤退する者たちがボートに乗り込む準備をしていた。
「あの野郎、まさか!」フェリクスが叫ぶと同時に、三浦が南館へ繋がる通路に駆け出していた。
磁力で加速したフェリクスが先回りしブレードを突き立てて、三浦の動きをどうにか食い止めてみせた。
「ほんとバケモノになっても、根性腐ってやがるなぁ!!」
だが慣れない一刀流では全力を出せず、疲労も蓄積している状況ではすぐに押されいく。脊髄触手をいなしきれず、体のそこかしこを攻撃が掠める。
痛みと攻撃の衝撃によろめくフェリクス。積み重なったダメージ、蓄積した疲労、襲いかかる焦燥感、それらが判断力と思考、そして反射を鈍らせていく。
槍のごとき脊髄触手の刺突。明らかに心臓を狙った一撃だった。鈍った反射神経を総動員して、どうにかショートブレードの刃で受けて防ぐ。
脊髄触手に押されて、フェリクスは柵に背中を押さえつけられた。文字通りの背水の陣。フェリクスはちらと、背後に広がる海面と倉庫街、ボートに逃げ込むオブジェクターとエフェクター、そして自衛官たちを目にして、汗が吹き出す感覚を覚えた。
そしてそれが、致命的な集中力の欠如と致命的な隙を招いてしまった。
残った片方の左腕を掲げている三浦。目を見開いて、息を呑んだ時には遅かった。
衝撃波がフェリクスの四肢を地面から引き剥がし、空中へと高く遠く打ち上げる。
そのまま水上バスターミナルの方へ落下し大きな水音を立てて、海面の中へ沈んでいった。
「フェーリャさーーーんっ!!」
暗く汚れた海の中に沈みゆくフェリクスに、史香の悲鳴にも近い呼びかけは届くことは無かった。
駆け寄ろうとした史香を厚治が首根っこを掴んで慌てて引き寄せた。彼女が既まで立っていた地面が脊髄触手で砕かれる。
「下がっていろって、史香!」
「でも、フェーリャさんが! フェーリャさんが……!」
「あいつが水に落ちたくらいで死ぬような奴かよ……!」
とはいえだ……、と厚治は胸の内で考えを巡らせる。ついに最悪のケースを現実問題としてどうにかしなければならない状況になってしまった。
ここからどうやって逃げおおせるか。どうやって朝希と史香をこの場から逃がすか。そうなれば十中八九、自分の命と引き換えにしなければならないだろうと、厚治は胸の内で嘆息する。
そういった覚悟ならとうの昔にできている。ただ一つ気に食わないことがあった。
――あんな人間のクズの成れの果てに殺されるのかと思うと死んでも死にきれねえよ……!
オルタネーターに殺されるならまだしも、下衆の愚行の果てに殺されるとあっては死んでも死にきれない。
そこまで考えて、厚治は自分自身の心が折れかけていることを自覚できた。
「頑張ってよ厚治! 早くあんな奴やっつけて!」
朝希の声に涙が混じり始めていた。振り返ってみれば、彼女の表情には恐怖が染み出してきており、厚治は歯噛みする。
馬鹿野郎、簡単に諦めてんじゃねえよ。
「まったく、お嬢さんがたのリクエストなら応えないわけにはいかねえよな! 子供に『がんばれ』って励まされて、立ち上がらない男がどこにいるんだよ……!」
だからさっさと戻ってこいよ、フェーリャ……!
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