Chapter4 泥の海 ⑥
戦闘の喧騒が収まりつつある東1、2、3ホールを見回して、史香は感嘆を漏らす。
「改めて見回すと……とても広いんですね」
「広すぎて害獣駆除するこっちの身にもなってくれってんだ。一体何なんだこのビッグサイトとやらは……」
帯同する陸自の支援要員からドリンクを手渡され、それに口をつけながらフェリクスが毒づく。
「西館と新設された南館は駐車場も入れて五階建て、中央の会議棟に至っては八階まである。この東館は三階建てだが面積が広いんだ」
フェリクスに帯同している自衛官が横から説明を挟んだ。その自衛官からエネルギーバーを受け取りながらフェリクスは訊ねた。
「やけに詳しいな、アンタ。東京がこんなことになる前から来たことあるのか?」
「ここはどんなことが催されていたんですか?」
フェリクスと史香の問いに、自衛官は少し遠い目をする。
「だいたい企業の展示会とか即売会とかが開催されてたな。あと忘れちゃならないのが毎年夏と冬にでかいイベントがやってな。アニメとかゲームとかマンガとかの。俺も毎回参加してたもんよ」
ふーん、と興味無さげにフェリクスはエネルギーバーの封を開けてかじりつく。
「知らないのか? 毎度毎度ニュースとかになってたと思うんだが」
「生まれが北海道の田舎なもんでな。それにそういうのあんまり興味無かったから」
「どんなイベントだったんですか?」
既に興味を失いつつあるフェリクスとは対照的に、史香は少し前のめりになって黒と紫の目を輝かせている。
「作家さんが自分で描いたマンガとか小説とかめいめい持ち寄って、それを売るんだ。同人誌って言ってな。中にはグッズとかゲームとか作ってる人もいたな。コスプレする人とかもいたりして……。目当ての作家さんの本を求めて、この会場全体が満員電車みたいに混み合ってたよ。それこそエントランスから駅まで列ができてたりしてな」
「はぁ!? こんなだだっ広いところがか? 嘘つくなよ」
「嘘じゃないって」自衛官は苦笑する。「四日間で七十万人以上が来るんだよ、ここに」
「島根の人口並じゃねえか。頭おかしいんじゃねえのか」
「でも、とても楽しいイベントだったんでしょうね!」
心底呆れ果ててるフェリクスを無視して、自衛官は史香に笑みを返した。
「そうだよ。ものすごく大変で、参加する度にもうこれっきりにしようって思うんだけど、また懲りずに次も参加してさ……。本当に、あの時は楽しかった……」
自衛官は感慨深そうに『東1』と書かれた柱を見上げる。
「まさか、こんな形でここに戻ってくるとは思ってなかったよ。またいつか、ここでイベントができる日が来るといいな……」
フェリクスと史香も釣られて視線を同じくするが、すぐに逸して互いの顔を見合わせると気まずそうな表情を浮かべた。
彼の願望はもう二度と叶わない。この場所は、もうじき彼の思い出とともに海に沈む。
その後、帯同の自衛官が東1,2,3ホール内のオルタネーター掃討終了の無線を受けると、フェリクス達は東4,5,6ホールへ移動し、掃討の完了を確認へ向かった。同じように東7ホールの掃討を担当していた部隊が今度は東8ホールの確認を行う。更に三階と二階ガレリアも確認作業を行い、以てビッグサイト東館のオルタネーターの掃討任務は完了となった。
続いて現場に参入してきた後続の自衛官達がガレリアやホール一面に打ち捨てられたマスコミの取材機材を回収し、塩の塊を清掃していく。大雑把に掃かれて、かつてオルタネーターだったそれと人間だったそれとが混ざり合っていく様をフェリクスと史香はじっと見つめていた。
しばらくした後に、西館と展示棟のオルタネーター掃討完了の報告が受けた。大きく歓声を上げているのはやはり自衛官の半分程度で、もう半分は安心からかその場でへたり込む。オブジェクターとエフェクターに至っては何ら感情も露わにせずに、態度を変わらずにいた。
損害は軽微。エフェクターや戦闘に慣れていない自衛官が激しく転倒して怪我した程度で、死亡者は出ていない。さすがのフェリクスもこれには感嘆する。
「すげえな、奇跡だ」
「我々もこの日の為に、我々なりに訓練してきましたから!」
満面の笑みを向けた高田にフェリクスと史香も思わず微笑で返した。
自衛官たちがやおらざわつき始めたのはその時だった。歓喜ではなく、明らかに動揺のそれだった。高田も例外ではなく、無線からの通信に笑みが消え失せその顔をみるみる青くさせた。
「どうしたよ?」フェリクスが訊くと、高田はその青い顔をゆっくりと向けて乾いた声で言った。
「南館に向かった部隊と連絡がつかないんです……」
かんかんかん、と安全靴が鳴らす足音が響かせながら、陸上自衛隊の迷彩服を着込んだ新崎悠矢が歩を進めていた。眩いフラッシュライトで闇を裂きながら、ここにいないはずの存在が地下共同溝共同溝を行軍していく。
臨海副都心の地下に張り巡らされた共同溝。電気水道ガスなどの各種ライフラインや通信用光ファイバーを収めたパイプが走る地下を新崎たちが進んでゆく。二組のペアが彼らの護衛についていており、自衛官を装った〈E計画〉遂行の隠密部隊が各々の作業を黙々と進めていた。
隠匿部隊の任務は共同溝、特に〈シディム〉設置予定箇所の現状の確認だった。
彼らは正規の自衛隊員たちとは明らかに異質だった。纏う空気が一般的な自衛官の清廉さのようなものどころか、どこか存在感さえも虚無であった。
やはりというべきか、地震による影響か崩落していたり、水没している箇所が点在していた。〝7・24〟以前の地下構造の図面と比較して崩落などで変化している箇所も確認を行っていく。水漏れと水没の影響か、幸いなことにオルタネーターの姿はほとんど無かった。視認性の良くない狭い場所での遭遇はなるべく避けたかった隠密要員たちは、油断はせずとも胸の内で安堵する。
がっ、というノイズとともに無線の音声が入ったのはその時だった。わずかに息を呑み、新崎は無線越しの報告を受ける。
《Eー00より各員、トラブル発生だ。ビッグサイト南館方面の部隊が壊滅した。作戦中止、作戦は中止だ。即刻撤退せよ。繰り返す、各員、作戦を中止し、すぐに撤退しろ》
新崎たちはすぐに行動を開始した。
ビッグサイトのエントランスホールに向かうと、やはりというべきか、オルタネーターの姿が再度見受けられた。おそらくは南館から侵入してきたものだ。
大きく舌打ちをして、踏破したはずの地点を我が物顔で徘徊しているオルタネーターを瞬殺するレッドラベルたち。
フェリクスが一旦、出入り口を出てみれば、先ほどまで無かったはずの塩、そして迷彩服とオブジェクターとエフェクターのものらしい衣服が散乱していた。
悲鳴と銃声が耳に届き、統制の取れていたはずが混乱の極みに達している。この場に配置されていたチームは既に瓦解していた。
フェリクスの背後がざわめき立つ。外の様子を見た他のオブジェクターや自衛官たちに混乱が伝播し始めていた。
「おい、一体何がどうなってる!?」「南館は状況は? まずそこの確認が必要だろ」「壊滅じゃねえか! 司令部は状況把握してるのかよ!」「だいたい自衛官どもがちんたら足を引っ張ってるから」「お前たちオブジェクターの対応が遅いからだろ!」
やがて混乱は対立へと変質し、互いへの不満と不審が疑念となり怒りとなる。
「あーあー、どうすんだこれ」と呆れる厚治におろおろと不安な様子を露わにする史香と朝希を横目にすると、フェリクスは傍にいた高田に「それ、貸してくれねえか」と肩にかけている八九式ライフルを指さした。
「だ、駄目ですよ! 何考えてるんですか!?」
「いいからいいから」
「いや、よくないですって!」
「いいからいいから……。俺が良いっつってんだろ!」
「そんなぁ!」
「安全装置はどうやって外すんだ?」
フェリクスはスリングをほどいて高田からライフルをひったくるように奪うと、銃口を天井に向けて、トリガーに指をかけた。
数発の銃声が鳴り響く。それに反応するように沈黙と銃声の残響が降りた。
「うるせぇ、黙れボンクラども! グリーンラベル以下はこのエントランスで待機してろ! そんで侵入してきたオルタネーターを迎撃するんだ! レッドラベルとオレンジラベルは全員俺についてこい! いや、全員じゃねえな、そこのレッドのメガネとオレンジの女! てめえだよ!! お前ら二人は迎撃部隊の指揮を取れ! なんでじゃねえ! たまたま目が合ったんだよ、さっさと従わねえとてめえからぶち殺すぞ! 自衛隊はオブジェクターの支援! 助けを呼ばれるまで後方にすっこんでろ!」
怒声で捲し立ててフェリクスは八九式ライフルを放った。慌てて拾い上げる高田。フェリクスに向けられる呆気に取られた困惑と驚きの目。それらに対し、フェリクスはふん、と鼻を鳴らして「返事!」と再び怒鳴った。
蜘蛛の子を散らすようにフェリクスの指示に従い、皆が各々の役割を始める。フェリクスたちもエントランスを出て、屋外の状況の確認を始めた。
「それにしても、何がどうなってやがる」フェリクスが呆然とこぼす。
「このあたりのオルタネーターは殲滅したはずだろ……」厚治も低く呻いた。
例え仕留め損ないが残存していたとしても、その程度で壊滅するとは考えられなかった。 例え不意打ちを喰らったとしても、この程度の敵に壊滅させられるほどヤワではない。あるいはどこからともなく大量に湧いてきたのか。だがそれらしきオルタネーターの姿も見えなかった。
「ありゃなんだぁ……?」厚治が目を細める。
塩の柱の中で人影がひとつ慄然と佇立していた。
「あのクソボケ! なんでこんなとこにいるんだ!?」
厚治の視線の先の人影は三浦峻平の姿かたちをしていた。
だがどうにも様子がおかしい。明らかに意識のようなものを感じられない幽鬼のように。
その三浦と視線が合う。その刹那、厚治の全身の肌が粟立ち、汗が吹き出た。
初めてオルタネーターを目にした時のものと似たような、あるいはそれ以上に激しく正気と理性を削られるような感覚。
だがフェリクスだけはこの感覚に覚えがあった。過去に一度だけ味わったことがある。姿かたち、見た目こそは何ら変哲も無いが、そこにあってはならない異物であると感覚的に違和感を抱き、そしてある種の狂気を憶える。
あの三浦は姿こそ三浦であるが、三浦ではない。三浦であってはならない。
がぎんっ、という重い金属音が厚治の耳朶を叩く。それに驚き身をすくめる厚治。
気がつけば、いつの間にか自分の頭めがけて振るわれた攻撃を、フェリクスが両のブレードで受けていた。
脂汗を浮かべながら鬼気迫った表情を浮かべているフェリクス。
「あれは三浦じゃない……擬態型だ!」
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