Chapter3 快楽としての動物保護⑤
「外がうるさいねー」
柏の葉のオフィス、会議室から窓の下を見下ろしながら、司はつまらなさそうに呟く。眼下には横断幕と看板を掲げた中年女性の縦列が駅前のロータリーに入り込み始めていた。拡声器による喚いているようだが防音ガラスで遮られてくぐもっていて、何を言っているかはわからない。どうせ声高に叫んでいる内容は容易に想像できるものだろうが。
「なになに? 何の騒ぎですかー?」
この日、情報交換に訪れていたジャーナリストの陰山も興味深そうに窓に張り付く。
「デモですかー。ありゃりゃ、暇なオバサンたちですね。ちょっくらカメラに収めてきましょうか」
「陰山さん、あんまり奴らを刺激しないようにね」
「大丈夫です。中から撮影しますので」
怪しい笑みを向けて、陰山は携帯端末片手に足取り軽やかにオフィスを後にする。入れ替わるようにやや焦りを表情に浮かべた阿波野が入室してきた。
「あの局長、葉月さんがメッセージが……。車を返却しにこちらに戻ってきたそうです」
スマートフォン片手にした阿波野の報告に、珍しく司が眉をひそめる。
「……タイミングが悪いね。裏口から入るように伝えておいて」
「わかりました。裏口も解錠してきます」
電話をかけながら阿波野は早足で会議室を後にした。
司はもう一度、窓の下のデモ隊を見遣る。デモ隊が掲げた横断幕には何度か見覚えがあった。あれは「新日本母の会」のものだ。ということはあのデモ隊を率いているのは先日、藤林と接触のあった寺田の関係者だろうか。司は目を細める。見覚えのある顔が一つあった。増川という女。寺田の子飼いで「新日本母の会」の中心人物だ。
「まずい輩どもだね……」
さしもの司も眼下で繰り広げられる正義気取りの乱痴気騒ぎに眉をひそめた。
「ったく、ここはジジババのお散歩コースとは違うぞバカタレ。徘徊なら病院行けってんだ、脳の」
調査局のビルから少し離れた駐車場にシエンタを停めた後、ぶつぶつと文句を垂れながらフェリクスは史香の手を足早に引いていた。拡声器の聞くに堪えないシュプレヒコールに史香も不安を表情に浮かべている。
ポケットの中で携帯端末が震える。足を止めずにフェリクスは電話の応対をする。
「あぁ、車なら駐車場に置いて、今そっちに……え? 裏口? もう正面に来て……」
両者の目が合ってしまった。正義を振りかざし、やかましく喚き散らすデモ隊と、そのデモ隊が駆逐すべき対象とみなしている彼女たちで言う〝穢らわしいヒトの雄〟が。
ただでさえ目立つ銀髪の成人男性が少女の手を引いて社会衛生庁の前にのこのこと姿を現したのだ。少女の方は明らかにエフェクターだと推測できたし、銀髪の男に至っては見目からして堅気とは思えなず、デモ隊が妄想するエフェクターを利用する男、都合の良い悪役にしか見えなかった。
相手が人並み以上に背丈があって鍛えている成人男性であっても、人間は集団になるほど常軌を逸するほどに強気になれるし、残酷にもなれる。ゆえにデモ隊の戦闘で拡声器で喚いていた中年の女、増川は体格の良い銀髪の男の姿を認めると、みるみる内に表情を険しくさせ血相を変え、そして吠えた。
「お前! その子に何してんの!?」
拡声器ごしの大声で呼び止められ、フェリクスと史香はびくりと身を震わせた。
「な……っ」
自分とは関係の無いと思い込んでいた一団に意識を向けられ、いきなりの罵声、そして先頭の女が不格好な走り方でこちらに駆け寄ってきて、フェリクスと史香は驚愕に目を見開き、身を硬直させるしかなかった。
女が二人の繋いでいた手を叩き落として、史香の手を奪い取ると、一団の中に戻り引きずり込んでいく。何ら躊躇いも無い唐突な暴力だった。
何がなんだかわからなかった。あまりに唐突なことで目の前の状況を上手く飲み込めなかった。
「フェリクスさんっ!!」
史香が助けを求めるように手を伸ばす。今にも驚きと泣き出しそうな顔をフェリクスに向ける。その悲鳴でフェリクスの中の銃爪のようなものが引かれた気がした。
表面張力でギリギリに保っていた理性の耐久値のようなものが、最後のひと押しで溢れ出してしまったような感覚を覚えた。フェリクスの全身に溶岩のような熱が駆け巡り、忍耐力があっという間に融解していく。
女は龍の逆鱗に触れていた。
「このクソオスがっ! その子に汚い手でさわるな!!」
こいつらは、本当に、何も知らないで。勝手に自分本位で、言いたいことばかり言いやがって。
フェリクスは自動的だった。史香に危害を加える者に対しては一切の躊躇無く、初手で強硬手段に打って出る。その四肢が何ら衒いも無く暴力へ衝き動かされた。
史香の手を奪い取った増川の顔にフェリクスの右ストレートが叩き込まれる。突然の暴力に相手が驚愕しながらよろけたところを、更に容赦無く髪をひっつかんで鼻っ面に膝を突き刺さる。
「史香を離せぇぇぇ!!!」
次にやかましく悲鳴を上げた別の中年の女の肝臓にトゥーキックを突き刺した。
鍛錬された若い男の暴力に中年の女が敵うはずもなく、片っ端から張り倒されていく。
「そっちこそ史香に汚え手で触んじゃねえぇ!!!!」
フェリクスの胴間声が駅前中を揺るがす。
「お前らみたいな喚き散らすしかできない能無しに、史香の何がわかるんだよ!! 言ってみろよ!!! あぁ!?」
突然の出来事にフェリクスの元へ大挙するデモ隊の女たち。だが、フェリクスに敵うはずもなく、顔面をガードレールに叩きつけられ、アスファルトの地面に投げつけられ、倒れたところに鳩尾を蹴り上げられ、拳と肘を突きつけられる。
「あの子がどれだけ苦しんでるのかわかってねえくせに!! どんだけ怖いのを耐えているか知らねえくせに!! どうせてめえら自分勝手な正義感で気持ちよくなりてえだけだろうが!! 好き勝手喚いてんじゃねえよ!!!」
骨が砕ける音というのは、こんなにも響くものなのか。倒れた中年女の踏みつけにして、フェリクスがデモ隊の方を睨むと怯懦で塗り固められた静寂が降りた。
両の拳骨を血塗れにさせて、肩で大きく息をし、血走った目をデモ隊に向けるフェリクス。
鬼、あるいは夜叉としか史香には思えなかった。正義感や自己承認欲求を拗らせたようなデモ隊の女たちのような気狂いどもとは違う、本物の鬼か夜叉が佇んでいた。
その鬼か夜叉が史香の方へ振り返る。
「怪我、無いか、史香」
鬼も夜叉もいなかった。そう言葉をなげかけたのは、いつものフェリクスだった。
パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきたのはその時だった。踏みつけていた女を軽く蹴り飛ばして、フェリクスの暴走はようやく止まった。
デモ行進とは違う騒ぎにすぐ近くの交番から駆けつけた警察官に現場を抑えられた。
「違うんです! フェリクスさんが、この人が! 助けてくれたんです! お願い信じてください!!」
史香が涙ながらに警察官にフェリクスの蛮行を擁護するが、足元に広がる暴力の痕跡は言い訳ができないものだった。
目の奥が熱い。耳鳴りがする。どれだけ深く息をしても酸素を取り込めない。
ビルから飛び出してきた司と阿波野が警察官と何やら問答をしている。だが二人とも諦めを顔に出すと、警察官の一人がこちらに近づいてきた。
「署までご同行願えますか」
自分でも驚くくらいにすんなりと、フェリクスはその指示に従うことができた。
フェリクスの他、デモ隊の中年女の幾人かがパトカーに押し込まれ、一連の騒ぎはひとまず沈静化とされた。
史香はビルから飛び出してきた深山に保護されていた。突然の出来事とフェリクスの蛮行に怯懦を隠せずにいる史香をなだめすかしている。
「大丈夫、大丈夫だからね」
調査局からも何事かとどやどやと職員たちが現場を遠巻きにしていた。
さしもの阿波野と司も困り果てた表情を浮かべている。
「いかが致しましょう……」
「やれやれ、厄介なことになったね……。特別立法があるから葉月くんは逮捕されることは無いと思うけど、あんまり警察に身柄を渡しておきたく無いんだよね。まあ彼の方はなんとかなるでしょう」
二人の傍に陰山がしたり顔で歩み寄ってくると、自分の携帯端末を差し出してきた。
「これ、使います? もちろんデモ隊の女の方が最初に手を出したところからばっちりと」
ほらね、と司は苦笑するが、今度はデモ隊の方へ顔を向けると、昏い目を眇めた。
「……さすがに、ちょっと調子乗りすぎだよね。ああいう人たち」
気が狂いそうになるほどに真っ白な檻の中でフェリクスは力無くうなだれていた。
警察に身柄を拘束されたフェリクスは取り調べを受けた後、柏警察署の俗に「トラ箱」と呼ばれる保護室で一晩を過ごすこととなった。
取り調べの中でフェリクスがオブジェクターであると判明すると、刑事たちは至極めんどくさそうな顔をした後には事情聴取はほとんど形式的としか言えないものになった。要は〝7・24〟以降に施行された特別立法に基づいて、オブジェクターであるフェリクスは逮捕できないというらしい。
とはいえ、しでかしたことは暴行の現行犯に変わりはなく、逮捕されることはなくとも形式的な事情聴取を終えた後は人生の先輩たる刑事たちによる熱烈な説教が繰り広げられた。
聞けば刑事の一人の知り合いにエフェクターとして参加させられる子供がいるらしい。その上、史香の存在まで出されれば黙って説教を聞き入れるしか無い。そういったところでは変に真面目な面もあるフェリクスだった。
大人の男にマジで雷落とされたのって、いつぶりだろうか。小学生だった時に親父が死んで以来だよな。
冷えた頭で考え直してみれば、まず最初に史香を怖がらせて危険な目に遭わせてしまったと後悔した。だが、いやでも、あの時ああしていなければ史香がもっと危険な目に遭ったかもしれないと堂々巡りが始まる。
うん、次から気をつけよう、と自身の反省を簡潔に終えたところで、今度は厄介ごとに巻き込んでくれたデモ隊の女たちのことを思い返して、再びはらわたが煮えくり返り始めた。
あの手の連中の愚行はネット嫌いのフェリクスの耳にもよく届いていた。始まりは正義だの政治的正しさだの権利だのを標榜し、自分の信仰にそぐわないものを見かける度にSNSで槍玉にあげていた。だいたいいち個人の夫婦が投稿した仲睦まじい様子の写真や街中でアニメのポスターを見かけたら世界が終わるかの如く喚き散らしていた有様で、時折、連中の狭い視野の外に存在する同じ女の自由な振る舞いにも見境なく指弾していった。
SNS越しに責任も何も無い舐め腐った子供のお遊戯みたいなものに乗っかって、他人の人生や仕事や生き甲斐が吹っ飛んだりすることに対する重さも何も感じないどころか、それが正義であると盲信している有様で、決まってそんな輩の自己紹介文には「反差別主義」の文字が虚しく表示されていた。
それも〝7・24〟を経て、エフェクターという異能を発揮する少女たちが現れ、更に過激さを増していった。「エフェクターは被害者である」と保護を謳う派閥と「エフェクターは男に媚びる悪魔」と呪う一派とで分派したが、愚かさから言えば同じ穴の狢でしかない。そもそもは自分の気に食わない生き方をしている女性そのものを迫害してるに過ぎない。例えそれが十歳そこらの少女であっても手加減無しだ。
徒党を組んで騒ぎ立てる場所をネットから天下の往来に移すだけの無駄な行動力を発揮するまでになっていた。だがそれもあくまでゲリラ的なものであり、基本的にはSNS上での過激な炎上劇の延長線上のことに過ぎない。
だがその過激さが実力行使に出るまでには、そう時間はかからなかった。今回のように街中に繰り出しては、エフェクターと思しき少女を見かける度に警察沙汰を起こすことも少なくなかった。
こういった手合は、既に手段と目的を履き違えているのが常だった。社会の改善そのものよりも、自分の主張を押し通すことに快楽を覚えていた。
〝問題提起〟などと抜かしながら、いつも火を点けるのはいつだってこのような手合の部外者だ。
こういう連中、学校にもよくいたなとフェリクスは述懐する。
つまるところ、今回のデモ隊の女のような連中は根本的な解決策を考えることは面倒なことはせず、ただただ自分が気持ちよくなれる正義を振り回して遊んで迷惑をかけてるだけに過ぎない。
ああ、そうか。フェリクスの中で一つ、腑に落ちるものがあった。
以前、史香が「東京の方が静かですね」と言ってたことはこのことだったのか。
がたがた喚き散らして邪魔してくるニンゲンと、黙ってこちらを殺しにかかるだけのオルタネーター。どちらを相手にするのが楽かと問われれば、そんなことは明白だ。
言葉を介さず、黙って殺し合いをしてた方が遥かに気が楽だ。
そう考えると、ニンゲンよりもオルタネーターの方が気が合うかもな。これじゃ、オブジェクターもエフェクターも、そしてオルタネーターも本当に同じカテゴリーの化け物なのかもしれない。
そんな半ば思索と薄い睡眠の狭間を漂っていた内に、夜が明けたらしい。こちらに近づいてくる足音がフェリクスの意識を覚醒させた。
「身元引受人が来たぞ」
制服警官がぶっきらぼうに言いながら、部屋の鍵を開けて外に出るよう促してきた。
「釈放だ」
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