Chapter4 海鳴り
Chapter4 泥の海①
あの日からずっと考えている。
二〇二〇年七月二十四日。
なぜ大地震は狙い撃ちしたかのように東京二十三区だけで発生したのか。
なぜオルタネーターは東京に現れたのか。
なぜあの日を境に、異能をもたらすエフェクターと呼ばれる少女が生まれたのか。
なぜエフェクターの少女によって異能をもたらされるオブジェクターという存在が生まれたのか。
なぜオルタネーターに対抗し得るのは、エフェクターとオブジェクターだけなのか。
そもそも、オルタネーターとは何者なのか。
そして、なぜオルタネーターに奪われた東京を取り戻さなければならないのか。
東京を取り戻すために、どうして自分たちが命をかけなければならないのか。
東京を取り戻すことに意味なんてあるのか。
「『京都にオルタネーターが現れた』デマ情報を拡散した疑い 愛知県名古屋市の四十八歳男を偽計業務妨害容疑で逮捕」という見出しを目にし、フェリクスは嘆息とともに新聞の電子版が表示されているタブレット端末をベッドの上に放った。NHKのお昼のニュースを流しているテレビも同じトピックスをアナウンサーが読み上げており、舌打ちと共にテレビのチャンネルを変える。
この手の下らない話とやらかす馬鹿は懲りずに、まるで業務のように定期的に出てくる。オブジェクターとして徴用されたばかりの頃はいちいち腹を立てていたものだが、低能どもの妄言に感情をかき乱されるだけ無駄だという考えにすぐに至った。
こういったイカレポンチどもはある種の病気なのだろう。あるいはママの愛情だかなんだかが足りなかったのか。このような手合はインターネットにはゴキブリのように大量に蠢いている。フェリクスがインターネットを嫌忌する一因だ。
肥溜めとしか思えない民度のニュースサイトのコメント欄。でかいフォントを並べ立てるだけのセンスの欠片も感じられない映像で個人製作のフェイクニュースを垂れ流す動画サイト。議論にまるで適していないSNSで只々感情をぶつけ合い、その余波で憎悪だけが拡散し、アフィリエイト広告収入だけが目当てのブログと動画チャンネルがアクセス数目当てにより過激に歪めていく。
インターネットなど多様性溢れるバラエティ豊かな地獄を光ケーブルで繋げただけに過ぎない、というのがフェリクスの持論である。ろくに言語の読み書きもできない人間どもが文字情報の渦に飛び込めばどんな惨劇が、あるいは無様な喜劇が繰り広げられるか想像に難くない。
フェリクスはキッチンの方に首を回す。シンクで一生懸命に洗い物をしている史香の後ろ姿があった。二人の間では料理をフェリクスが担当、洗い物を史香が担当することになっていた。史香が多少手こずるようであれば、フェリクスも手伝っていたが。
そんな何事もひたむきに物事に取り組む彼女の姿を見て、フェリクスは少しでも彼女を周囲に蔓延る醜悪な情報から遠ざけたいと切に思っていた。ひとまずは何もわかっていないくせに訳知り顔でものを語っている芸能人とコメンテーターの映っているチャンネルを変えることにした。この時間はゴミみたいなワイドショーばかりだと嘆息しながら、今度はBSに切り替えるとまだメジャーリーグが中継されていたので、そのままリモコンを置く。スポーツ中継はいいものだ。毒にも薬にもならないから。勇気を与えられることもない。
「史香ぁー、なんか手伝うかー?」
「大丈夫ですっ。ちゃんと一人でできますからっ」
そう言うものの、一生懸命にシンクに向き合っている彼女の姿に心配になり、フェリクスが立ち上がる。
携帯電話が震えたのは、その時だった。フェリクスはテーブルの上にあった携帯を手にして液晶に〝非通知〟と表示されているのを目にすると、舌打ちとため息を同時に吐き出す。
「もしもし、どちらさま?」
《やあ、私だよ》
「……アンタか。何の用だ。いったい何だってわざわざ非通知で……」
通話を始めると聞き慣れた女の声が陽気な調子で耳朶を叩き、フェリクスも憎まれ口で返す。
《今後の予定の変更を伝えようと思ってね。来週の今日、七日後にウチに来てブリーフィングを行いたいと思うんだ》
「……珍しいな。あんたが随分と前もって予定を組んでくれるなんて」
《更にもう一つ、嬉しい話を付け加えよう。この一週間後のブリーフィングまでに組んでいた任務ローテーションは全て白紙にする》
「……は?」
司のすぐには呑み込むことのできない言葉に、フェリクスはシンクに立っている史香の後ろ姿を見遣ると、窓を開けてベランダへと出た。
「何がどうなっている」
《早い話が休暇だよ。ゆっくり休んで欲しい》
電話越しの司の声と共に、左手首の手錠端末が小さくアラーム音を鳴らす。スケジュールが更新されたことを知らせるアラームだ。
「随分と虫が良いというか、裏がありそうな話だな。今度こそ死んでこいとでも命令するつもりか?」
冗談半分本気半分といったフェリクスの声だったが、
《無論、君たちを死なせるつもりなど毛頭無いけど、そういったこととはまた別の角度でちょっとヤバい話があるんだよね》
思いも寄らない司の返しにフェリクスが僅かに息を呑む。
《びびらせちゃったかな?》
悪戯っぽい司の声音にフェリクスは苛立ちを告げるように大きく舌打ちで返す。
《史香ちゃん連れて、どこか遊びに行っておいで。なんならお小遣いもあげようか?》
「言ったな? 吐いた唾飲むんじゃねえぞ」
《そういう葉月くんの素直なところ、好ましいと思うよ。ちゃんと領収書でよろしくね。ともかく当日の詳細は端末から確認して欲しい。それでは》
一方的にまくし立てて通話を終えようとしたので、フェリクスは鼻で嘆息しつつ携帯から耳を離そうとしたが、《ああそれと……》と付け加える声が聞こえてきた。
《今日、私が話をしたことはくれぐれも内密に。決して誰かに口外してはいけないよ》
そうして今度こそ通話が終了した。フェリクスは非通知と表示されている画面をじっと見つめている。
非通知で通話してきたこと、試しにこの非通知の着信履歴にかけ直したらもう繋がらないこと、この連絡が存在していないとオフレコにしたこと、フェリクスは一週間後に待ち受けている事態に心底嫌そうに顔をしかめた。
「遊びに行くっつったって、ここらへん、もう何もやってねえぞ……」
史香の背中を見て、フェリクスは子供の頃にバラエティ番組で見た舞浜の光景が思い浮かんだ。東京ディズニーランドも〝7・24〟の影響により、無期限休業となっている。確か国内のどこかに移転するという話が報道されていたが、それもいつのことだったか。
再度、携帯電話が震えて鳴る。またか、と嘆息しながら画面に表示された通話相手の名前を見て、「おっとぉ?」と僅かに驚きながら通話を開始する。
「どうした厚治。休みぃ? あぁ俺たちも急に休暇もらったが……なんだお前らもか。それでどこ行くかって? そっか、俺も同じこと考えてた。で、どうする?」
「深山さん、ちょっとしつもーん」
「はい、いかがしましたか?」
柏の葉にある社会衛生省調査局の庁舎の一室。オフィスの主である司のデスクと垂直に並ぶ形で置かれた席で、深山は日時の業務をこなしていた。司に声をかけられ、深山はキーボードを打つ手を止める。
「オルタネーターはどこから来て、どこへ行くと思う?」
先程二回の電話を済ませた後の司の藪から棒な質問に、深山は「え……? は? えぇ?」と戸惑いを露わにした。
「少し質問を変えよう。オルタネーターは何を目的としてると思う?」
それは、まるで……
「……あの化け物に意思や目的のようなものがあるのですか……?」
「少なくとも作為的なものや恣意的なものは感じないかい?」
更に戸惑いと疑問を露わにし続ける深山。司は「そうだねぇ」と言葉を継ぐ。
「例えば、なぜオルタネーターは封鎖都市の中でしか活動できないのか、とか。そういう点から推し量れると思うけど」
深山は釈然としないようで、寄せた眉根の皺をさらに深くする。
「まあ、こればかりは実際に見てみないとわからないからね。深山さんは封鎖都市との県境には行ったことがある?」
「いえ……」
「この仕事に就いているのなら足を運んでおいたほうがいい。今度連れてってあげるよ。そして一度、ちゃんと自分の目で見た方がいい」
千葉との県境になる葛飾大橋や市川大橋の上でこちらの姿を認めて突進してくるが、絶対に県境を前にして引き返していくオルタネーターの姿。
埼玉との県境になる白子川。その短い橋の向こう側でただおぞましくうごめくだけのオルタネーターの姿。
神奈川県との県境となる多摩川の中洲に取り残されて、こちらの姿を認めて右往左往しているオルタネーターの姿。
練馬区と武蔵野市吉祥寺との市境の道路、地獄と化している練馬区側に大挙しているオルタネーターと白い靄の“ゆらぎ”に隔てられて平穏そのものの吉祥寺側という異様な光景。
こちらの姿を目の前にしているにも拘らず、県境に立ち込める白いゆらぎを絶対に飛び超えてこないオルタネーターの姿を司は目の当たりにしたことがある。
「封鎖都市――旧二十三区との県境には白い靄が立ち込めているのは知っているね」
「はい。あくまで知識としてはだけですが……」
「あいつらね、本当にかっちり住所として定められた旧二十三区の外には出てこないんだよ。まるで自分たちでそう決めているのか、あるいは誰かにそう設定されているかのようにね。この国を、あるいはこの世界を滅ぼしたいのなら、首都直下型地震はもっと広範囲で発生するべきだったし、オルタネーターの活動範囲も限定するべきじゃない。これじゃ最早、何かの悪ふざけだ」
そう、悪ふざけに他ならない。旧二十三区にしか発生しなかった観測史上最大の超大型地震も、旧二十三区の中でしか活動できない化け物も作為的あるいは恣意的なものが存在しているようにしか、司にはそう考えるしか他はなかった。
「じゃあ、何者なんですか。この事態を引き起こしたのは……?」
「質問の順番が飛んでるね。この事態を引き起こした何者かが存在するのか、だよ」
司は鼻を鳴らして肩をすくめて言葉を続ける。
「未来人か、あるいは違う次元の人間っぽい存在か。答えは最も深い場所とされている新宿に到達するまではわからない」
〝7・24〟で震源地と想定されている新宿。封鎖都市の最深部と予測されているその新宿から最も近いルートである吉祥寺からの中央線ルートは未だに調査の進捗は無い。
三鷹市、武蔵野市、調布市、狛江市などの東京都西部から旧二十三区に進入する経路の調査の進捗も芳しくない。というのも旧二十三区西部に進入するルートには「絶壁にも近い塩の山がそびえ立っている」「霧だかガスだかで視界が最悪で、その中でオルタネーターとまともに戦えるわけがない」などと数少ない調査からの帰還者からの報告が上がっている。
故に千葉方面や埼玉方面からの他のルートから新宿へ到達できることを期待するしかないというのが現状だ。
「だけど私たちは、その答えを知る必要は無い。オルタネーターに関する根本的な原因となる存在が何者であるのかを知る必要などない」
「…………え?」
「その存在がなぜ、これからオリンピックをやろうとした時に狙いすましてるとしか思えないタイミングで大地震を起こしたのか。どうして旧二十三区のみでしか活動できない化け物を放ったのか、オルタネーターはどこから来てどこへ行くのか。でも別にそんなことなんて知らなくていいでしょ。そんなことを知らずとも、この事態を終わらせられるなら終わらせることをを優先すべきだ」
変わらず困惑を面に露わにしている深山に畳み掛ける。
「深山くん、退職届けを出すなら今だよ。ここから先は君はもう引き返せない。ここから先は逃がすつもりもない」
言いながらファイリングされた書類を深山に見せつけるようにデスクの上に置くと、彼女を獲物を捉える目で見据えた。
「私と、そして彼らと一緒に地獄を歩いてもらう」
「ディズニーランドの無い千葉なんざ、一体何があるってんだよ。北海道民なめんなよ。七年前までは俺の母親は千葉県知事をミッキーだと思いこんでたぞ」
いつものように龍苑のテーブルで食事をしながら紫煙と共に吐き出したフェリクスの千葉県ディスに「そういや昔は浦安の成人式はディズニーランドでやってたもんな、あと実際の千葉の知事は歴代どいつもこいつも役立たずだったな」と厚治が続ける。
「ディズニーの無い千葉なんざ埼玉と大差無えじゃん。イニシアチブがディズニーしか無いってのに」
「ついでで埼玉もディスるな」
苛立ちを隠せずフェリクスは咥えたタバコの先端を赤熱させ、厚治はコップに残ったビールを煽る。
「ドイツ村は十歳そこらの女児には弱えよ~」
「どうしたの、男二人が雁首揃えて何を悩んでんの」
フェリクスの灰皿を交換しに来たおばちゃんが差し挟んできた。
「いやね、しばらく休暇を貰ったもんだから子供達をどこか連れてってやろうと思ったんだけどさ。中々いいとこ思いつかなくて」
厚治のぼやきにフェリクスが質問で継ぐ。
「おばちゃん、なんか子供でも楽しいとこって、近場に無いっすか?」
「だったら、海にでも行ってきなさいよ。いい気分転換になるんじゃない?」
「海かぁ。盲点だった。埼玉とは違う決定的なイニシアチブだ」
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