Chapter4 泥の海③
司との約束の日。四人はブリーフィングに向かうと、柏の葉の調査局のビルは異様な森閑の中にあった。人の気配はほとんど無い。だがこちらに緊張感をもたらす張り詰めた静謐に満ちている。
「今日、あんま人いねえな」とフェリクスが漏らす。
「ええ、人払いをしていまして」出迎えてきた阿波野が答える。
「人払いをする必要があるほどの話、ねえ」
厚治のこぼした言葉に、阿波野は返答代わりに眼鏡ごしに蠱惑的な視線を二人に向ける。
司のオフィスに案内されると、深山が忙しそうにレジュメを整理し、プロジェクターのセッティングを行っていた。
「休暇はどうだったかな? リフレッシュできた?」と司。
「後で領収書くれてやるから覚悟しろ」フェリクスが唇を尖らせる。
領収書は後で私が受け取ります、と阿波野が言いながら四人にそれぞれコーヒーとジュースを配ると「さて、それではブリーフィングを始めようか」とひとつ、司が手を叩いた。
「まずは一点、我々社会衛生庁調査局の一部はオブジェクターとエフェクターによるオルタネーターの殲滅は不可能であると結論づけた」
「……俺達が役立たずって言いたいのかよ」
厚治が口を尖らせ、フェリクスも視線を鋭くさせた。
「まあまあ、そんなことは決して無い。君達には大いに助けられているよ。私が言いたいのは最初からオルタネーターの排除と東京奪還が最初から無理な話だったってことだよ。それに何より……」
司は史香と朝希に視線を向ける。憐れむ瞳だった。
「彼女達のような年端も行かない少女を危険な目に遭わせること自体間違ってる。彼女達に死線を渡らせてまで、東京なんかを取り戻す価値なんてあるのかなって疑問に思うんだ」
「いや今更かよ! 気づくのおせーって!」
思わず厚治が突っ込み、フェリクスは呆れたようにため息をついてじっとりとした視線を司に向けた。
司は苦笑を返す。苦笑しかしないなこの女は、とフェリクスは胸の内で零した。
「あとは俺達の能力についてもか?」
フェリクスは訊くと司は「ご明察」と応えて言葉を続けた。
「君達の人知を超えた異能であるレゾナンスエフェクトはエフェクターとオブジェクターの二人が揃い、なおかつ旧二十三区の封鎖都心の中でしか使えないという非常に限定的なものであっても、一般人から見れば異能は異能だ」
「俺達を化け物扱いしているのは何も〝普通の日本人〟だけじゃないというわけか」
「話が早くて助かるよ。米露中が警戒しているのは何もオルタネーターだけじゃない。エフェクターとオブジェクターが彼らの目にはどう映っているのか、想像に難くないよ。中国はオルタネーター以上にエフェクターとオブジェクターの存在を警戒している。ロシアなんて昔はESPを国を上げて大真面目に研究したくらいだし興味津々だろう。その他欧米諸国もさもありなんて状況だよ」
「現実には映画のスーパーヒーローってわけにはいかなだろうな。俺達はアベンジャーズにはなれないってわけね」
フェリクスが鼻白む。
「残念ながら親愛なる隣人とは認めてはくれないようだね。日本人に限らずどいつもこいつも」
史香が挟んできたのはその時だった。
「わたしたちはこの東京の中でしかレゾナンスは使えません。東京の外に出てしまえば普通の人達と変わらないはずです。なのに、わかってもらえないんですか? どれだけ言葉を尽くして説得してもだめだったんですか?」
史香の意を決して投げかけた疑問に、司は柔和な、だが絶望や諦念といったものが孕んだ笑みを向けた。
「人類の半分だけでもいいから、史香ちゃんみたいに頭が良くて他人を思いやることができたらいいのにねって常々思うよ」
呆れたように一つため息をつくと、何もかもを見下すような底暗い目を向けた。
「だからこそだ。私は誰も口にできなかったことを口にするよ。認めたくない現実を認めさせる。私たちは東京を取り戻すことなんかできない。日本は東京を捨てなくちゃならないって。この老いた街に自らの手でトドメを刺さなくちゃならないって」
司は胸を張って大きく両手を広げてみせた。
「もう東京なんか無くてもいいでしょ」
そして言ってのけた。
「私は、東京を、殺す」
口にしてしまえば、この国の全てを否定することになりかねない呪詛を。
「東京を取り戻そうと躍起になっているのは日の丸を振り回すしか能の無い自己と政府を同一視している人間とそんな連中に支持されるような考え方をしている政治屋どもくらいだ。それこそ竹槍でも持って特攻してこいって奴らは君達オブジェクターにそんなことを思ってるよ。でもその一方でそういう物騒なことを考えていないノーマルな人間や現実の見えない左巻きな連中も『いつかなんかすごいことが起こって、そのうち東京を取り戻せるんじゃないか』って無責任に思ってる節がある。多分、先日の寺田や増川でさえ例外じゃないとは思うよ。でも、その『いつかなんかすごいこと』って具体的には何なのかは誰にもわからないし、誰も考えてない。どいつもこいつも馬鹿で無責任だからね。連中は無責任に君達オブジェクターとエフェクターが『なんかすごいこと』を起こしてくれると考えている。総てを他人任せにして、総てを他人のせいにして、総てを先送りにしてきた日本人だ。自分で判断せず責任も負おうとはしてこなかった。だったら私がその責を担うよ。そしてその結果が受け止めてもらう。政府、企業、マスコミ、そして全ての国民――今のこの国の状況を作り出した、全ての者たちに、このどうしようも無くなった現実を突きつける」
「……どうやって」
フェリクスが尋ねる。声は僅かに震えていた。自覚こそしていなかったが、その口の端は微かにつり上がっていた。
「東京旧二十三区を海に沈める」
開いた口が塞がらなかった。言葉も出てこなかった。
「局所的な大地震、まるで何らかの設定が施されたかのようしか思えないオルタネーターの生態、そして人間の仄暗い部分を刺激せずにはいられないオブジェクターとエフェクターの在り方、ここまで来ると〝7・24〟は自然現象ではなく何らかの存在によって引き起こされたとしか思えないよね」
でもね、と司は演説を続けた。
「そんな存在、結局のところ今の人類では観測することなんか出来ない。だったらそんなもの、存在しないと同じだ」
そんな存在は、まるで、オルタネーターと同じような在り方だ。観測できないのなら、それはそこにいないのだから。
「どいつもこいつもこんな惨劇に遭うだけの理由、物語性を欲しがるものだ。自分たちがこんな酷い目に遭うに足る理由。自分たちがどれほど可哀想な存在であるかの、自己憐憫に至るためのナラティブをね。でも〝7・24〟にそんなものは存在しない。だったら……なんら物語性も無く〝7・24〟によって東京が壊滅したのだったら、なんら物語性も無く壊滅した東京を海に沈めてもおかしくも無いでしょう」
わかるかな? と司は締めに入る。
「死にぞこないの東京に止めを刺すための計画――〈E計画〉をこれより遂行する。東京旧二十三区をオルタネーターごと海に沈め、この馬鹿馬鹿しい厄災を終わらせる計画だ。君たちは計画第一段階を成功させるための要だ」
重い静寂が部屋の中に降りる。四人とも言ってる言葉の意味は理解できるが、うまくのみこめないといった体だった。
「どうかな? 賛同してくれるかな?」
フェリクスはちらとPCを操作している深山に目を向けた。全てを諦めたような表情をモニターに向けてた深山の顔を見て、フェリクスは悟ってわかりきったことを吐き捨てる。
「ここで嫌だって言ったところで無駄なんだろ?」
足をつけたが最後の底なしの沼に、知らぬ間に嵌められた。諦めのため息をつく厚治。
二人が観念した様子を見て、司は阿波野に視線を向けた。
「それでは具体的な計画の概略の説明に入ります」
阿波野が前に出て、何事も無かったかのように説明を引き継いだ。
「先程の東京旧二十三区をどのように海没させるかについての具体的な手法についてです。封鎖都心の地下と河川近くに爆薬を設置し爆破、地表を海抜ゼロメートル以下にまで地盤沈下させると同時に周辺の河川とダムを放水、そして東京湾から水を引き込み、旧二十三区全域を水没させます」
阿波野の説明が説明すると、プロジェクターに映る東京旧二十三区の地図が周囲の河川と東京湾から水色に染まっていく。
一見、途方も無い計画とも思えたが、同時に現実感も抱けた。暗渠、埋立地、そして地下に張り巡らされたメトロや共同溝、地表を沈めるスペースは存在し得る。
「最も、東京を達磨落としにできるくらいの爆弾があればの話だが……アンタのその口ぶりからして、あるんだな?」厚治が質問を投げる。
「君たちもお世話になっているシマダさんが新型の爆薬を開発してね」
プロジェクターにつらつらと大量の文字が並ぶ。何らかの兵器のスペック表のようなもと思えたが、二人にはさっぱりだった。
「複数液混合型新型爆薬〈シディム〉。元々は東京を復興させる際に瓦礫を粉微塵に吹き飛ばすために開発されたものだったんだけど、何の間違いか東京に地盤沈下を引き起こすくらい威力が強くなりすぎてね。そこを私が目をつけたのさ。衝撃波で地盤に揺さぶりをかけると同時に灼熱でダメージを与えた地盤を更に焼き尽くしていく。衝撃波だけでも地表を崩落させることがでくる程の威力を誇るし、そうでなくとも液状化を誘発させて地盤を地表を沈められる。埋立地となればひとたまりも無いよ。大丈夫。綿密に計算に計算を重ねている。もちろん核の類でもない」
「つまり、爆弾を東京中に仕掛けて回るって話か。まぁどっちにしたって、封鎖都心を練り歩くのには変わりはねえんだな……」頬杖をつきながらフェリクスがごちる。
「申し訳ありません。ですが、オルタネーターの殲滅よりも事態の解決は遥かに効率的であると思われます」
「そりゃそうだわな。虱潰しに倒していくよりかは住処を全部潰した方が全然マシだ」
現状でさえ、踏破したと判断できたエリアでさえも、数は少ないといえどオルタネーターは好き勝手に闊歩しているため、定時任務として哨戒にあたる面倒に晒されている。そしてオルタネーターが一体どこから湧いてきているのかも把握できていない。
「しかし東京を沈めるほどのやばい代物をどうやって調達したんだ」厚治が問う。至極、全うな疑問だとフェリクスも胸の内で同意した。
「こういうことには大抵米軍が関わってくるものだよ」
「なんでアメリカが……」
「今ではアメリカにとっての対中政策の軸足は台湾にシフトしてきているとはいえ、日本もまだまだアメリカにとっての〝都合の良い〟重要拠点であることには変わりはない」
都合の良い拠点ね……と厚治が小さくこぼす。
「それに正体不明の怪物がこの地球上でのさばっていることも、世界の警察を気取る彼らにとっては気に喰わないようだしね。おっと?」
司の話が中座する。見れば朝希が「くぁ……」と大きく口を開けて欠伸をしていた。史香もまぶたが重くなってきて船を漕ぎ始めている。
「二人には少し退屈なお話だったかな?」
いくら背伸びをしていようと、隠しきれない歳相応の幼さに司は思わず苦笑した。
「だいじょうぶ……すごいばくだんで東京をオルタネーターごとこわすんでしょ?」
「それだけ分かれば十分だ。あっちの部屋で休んでな」
「うん……」
隣室の応接用のソファに横たわると、二人はそのまま穏やかに寝息を立て始めた。
「あの、私、何かかけるもの持ってきますね。風邪ひいちゃいますので」
「おう、あんがとなー」
足早にタオルケットか何かを取りに部屋を出た深山の背中に、厚治が礼を言う。
「で、俺たちはその計画でどんなことをすればいいんだ? そのごつい爆薬をえっちらおっちら運べばいいのか?」
尋ねるフェリクスに司が苦笑で返す。
「いや、〈シディム〉の設置には専門の秘匿部隊を創設してある。君たちはその部隊の護衛だったり、これまでと変わらず封鎖都心の調査とオルタネーターの殲滅に努めて欲しい」
「それにして、東京をまるごと海に沈めるなんて大掛かりなこと、バレずにやっていけんのかよ。なあ司さんよ、あんたが出したそのプランに俺たちは全額ベッドしても大丈夫なのかよ」
「保証が欲しければ電化製品を変えばいい」でもね、と司は続ける。「報連相を怠って独断専行のサプライズをするのは私の得意技だという自負があるよ。それに後備えのプランBも同時に遂行している」
「聞かせてほしいね、そのプランBとやらも」
「核兵器」司は即答した。
今度こそ本当の本当に二人は言葉を失った。
「……アンタ、それマジで言ってんのか」
「もちろん本気だとも。だからこそ、彼女がここにいる」
そう言って司が脇でプロジェクターの操作をしている深山に目を向けた。外務省からの出向の身分である深山は申し訳なさそうに視線を伏せる。
「本当はこっちをプランAにしたかったんだけどね。手っ取り早いし。でもそれだと後々が面倒だし、思想的や価値観、あとは国際情勢と安全保障の面からも厄介事を生みそうだしね」
「当たり前だ、そんなこと。なぁ?」
厚治が同意を求める視線を向けたが、フェリクスは口の端を吊り上げていた。
「ほんとにミサイル一発で済む話が面倒ごとが多くて参るな」
「……お前、それ本気で言ってるのか」厚治の低い声。
「海に沈めるのも、核ミサイルで丸ごと焼き尽くすのも大差ないだろ。どのみち東京はもう二度と人間が立ち入る場所じゃなくなったんだ」
それに、とフェリクスが微かに目を伏せて続ける。
「俺は史香や自分が元の生活に戻れるなら、それでも構わないと思ってる」
史香たちを出されれば厚治もそれ以上、反論することができなかった。
厚治は眇めた目を司に向けた。口だけなら何とでも言える、という言葉が喉までこみ上げてきたが、この女はやると言ったことは必ずやってきた。核云々も大言壮語では無いのだろう。
「で、話は以上か? どうせまだあんだろ?」フェリクスが次を促すように顎をしゃくる。
「ご明察。この〈E計画〉を開始するにあたり、君たちにはある作戦に参加してもらいたい」
深山がPCを操作すると、プロジェクターに資料の表紙が表示されていた。その表紙に隅には、これまた〝カク秘〟のスタンプが印字されている。
「〈臨海副都心奪還作戦大綱〉……」厚治がその資料のタイトルを小さく読み上げる。
次にプロジェクターに映る地図がある箇所にフォーカスされた。
その場所は臨海副都心。マップとともに、ビッグサイトや旧フジテレビビルなどの建築物の過去の写真がポップアップした。
「現在、詳細を詰めているところですが、お台場、有明、東雲エリアのいわゆる臨海副都心において、概ね皆さんが常日頃あたっていただいているオルタネーターの殲滅作戦を開始します」
ですが、と阿波野は説明の方向性を変えた。
「今回の任務は大きく二つの点で今までのものとは異なっています。まずひとつ目はこの任務に調査局側から参加するのは二百人百組のペアと大規模なものとなっております。またふたつ目についてですが、今回の任務は自衛隊との共同であたることになります」
「は?」
「マジかよ」
驚きにフェリクスと厚治は微かに腰を浮かせた。
「よくもまぁ、今更協力できることになったな」とフェリクスは感嘆する。
「ちょっと待ってくれよ。防衛省には憂国の国士様気取りも多いだろ。そんな連中が国土の一部を海に沈めるなんて計画、容認したのか? アンタ、どんな手品使ったんだよ」
厚治が司に質問を投げかける。だが――
「ううん? 容認も何も得てないよ? 容認されるわけないじゃん」
「「はぁ!?」」
二人は驚愕で完全にソファから立ち上がった。
「待て待て、容認できてない計画を進められるわけないだろ! 何考えてんだ! そんなん共同とは言わねえよ! アンタ、自衛隊に喧嘩売るつもりかよ!」
司に詰め寄るフェリクスだが、「おほん」と阿波野が咳払いをして話を続けた。
「整理が必要ですね。今回の自衛隊との共同任務と〈E計画〉はそもそも別個の扱いとなります。まず自衛隊との共同任務である〈臨海副都心奪還作戦〉ですが、これに便乗する形で〈E計画〉初期段階を秘密裏に遂行するというわけです。要は自衛隊側に黙って、我々は臨海副都心破壊準備活動を遂行することになります」
「無茶苦茶だ……」とよろよろとソファに腰を下ろす二人。
「はい無茶苦茶ですよ、我ながら」阿波野は軽く苦笑してみせた。
「ちなみにね、この〈E計画〉に関しては一部の防衛省側からも協力を得ている」
「そいつも秘密裏にだろ」司の言葉に皮肉げに返すフェリクス。
「そう。防衛省からだけではない。国家公安委員会、東京都、その他中央省庁、そして与野党問わない非公開の議員連盟、内閣の一部のお歴々が秘密裏に〈E計画〉の遂行にあたっている。東京を海に沈めるためにね。この東京に無駄に振り回されることにもう嫌気が差した人間がそれだけ存在するということなんだ。話を戻そう。阿波野さんよろしく」
「〈臨海副都心奪還作戦〉における皆さんの任務は調査、並びにオルタネーターの殲滅に加え、状況に応じて〈E計画〉遂行にあたる秘匿部隊への支援となっております」
「なんだ、普段とそんなに変わらねえな。でもよ、一体どうやってお台場や有明に行けばいいんだよ。船でいくっていっても、もたもたやってたら船着き場でオルタネーターの餌食になるんじゃねえの」
これまでに幾度も東京湾海上からの上陸が試みられてきた。だがその度にオルタネーターは船上の人間の存在を感知し、上陸予定場所へ大挙してきたことで断念させられてきた。
「一箇所だけあったんだ。あの東京の中でオルタネーターからも孤立した場所が」
司の言葉とともに有明の埋立地のマップがズームされると、ある地点にフォーカスされる。
光の点とカーソルが若洲海浜公園にあてられた。東京湾内の一画にある埋立地の海上公園だ。
「若洲海浜公園は偶然にもお台場方面につながる東京ゲートブリッジとそこから新木場方面へ繋がる若洲橋が〝7・24〟の地震による影響か、いい塩梅に寸断されていてね。オルタネーターが存在しないことが君たちとは別の部隊によって確認された。その上、この公園には水上バスが乗り入れるための桟橋も無事だったんだ。こんなに具合の良いロケーションは他に無い」
「つまり、条件は揃ってるってことか」厚治が重く呟く。
「それにしてもこの〈E計画〉……随分大それたことをしてるが、あんたの目論見が露見する心配とか無いのか?」
フェリクスが疑念の目を司に向けた。
「もちろん、機密保持についても慎重に慎重を重ねて万全だと判断しているよ」
それもあるけど、と司は昏い、そして本心からの微笑を浮かべて続けた。
「この国は、この政府は、この国の人間はもう当たり前のことを当たり前にやれる力も衰退している。それもインフラレベルでね。そんな国に、私のこれからやることを見破れるわけがない」
根拠があるのか無いのかわからないが、妙に納得のできる説得力のある言葉だった。
停滞していた状況が静かに、だが大きく揺れ動き始めていることをフェリクスはその肌で感じていた。
喫煙所には意外すぎる先客がいた。
フェリクスの姿を認めて、「やあ」と顔を上げたのは他の誰でもなく司千歳だった。口元にはシガリロが咥えられており、強烈に甘ったるいバニラの香りを漂わせている。
「……あんた、吸ってたのか」
「よく言われるよ」
それっきり沈黙が降りる。紫煙を吐き出す吐息と唸りをあげる空気清浄機だけが二人の空間を埋めていた。
「……この間はすまなかった」
フェリクスが沈黙に耐えきれず口を開いた。思わず出た言葉は謝罪だった。
「何がだい?」
「……銃を向けたり、胸ぐら掴んだりしただろ」
「あぁ、それか」とすっかり忘れていたことを思い出したように声を漏らし、「どういう風の吹き回しだい?」と返す。
「ぐっ……」と押し黙るしかないフェリクス。
「君が気を病む必要はないさ。君たちからの憤懣を受けるのも私の給料の内だ」
「謝罪くらい素直に受け入れてくれよ」
フェリクスの言葉が本当に面白おかしく思えたのか、司は「あはは」と笑顔を浮かべた。
「意外と可愛げのあるところもあるんだね」
フェリクスは苛立ちに髪をぐしゃぐしゃを掻くと、長くなった煙草の灰を落として質問を投げた。
「なあアンタ、ほんとにこのE計画とやら、成功すると思ってるのか?」
「この計画を成功させるためには、私はもう手段は選ばないよ。ここまで来るのに、もう多くの人間があまりに死にすぎたし、摩耗し過ぎている。状況は緩慢だけど、既に手遅れだ。だからこそ、こういう手段を取らざるを得なかった」司は一度シガリロを含んで続けた。「できるかどうかじゃない。もうやり遂げなければならないという段階まで来てしまったんだ。だから私は核まで持ち出している」
声とともに吐かれた立ち上って消えていくシガリロの紫煙の軌跡をフェリクスは目で追う。
「あぁもうひとつ質問がある。ところでなんだが、なんで〈E計画〉って言うんだ?」
「〈シディム〉の調達と計画遂行のための派閥構築といった前準備を〈D計画〉と称していてね。destructionのDね。その次の段階、そして我々が次なる一歩を踏み出すための計画としてアルファベットのDの次はEということで、〈E計画〉と呼称することにしたんだ。それとexecutionって意味もあるかな。死に損ないの都市を介錯するという、ね。色んな問題から責任逃れして、アスリートをはじめとして様々な人間が増上慢に陥ったオリンピックなんてものを開催しようとした都市の末路としてはおあつらえ向きなんじゃないかな」
〈シディム〉と聞いてフェリクスはようやく思い出した。ソドムとゴモラの沈んだ谷の名。なるほど、東京は〝天の火〟で焼かれるだけの罪と悪徳と退廃を重ねたというわけだ。そこかしこに塩の柱がそびえ立ち、人々もまた塩と化すのは出来すぎているかもしれないが。
「あと『良い計画』だからとか? なんちゃって」
「うっせ、黙れ」
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