Chapter3 快楽としての動物保護⑥

 柏警察署をくたびれきった様子で後にするフェリクス。駐車場にはだいぶ以前に見た顔が待ち構えていた。

「留置所の寝心地はどうだった」

「あんたは……」

 プリウスに背を預けた新崎悠矢の姿があった。

「乗ってけ。送ってやる」

「……お久しぶりです。っていうか留置所じゃねえっすよ。保護室です」

 プリウスの助手席にはテイクアウトのハンバーガーセットがあった。

「腹減ったろ。食いながらでいいぞ。こぼすなよ」

 フェリクスが助手席に乗り込んでシートベルトを締めたことを確認すると、新崎はプリウスを発車させた。

「……いただきます」

 こぼれないように紙袋を膝の上に置いて、ダブルチーズバーガーにかぶりつくフェリクス。ジャンクなチーズ味とダイエットコークの人工的な甘味が染みる。

「おい、少しは落ち着いたか。このきかん坊が」

「……すんませんでした」

「腹が膨れたところで説教だ。どうして暴力を振るってはならないかわかるか?」

「あんたまで説教ですか。勘弁してくださいよ。夜中まで刑事さんに……」

「いいから聞け、アホめ。あのな、暴力というのは許可された存在だけが使用していい〝権力〟だからだ。俗に暴力装置と言われてるもの……軍隊や警察だな。そういった規則によって制御された存在が使用できる専売特許が暴力というものだ。お前だって封鎖都心の中で相手にしているのは、何もオルタネーターだけじゃないだろう。その時に使う暴力は社会衛生庁によって正当性を担保されているから、お前は藤林凛を殴り倒しても犯罪にはならなかった」

 黙り込むしかないフェリクス。

「お前を何事もなく釈放する為に、どれだけの人間が慌てて骨を折ったと思う。俺の知り合いにジャーナリストの陰山っていうのがいてな、そいつが一連の騒ぎを撮影してたから良かったものの……そうでなくとも……お前、歳は今いくつだ?」

「は? あぁ……二十一ですけど……それが何か」

「俺から見ればまだまだクソガキだが、國中史香から見ればお前は〝なんでも知ってて、どんな困難にも打ち克てる大人〟なんだ。あの娘にとって頼れる大人はもうお前しかいなんだ。そういったことを肝に銘じて自重しろ」

 史香の名を出されると、フェリクスにはもう手札は無い。

 新崎悠也は過去にシマダ・ディフェンシブツールズに在籍しインストラクターを務めていたことがあり、オブジェクターたちの戦闘訓練を担当していた。いわば新崎とフェリクスは師と教え子の間柄になる。

「お前は國中史香と自分の仲間が生き残ることだけを考えろ。……お前たちを害する輩に暴力を行使するのは俺の役割だ」

 どこを見るともなしに遠い目をしながらダイエットコークをストローですすっていると、やがて見覚えのある光景の場所にたどり着いた。

「ついたぞ。もうちょっとがっつり説教されて来い」

 プリウスは柏の葉駅前の調査局のビルの前で停車した。

「帰してくれるんじゃないんですか」

「まだ足りん。いい加減、それだけのことをやらかしたと自覚しろ、アホめ」

 これまでにフェリクスは幾度もやらかしてきたが、今回ばかりは心底呆れたようで眇めた目を向けてくる新崎。その視線を背中に刺されながら、フェリクスはため息交じりにプリウスから降りた。

「おい」

 とぼとぼとビルへ歩き出したフェリクスの背中を呼び止める。

「俺が訓練をつけた中でお前と喜屋武はトップクラスの実力を持っている。お前たち二人ならより多くの人間を生かすことができる。それぐらいの力を持っていると俺は認めている」

「なんすか。励ましてるんですか」

「そうだ。結局のところ、暴力に打って出たあのデモの女どもは論外だが、それに対して暴力で返したお前もお前だって話だ。年だけ食って使ってない腐った脳味噌抱えてる中年のアホと同じ土俵に立って同じ穴の狢になってどうする。それこそ、今のお前はオブジェクターっていうある意味特権階級の人間なんだ。特別立法の庇護下にあって、ふりかざせる法律があるなら遠慮なく振りかざせ。そのための税金は払ってるだろうし、そのために警察や調査局や俺がいる」

 なげー説教だ、とフェリクスが顔に出す。

「お前今また説教かよとか、なげーよとか思ってないか?」

「いや、いやいやいや、そんな滅相も」

「……俺は我ながら長い説教だと思ってる。だから俺に二度と説教なんかされるようなことやらかすんじゃない。わかったな、このバカタレが」

 立て板に水の如くまくしたてると、プリウスは静かなモーター音を立ててその場を去っていった。

「前から思ってたけど、あの人、ほんと何者なんだ……」

 プリウスの背中を見送りながらフェリクスがこぼすと、振り返って調査局のビルを見上げた。心の底から「帰りてえ……」とこぼしたが、思い浮かぶのは史香の顔ばかりだったため、全力を以てゆっくりと足をビルの方へ向けた。

 ビルに入ると中は静まり帰っていた。今日は平日だ。だが明らかに人払いをさせた静寂に満ちていた。

 だがその中でも一人分の人の気配はあった。

「あっ、お勤めご苦労さまですー。なんてね」

 ロビーのソファに座っていた陰山観月がポニーテールを揺らしながら出迎えてきた。

「車ん中で新崎さんから話は聞きました。そちらが騒ぎの映像を撮影して警察に提出してくれたんすね。おかげで助かりました。ありがとうございます。でも良いんすか。マスコミとオブジェクターの接触は禁じられてるんじゃ……」

「もちろん、そこは司さんにも厳命されていますから、今の私はただの使いっぱしりですよ。でもね、葉月さん、今はマスコミではない一人の年長者として言わせてくださいね」

 陰山は悪戯っぽい笑みを近づけて、言葉を続けた。

「やらかしても、説教される内が華ですよ。それと一人の女としてももう一言。女を泣かせる男は最低です。後で史香ちゃんにちゃんと謝ってくださいね」

 オフィスに入ると司と史香の姿があった。泣きはらしたようで目の周りが真っ赤になっている史香にフェリクスは僅かに息を呑んだ。

「お勤めごくろうさま。座って」

 司が苦笑しながら着席を促すと、フェリクスは大人しくそれに従った。

「だいぶ絞られてきたみたいだね。君を連れ戻すのに私たちがどれだけ骨を折ったか、まあ今の君なら理解できてるでしょう」 

 司のそういった態度にフェリクスは久しぶりにこの女に不気味さを覚えた。いつだってこの女はそうだった。柔和な微笑を能面のように張り付けた表情を常に保ち、感情の起伏といったようなものを見せることはなかった。

 いっそのこと、罵倒してくれた方が気が楽に思えた。

「叱ってもらいたいのかな? でももうそんな歳でもないでしょう」こちらの胸の内を見透かしたような言葉を投げかけられた。「安心しなよ。叱りたくて叱りたくてたまらない人もいるようだから」と言って司はちらと史香に視線を送った。

 史香が怒り肩でソファに腰掛けたフェリクスのもとへ歩み寄っていく。

 できれば目を合わせたくなかったが、合わせない他は無かった。

 泣きはらした顔がまた涙をこらえるように震えていた。

 史香が平手を振り上げる。フェリクスは避けようとすることもなく、構えることもなく、ただ打たれるのを待った。

 だが史香の平手は振り下ろされることはなかった。小さな手がゆっくりと震えながら下げられると、堪えるように彼女のスカートを握りしめる。

「フェリクスさんのばかぁっ!!!」

 代わりに罵られた。育ちのよい史香の精一杯の罵詈雑言だった。

「確かにわたしはあの時、助けを求めました。助けてって言いました。でも……でも……」

 ほろほろと史香の頬に大粒の涙がつたっていく。

「暴力を振るうフェリクスさんなんて見たくない!」

 しゃくりあげながら振り絞って上げた声だった。こんな悲痛な史香の声を、フェリクスは一度だって聞いたことはなかった。

「わたしにとって頼れる大人の人はフェリクスさんしかいないんです。フェリクスさんにしか助けを求めることができないんです。怖かったんです……もうフェリクスさんと会えないと思えて……! 昨日、わたしは独りで眠ることができなかった……! お願いだから、もうわたしを独りにしないで!!」

 そうだ。彼女にはもう頼れる大人は数少ない。そして全幅の信頼を寄せられる存在は自分しかいないのだ。

 そんな自分が今回のように暴走してしまえば、残された史香はどれだけ心細い思いをするのか。

 只々、己の愚かさがこの身を苛むのを罰として受け入れる他無かった。

「ごめんな……」

 我ながらこれほど中身のない言葉は無いと胸の内で自嘲する。だが今、口にできる言葉はこれしか無かった。

「本当に、ごめん……」

「許しません!! だからもう、どこにも行かないで……。わたしの傍から、離れないで……!」

 どれだけ謝罪の言葉を重ねようとも意味は無いのはわかっている。

「許しません……! わたしの知らない、怖いフェリクスさんにならないで……!」

 鼻をすすりながら、涙を溜めた目を上目遣いで向けてくる。

 史香の罵倒と懇願、そして涙はどの大人の説教よりも覿面に効いた。ようやく自分の短絡さと愚かさと情けなさが実態を持った熱として生まれて、胸と臓腑をかき乱していった。

 別室にいたであろう阿波野と深山がいつの間にか背後にいた。「うおっ!?」と驚くフェリクス。

「あらあらあらあら、葉月さんってば女泣かせですね」

 阿波野はいつものように柔和な笑みを向けていたが、やはりこいつもこの状況を楽しんでいるようにも見えた。

「葉月フェリクス、あなたもしかして、ロリコン……?」と深山が引き気味にこぼす。

「違うっ!!」

 そこだけはフェリクスとしては絶対に否定しておきたかった。


 フェリクスから右ストレートを喰らった面を下げて、増川は柏警察署の会議室で事情聴取を受けていた。

 だが自分に都合の悪いことは伏せて、如何に自分が哀れな被害者であることを訥々と語ってみせた。

「それにね増川さん、あなた道路使用許可申請出してないでしょ。凶器だって持ってる人もいたじゃないですか」

「今、その話はしてないでしょう! 殴られたんですよ! 私はただエフェクターの女の子を助けようとしただけです! それなのに、それなのに!」

 先程から同じ問答の繰り返しに刑事たちは辟易していた。

 この手の輩は法律よりも自身の正義だの政治的正しさを優先させる思考回路をしており、警察としても厄介でしかなかった。送検したところで精神鑑定が入るほどに。

 調査局側から明確な証拠である動画を提出されれば、この増川という女の手札はヒステリーしか無かった。

 葉月フェリクスの行いは過剰防衛にあたるが、特別立法によってオブジェクターである葉月フェリクスは逮捕できない。むしろ現在の社会情勢からして特別立法で保護すべき希少な人材であるエフェクターを守ったとも言えた。暴力は過剰であったが。

 この手の感情でしか動いてない活動家に、いくら特別立法の概略を説明したところで無駄だろう。

 とりあえず今回は厳重注意で手打ちとしようか。だが次は無い。そう刑事たちが目配せしたその時だった。

「失礼します」

 会議室に一人のスーツの女性が割り込むように入室してきた。その後ろから「ちょっと、困りますって」制服警官が制止しようとする。

「誰だ、いきなり」

 刑事の一人が部屋に入り込んできた女を睨めつける。女はそれにまるで反撃するように、自身の警察手帳を突きつけた。

「警視庁公安部公安五課、相田夏菜子と申します」

「警視庁の公安がどうして……ちょっと待て。五課だと?」

 警視庁公安部公安五課。警察庁警備局――公安警察直属の作業班であり五課は〝7・24〟以降に新設された部署である。主な活動対象は社会衛生庁による東京奪還計画の妨げとなる集団であり、まさしく増川たちの「新日本母の会」は監視と捜査の対象となり得た。

 柏署の刑事を無視して、相田はメガネの奥の鋭い目つきで会議室の中を見渡すと増川と目を合わせた。

 相田は懐から逮捕令状を取り出し、取調室にいる人間全員にそれを見せつける。

「増川静、旧二十三区調査に関する特別立法違反、道路使用許可違反、凶器準備集合罪、威力業務妨害、並びに未成年者略取未遂の容疑で逮捕します」

 これには柏署の刑事たちも色めきだった。

「ちょっと待て! 公安といえど、いきなりやってきて何のつもりだ!」

「千葉県警警備部との連携は既に済ませてあります。知らなかったのはこの部屋にずっと座っていた貴方たちだけです」

 まるで出来の悪いクラスメイトを侮蔑するような視線と言葉を投げつける相田。

「資金力と組織力をもって、科学的根拠のない独自の主張や教義を振りかざす話の通じない集団を取り締まるのが私の役目です。かつてそのような連中が肥大化し地下鉄でサリンを撒くまでに至ったことは、貴方がたなら知らない話では無いと思いますが? ましてやこの連中はそれらに加えて権力も持ち合わせています。つまりはそういうことです」

 増川の顔から血の気が失せていく。だがすぐに怒りに全身を紅潮させた。椅子を蹴倒し、言葉にならない罵声を絶叫しながら相田に掴みかかろうとするが、相田に入った刑事たちにすぐに取り押さえられた。

 同じ女として唾棄したくなるのだろう。相田は片付けられていない汚物を見るような目を増川に向けていた。

「あぁ、公務執行妨害も追加ですね。それとご心配無く。貴方の飼い主でもある、寺田紗衣議員にもついても捜査が開始されました」

 手錠をかけられた増川の罵倒を背にしながら、相田は会議室を後にした。

「司千歳に呼ばれてみれば、あのような薄汚い女を相手にした捕物でしたか……」

 組織の特徴から社会衛生庁とは時に縄張り争いで反目することもあれば、互いに協力し合うこともある関係だった。

〝7・24〟以降に施行された特別立法によって、オブジェクターとエフェクターの個人情報は一般人以上にアンタッチャブルなものとされており、その身元を晒そうとした者もその情報を拡散した者も逮捕される。よって、増川のデモ隊によってフェリクスと史香の身元が漏洩することは無かった。

 ただ「柏の葉で社会衛生庁とデモ隊がらみの騒ぎが起きた」という噂がネット上に流れただけで、その噂も数日の内にタイムラインから押し流されて消え失せていった。


「ってなことがあってよう、もう大変だったんだぜ、おばちゃん」

 中華屋〝龍苑〟でアルコールの入った厚治はビールを飲み干したコップ片手に身振り手振りも交えて、先日までのフェリクスの事の顛末を語ってみせた。

「気持ちはわかるけどねえ、葉月くん。暴力は駄目よ、暴力は」

「うっす……。反省してます……」

 中華丼を口に運ぶ手を置いて、フェリクスは背中を小さくしてひたすらに恐縮するしかなかった。

「こんなにしょんぼりしてるフェーリャはじめて見た!」

「あの……フェリクスさん、あの時はほんとごめんなさい……」

「いや気にするな、こっちこそほんとにごめんな史香。朝希、お前は笑ってねえで黙って食えっ」

 チャーシューメンをすすりながらけらけら笑う朝希と、チャーハンの蓮華を置いて同じように小さくなる史香。

「でもああいう婦人団体、このあたりでも最近はほんとやかましいのよねえ。あんな騒がしくデモなんてやって、本当に効果なんてあるのかしらねえ」

「あんなん、ただの傍迷惑で自己満足なクレーマーだよ」

 おばちゃんの呆れ半分の疑問に厚治が吐き捨てる。

「ま、俺もフェリクスは災難だったとは思うよ。もし俺があの時あの場にいたら我慢できた自信はねえな」

「もうその話はやめてくれ。十分懲りたって」

「自分が不快感を感じるたびにその対象に社会的制裁を加えて排除しようとしていたら、頭がイカれるのも当然だ。ま、キチーちゃんに絡まれたって諦めるこったな」

「それで警察の世話になってちゃ世話ねえぞ……」

 からからと笑う厚治にフェリクスは口を尖らせた。

 NHKのニュースを映していたテレビから速報の音が流れてきたのはその時だった。ビールのコップを口につけながら厚治は微かに目を上げたが、すぐにその目を見開いた。

「おい、あれ見ろ」

 厚治が店内に備え付けられたテレビを指差す。フェリクスが振り返ると夜のNHKのニュースのテロップには見たことある人物名と〝公職選挙法違反〟という単語が表示されていた。

《今入ったニュースです。一昨年七月の衆議院選挙で野党連合の寺田紗衣議員の陣営に収賄があったとして、公職選挙法違反の容疑で、秋田地方検察庁は寺田議員の事務所などの関係各所に家宅捜索に入りました。繰り返します――》

 突如差し込まれたニュース原稿をNHKのアナウンサーが努めて淡々と読み上げていく。

「あーら、この人ってフェーリャくんに喧嘩売った団体の議員じゃなかったっけ」

 おばちゃんの向けてきた質問に「うん、そうだけど……」と目を点にしながら応じるフェリクス。同じく目が点になっている厚治とお互いに顔を見合わせた。

「タイミングがばっちり過ぎないか……?」

「……俺、もう絶対司のこと怒らせねえ。誓うわ」

「ねえねえ、何かあったの?」

 相変わらずほうれん草を脇によけながら、朝希が尋ねた。

 史香の方は何が起こったのか何となくではなるか理解はしているようで、不安げな目を向けてきている。

 そんな二人にフェリクスは優しい声音で諭す。

「お前らの邪魔をする悪いオバさんは、ちゃんとお巡りさんに捕まったってこった」

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