Chapter3 快楽としての動物保護④

 半年前の東京も今とそう変わるものがなかった。フェリクスたちレッドラベルの活躍によってようやく上野周辺に足を踏み入れられるようになっていた程度だ。

 フェリクスはその日も変わらず、崩壊した東京の街並みを進んでいた。その傍らにはショートカットの活動的な様相の少女の姿があった。

「お兄ちゃん! フェーリャお兄ちゃん!」

「……蜜李、集中しろ」

「明日は休みだし、今日はたくさん頑張ったから、夜中までゲームやっていい?」

「……早く寝ないと背も胸も大きくならんぞ」

「お兄ちゃん、デリカシー無い! セクハラ!」

「子供の発育に気を配るのも大人の役目だろうに」

「んもー!」

 唐突に足を止めるフェリクス。人差し指を唇に当てて蜜李と顔を見合わせた。

 フェリクスがそっと地面を指差す。そこには塩の山に埋もれた衣服があった。明らかについ先程までそれは人間であった形跡だった。その傍に手錠端末も落ちていることが、この人物の個人を証明していた。

「近いな」

 手錠端末を回収しながら、フェリクスが低く口にする。

 フェリクスの纏う空気が剣呑になり、蜜李の目つきも鋭くなる。

 警戒の意識を更に高めて、二人は再び歩を進めていく。十字路に突き当たると、ビルの壁に身を寄せて周囲に視線を巡らせる。

 フェリクスは蜜李に顔を向ける。蜜李もそれに頷く。

 ビルの壁の縁からわずかに顔を出して、行く先を覗き込む。

 やはり、いた。スノーノイズの塊が周囲の空間に二次元的なグリッチを撒き散らしながら数匹うごめいていた。

「バトルの時間だ。気を引き締めろよ」

 腰に一本だけ差している大脇差大のショートブレード〈ボーンバイター〉を抜くと、自分を落ち着かせるように何度か大きく呼吸をして、壁から飛び出していった。

 こちらの存在を感知したオルタネーターが向けた敵意に肌が粟立つ。勢いよく伸ばして振るわれる触手をブレードで受け流しながら突進は止めない。ギャリギャリッ、と金属質の擦れ合う音にいつもながら背筋が冷えるが止まるわけにはいかない。

 鍔迫合う触手を弾き飛ばすと、鋭く跳躍する。空中で身を翻しながらブレードを振るい、襲いかかる触手を切り飛ばしていく。

 幾度、触手と斬り結んだか。「拉致があかねえ!」と吐き捨てるフェリクス。

 フェリクスは戦闘に割いている意識をほんの僅かだけ背後に向ける。

「蜜李っ! 俺を見ろ!」

 呼ばれて蜜李が壁から飛び出して姿を現すと、彼女の左眼、エフェクターの証である人外の如きアメジストの瞳が輝きを増した。

「〈並列事象召喚(サイマルテニアス)〉!!」

 蜜李がフェリクスを〝観測〟すると、フェリクスの姿にグリッチノイズが走り始め、二重にブレ始めた。――それはまるでオルタネーターと同じように。

 フェリクスの姿の輪郭があやふやとなると分身――否、分裂した。二つのフェリクスの内の一つは変わらず触手を捌き続け防御に徹しているが、もう一つの分裂した方はオルタネーターへ突貫していく。

 オルタネーターが反応できた時には遅かった。分裂したフェリクスの姿がオルタネーターをブレードで斬り裂いていた。

 大量の塩が辺りに撒き散らされる。それと同時に分裂したフェリクスも霞のように姿を消す。戦闘終了。

 そのはずだった。

 ビルとビルの隙間、オルタネーターが身を隠すように潜んでいた。

「くっ!」フェリクスが呻く。反応が遅れた。オルタネーターは蜜李に標的を向けていた。

「やばっ」蜜李も察知する。が、反応が数拍遅れていた。僅かだが致命的な数拍。

 フェリクスが奥歯を噛む。オルタネーターの触手が蜜李に振るわれる。だが蜜李を絶命に至らせる触手は彼女に届くことは無かった。

 フェリクスの分裂体が再度現れ、蜜李に襲いかかったオルタネーターを既に仕留めていた。

 蜜李に大量の塩が降り注ぐ。呆けたように塩の雨を見上げる蜜李だったが、塩が口に入って思わず「ぺっぺっ! ばっちぃ!」と吐き出した。

「怪我ないか?」

「びっくりしたけど大丈夫! でもお兄ちゃん、すごい反応速かったね!」

 すぐにいつもの調子に戻った蜜李にフェリクスは安心と呆れが綯い交ぜになって、大きく肩をすくめる。

「なんかね、ようやくお兄ちゃんと相棒? っていうの? バディって感じになれてきたなーって」

 ドヤ顔でふんぞり返る蜜李だが、フェリクスは鼻を鳴らす。

「レゾナンスの出力が足りてねえ。反応も遅い。後ろに退く判断も遅え」

 蜜李に手を差し伸べるが、すぐに手をデコピンの形にして勢いよく彼女の額を弾いた。

「いったーい! お兄ちゃんがぶった! ばかー!」

「うるせぇ。集中しろってさっきから言ってるだろ。今みたいなこと繰り返すと、ほんとに死ぬぞ」

 まぁでも……、と苦笑を向けるフェリクス。

「確かに、昔よりかは相棒って感じがしてきたな。ここまで来るのにどんだけ苦労したことやら」

「そうそう、お兄ちゃんはすぐキレるし、他の人の悪口ばっか言うし、デリカシー無いし」

「それはお前が言うこと聞かないからだろーが。早く寝ないし野菜も食わねえし勉強もせずにゲームばっかだしお菓子とジュースも飲みすぎだ。あと文句言うのは役人どもがアホだからだろ」

「お兄ちゃんだって、お酒ばっか呑んでいっつも煙草吸ってるじゃん! お兄ちゃん、ほんと煙草臭いよ!」

「俺はやることやってるからいいんですー」

 傍から見れば年の離れた兄妹の痴話喧嘩を繰り広げながら、二人は再び歩みを進めていった。

〈並列事象召喚(サイマルテニアス)〉、それが蜜李がもたらすレゾナンスエフェクトだった。

〝近似的にありえる可能性の事象〟を召喚するエフェクトである。あるいは〝可能性の拡大〟とも言える。

 つまるところ、一度に同時に複数の攻撃を重ねることができたり、または距離の離れた敵にフェリクスの分裂体を飛ばしての遠距離攻撃を可能とした。

 ただし、これは蜜李がフェリクスを観測し、彼女から〝それはありえる可能性である〟と観測できるものでなければは並列事象を分裂体として召喚することはできない。フェリクス自身で並列事象を召喚することもできたが、その場合は観測者の不在をフェリクス自身の精神力で無理矢理補わなければならず、強力だが使い所を選び万能とは言えなエフェクトであるというのがフェリクスの見解だった。

 今しがた蜜李を守った時も、彼女が自分を観測していないままエフェクトを使用したため、フェリクスは目眩に襲われている。視界が揺れるのを堪えるように、フェリクスは大きく深呼吸する。

 可能性が存在するから、事象を生み出すことができる。それは〝ここにいる状態〟と〝ここにいない状態〟を量子的に並列化しているオルタネーターと在り方が似通っていた。

「ねー、お兄ちゃん、ところで今日の夕ご飯はなぁに?」とてとてとフェリクスの広い歩幅に蜜李は早足で追いかける。

「んー、外で食うか」

「あたし、お兄ちゃんのオムライスが良い」

「まーたオムライスか? 昨日の昼飯でも食っただろうに」

「お兄ちゃんのオムライス好きだもん。最近、腕上げたよね」

 にぱっ、と快晴の空のような笑みの蜜李に悪い気はしなかった。

「しょうがねえな。帰りに材料買って帰ろう。ちょっと奮発して高島屋にするか。この前の海外のビール美味かったしな」

「やったー! 高島屋!」

「でもピーマンは入れるからなー」

「やだー!」

 その時だった。自分たちとは別の瓦礫と割れたアスファルトを踏む音。すぐに二人は意識を戦闘態勢に戻す。

 明らかに人のものによる足音と聞こえたが、間隔はやや不規則だった。

 二人は再度、壁に身を隠して警戒を保つ。装備の中にあった手鏡で確認すると何も写っていない。オルタネーターはカメラだけでなく鏡にも写らない。

「まだいやがったのか……」

「ねえお兄ちゃん、大丈夫?」

「俺は大丈夫だ。それよりお前の方が大丈夫なのか。今度こそしっかり頼むぞ」

「わ、わかった!」

 いつもと同じように、大きく呼吸を重ねて心身の臨戦態勢にスタンバイさせてから飛び出す。

 だが、敵の姿を目にしてフェリクスは硬直に身を固まらせてしまった。

 それが致命的だった。

 フェリクスの視線の先には人間がいた。それは確かに人間に見えた。

 だがその人物像の輪郭は時折あやふやになり、ローポリゴンのような雑なテクスチャのようにグリッチノイズが走っていた。

――なんだ、こいつは……?

 人間に見えるが、人間とは認められない。姿を認めても、理性がそれを人間とは認めない。

 そしてその人間からオルタネーターと同様の触手が生え伸びると、ノイズで構成されたそれをオルタネーターの攻撃と同じように横薙ぎに振った。

 フェリクスは反射で動けた。既のところで伏せる。それが精一杯だった。

 振り返り、次に背後に立っていたであろう蜜李の姿を視界に入れようとした時、そこには彼女の姿がなかった。

 ただ、小島蜜李と同質量の塩の山があった。


「とまぁ、こんな具合だ。なぁにが『しっかり頼むぞ』だよ。しっかりしてなかったのは俺の方がじゃねえかってな」

 そうフェリクスが回想を締めた。

 よく見る悪夢では、自分は蜜李の今際の際を看取っていた。だが実際の過去ではそんな間もなく、一瞬のことだった。あの悪夢は最早、悪夢であると同時に自分の一種の願望でもあるのだろうと胸の内で自嘲した。

「人が死ぬ時って、もっと映画みたいにドラマチックに演出されるものなんだってなんとなしに思ってたけど、現実はそうでもなかった。例えるなら、今の今まで歩道を歩きながら会話をしていて、一瞬だけ目を話した隙に居眠り運転で突っ込んできた車にぺちゃんこにされたような、そんな感じ。死んだって実感を持てない死に方だったよ」

「その後、君はそのオルタネーター人間とは戦ったのか」曙橋が尋ねる。

「いや、エフェクターが死んだらまともに戦うことはできないって判断できるくらいの脳味噌は残ってた。蜜李の手錠端末をどうにか拾い上げて、おめおめと逃げ帰るだけで精一杯だったよ」

 煙草吸いてぇ、とぼやくフェリクス。禁煙だかんねーと口を挟む戸川と、「休憩にしようか」と提案する曙橋。

 いやいい、とフェリクスは首を振って言葉を続けた。

「ちなみに〝ヒト型オルタネーター〟の様相は、その時、俺が拾った手錠端末の持ち主とそっくりだった」

「となると寄生という線は消えそうだな。殺した人間の姿をそっくりそのままコピーするのだろうか」

 曙橋は顎に手をあてて考えを巡らしながら、言葉を続けた。

「仮にこの能力を〝擬態〟と定義しよう。そしてこの能力は全てのオルタネーターに備わっているものなのか、それともその能力を持った特異な別種のオルタネーターが存在するのか。擬態したオルタネーターはどういう行動を取るのか。なるほど、情報が少なすぎてわからないことが多い。前任者が一笑に付すの仕方ない」

「仕方ないで済まねえよ。人が真面目に話してみせたっていうのに」自嘲ぎみにこぼすフェリクス。

「だが希少な情報には変わりはない。こういった特異型が存在しているというだけで、少なくとも注意喚起も可能となる」

 曙橋は一連の説明をまとめていたであろうラップトップPCを閉じて視線をまっすぐにフェリクスに向ける。

「礼を言う。葉月フェリクスさん。私が小島蜜李の死を無駄にはさせない」

 意外な言葉を投げかけられたようで、フェリクスは微かに視線を上げた。

 話題も一段落し、「次はこの日に来てねー」と次回の来院の日取りを決めると、フェリクスと史香はシエンタに乗り込み帰路についた。

 フェリクスが初めて語った過去を聞いていた中、史香はずっと黙ったままだった。

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