Chapter3 快楽としての動物保護②

 オブジェクターは車の個人所持は禁止されており、乗用車を利用するなど遠出をする際には調査局に申請する必要がある。そのため二人は柏の葉にビルに訪れていた。

「今日はどちらにおでかけですか?」

 阿波野が視線を落として史香に訊ねる。

「お墓参りに行ってきます」

 史香の言葉に、おや、と視線をフェリクスに投げかける。「そんなところ」とフェリクスは顔を背けているが、阿波野にはいつもの拒絶を孕んだ見えない壁は幾分か薄まっているように見えた。

「そうでしたか。運転、気をつけてくださいね」

「はい、どうも」

 鍵を受け取ったフェリクスの声音にいつもの生硬さや刺々しさは無かった。

 車を借り受け、ようやく出発する。

 途中、線香と仏花、そして供え物の菓子などを買い揃えて、フェリクスがハンドルを握るシエンタは江戸川を超えると、さいたま市の霊園に向かう。

「蜜李は……ほんとお前とは正反対の奴でさ……」

 道中、運転をしながらフェリクスは蜜李の人となりを語って聞かせた。

「全然聞き分けが悪くてな、好き嫌いも多いわ、牛乳飲まねえわ、言うこと聞かねえわ、いつもべらべら喋ってるわ、夜は早く寝ないわ、部屋は片付けねえわ、ゲームばっかしてるわ、すぐ泣くわで……」

 フェリクスの顔は昔を懐かしむような苦笑いだった。

「そうは言っても、俺もオブジェクターになったことも納得がいかなくて、全然余裕が無くてな。自分一人のことで精一杯で、最初の頃は蜜李とはあんまりうまくいかなくてさ。まあ、それも半年くらいしてようやく慣れてきてたんだ」

 深く息をついてフェリクスは言葉を続ける。

「戦うことにも、赤の他人の子供と一緒に生活するのも、仲間が死ぬのを見るのも……」

 二人で交わした言葉はそれきりで終わってしまった。

 居心地の悪い沈黙に耐える内に目的地の霊園が見えてきた。

 車を駐車場に停めると、フェリクスは一枚のメモを取り出した。小島蜜李の墓がどこにあるのか、司千歳を通じて陰山観月と新崎悠矢に事前に探してもらっていた。そのメモに書かれた墓所番号と地図を頼りに「小島家之墓」と掘られた目的の墓所にたどり着いた。

 墓石に目立った汚れは無かった。その傍に備えられた花はしなびてはいるが、それほど日は経っていないものに見えた。フェリクスは微かに目を眇める。頻繁にここに人が来ているのだ。おそらくは、月に一度……。

 フェリクスは墓石の側面を覗き込む。「小島蜜李」という名前と彼女の生年月日、そして命日が彫り込まれていた。その命日をじっと目にして、胸の内に澱みが増した。

「史香、はやいとこ済ませちまおう」

 お墓参りはそんなに慌てて済ませるものなのだろうか、と史香は疑問に思った。

 霊園の中で人の存在を認める度にフェリクスはしきりに気にしていた。まるで、誰かと鉢合わせをすることを恐れているかのように。

 フェリクスはしなびた古い花を手早くビニール袋に仕舞い、自分達が持ってきた新しい仏花を供える。線香に火をつけると、沈香と白檀の香りが鼻孔に流れてくる。史香も道中で買ってきた菓子とジュースを墓前に添えると、二人で手を合わせた。

 目をつむって手を合わせている間、どんなことを伝えればいいのだろうと史香は考えていた。やはり挨拶だろうか。こんにちは、はじめまして。わたしはフェリクスさんの新しいパートナーです。

 目をあけて見れば、フェリクスが顔を上へ向けているのが見えた。晴れ渡った青い空を見るでもない、何も映していない遠い目をしており、感慨深そうにゆっくりと深く息を吐いた。まるで肩の荷が降りたような、あるいは何か恐れていたものが過ぎ去り安堵できたような。

「もう行こう」

 やけにせわしない墓参りだった。墓所を後にして駐車場に戻る間、先程と同じようにフェリクスは周囲を気にしており、他の人影を避けるようにしていた。

「……鉢合わせしたら、その、まずいだろ?」

 疑問の目を向けていた史香のフェリクスが答える。

「蜜李の両親に、まだ会う覚悟は無いんだ……。あっちも俺の顔なんざ見たくないと思ってるだろうし」

 そうこぼすフェリクスの背中は、ひどく小さく見えた。

 その小さくなった背中の後をついて駐車場にさしかかったその時だった。

「あれぇー? もしかして葉月くん?」

 自分の名を呼ぶ声に、フェリクスはびくりと肩を震わせる。史香もそれに釣られて身を震わせた。

 一人の女がフェリクスを呼び止めた。きっ、と怯えを露わにした顔を上げたが、その女の顔を見てフェリクスは驚きと安堵が半々になって張り詰めた息を深く吐いた。

「狩村さん……」

「ごめん、びっくりさせちゃった? 久しぶりね」

 史香が二人の顔を見比べる。どうやら知己の仲のようだ。それも結構親しい感じの。

「紹介するよ、史香。この人は狩村長閑さん。元オブジェクターで俺の仲間だった人だ」

 珍しくフェリクスが他人に少し恐縮している様子で、史香は少し驚く。

「初めまして。狩村長閑です」

 そう言って、長閑と名乗る女はおだやかな笑みを史香に向けた。「はじめまして、か……國村史香です」と史香も挨拶を返す。

「それにしても久しぶりね。いつぶりかしら?」

「……ちょうど半年かそこらかですかね」

「そっか。もうそんなに経つんだ、私がオブジェクター辞めてから。なんか実感湧かないなあ」

 久しぶりの再会ににこやかな表情を向ける長閑だったが、それとは逆に「そうっすか」と視線を右往左往させていた。

「もしかして急ぎ?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「もしかして誰かに会いたくないとか?」

 図星を突かれて、フェリクスは困り果てたように嘆息する。その顔を見て、長閑は苦笑した。

「私もキミとおんなじ。ねえ、立ち話もなんだし、どこかでゆっくり話さない?」


 何の変哲もないファミレスで三人は腰を落ち着けて、少し早い昼食にしながら昔話に花を咲かせていた。

「うん! なんかおねーさん、安心した!」

「……何が安心したんすか」

「葉月くん、以前よりいい顔するようになったじゃん。蜜李ちゃん……だったよね。あの子を亡くしてからも、どういうわけかあなたは独りで戦うことができたけれど、その間ずっと酷い状況だったよ。顔もずっと険しいし、なーんか目が死んでた、せっかくのイケメンが台無しではっきり言って近寄りづらかった。寄らば斬るって感じで」

「んぐっ」

 含んだコーヒーを吹き出しそうになるのを堪えて、フェリクスは顔を恥ずかしさに赤らめた。

「あの、一人で戦っていたってどういうことなんですか?」

 二人の話を聞いていた史香が問いを挟む。

「蜜李ちゃんが亡くなってからも、どういうわけか葉月くんは一人だけでもレゾナンス状態に入ることができたの。普通、オブジェクターは右目だけが紫色に変わるでしょ? でも葉月くんの場合、それが両目に出てたの」

 そんな話、一度も聞いたことは無かった。

 よくよく考えたら、史香自身、フェリクスのことをよく知らなかった。この三ヶ月、フェリクスは自分の口から自身のことを語ることはほとんど無かった。

 同時に、他の女が自分の知らないフェリクスを知っていることも、史香にはそれが少し面白くなかった。

 その上なんだか、長閑と話している時のフェリクスの様子は見たことの無いものだった。普段は司や深山に対しても怖いもの知らずのように横柄な態度を取っているのに、長閑に対しては少し恐縮しているようで……。

「二人はどうして知り合ったんですか?」

 その埋め合わせもしたいという気持ちが生まれたのか、野暮な気持ちも無きにもしもあらずで少し突っ込んだことを尋ねてみた。

「そうそう。私がオルタネーターに左足をやられて塩化が全身に進みそうなところを、葉月くんが助けてくれたの」

「……助けたと言えるかどうか」フェリクスは微かに視線を落として、申し訳無さそうにこぼす。

「命拾いしたんだもの。足の一本程度で済んだのならありがたいものでしょ」

 史香が注文したパスタのランチセットが運ばれてきたのはその時だったが、手をつける気にはなれなかった。軽い気持ちで尋ねてみたら思った以上に重い過去が返ってきてしまった。

 長閑は史香を見ながら、自分の左足の膝から下を指で切るようになぞって見せる。

「ここから下をオルタネーターにやられてね、体全部が塩になる前に葉月くんが足を斬り落としてくれたの。おかげで義足になる羽目になったけど、まあ死なずに済んだしね。だから葉月くんは命の恩人」

 静かだが朗らかな声音だった。長閑は心底、フェリクスに感謝しているようだった。

「飯時に話すような話じゃないでしょうが」

 当のフェリクスはいたたまれなさにドリンクバーのコーヒーに視線を落とし続けていた。

「私だけじゃない。手足の一本を失くすことになったけど、葉月くんや喜屋武くんに命を助けられたオブジェクターやエフェクターは結構いるのよ」

「感謝される謂れは無いっすよ……。俺は誰も……無事に助けることはできなかった……」

 申し訳なさそうに目を伏せるフェリクスに、狩村は苦笑した。

「ま、こういうクソ真面目過ぎるな男だからさ、史香ちゃんも苦労してるでしょ!」

「ふぇ!? えっと、えっと……フェリクスさんには、とても良くしてもらってます」

「そっかー。それなら良かった」

「史香にダル絡みしねーでくださいよ。ほら史香、パスタ冷めちまうぞ」

 言われて、史香はようやくパスタに手をつけたが、すっかり失せた食欲にフォークが進まない。

「それで、足の具合とか仕事とか色々と大丈夫なんすか」

 二人揃って注文した同じハンバーグセットが二つ配膳されると、フェリクスは早速手をつけながら長閑に尋ねた。

「リハビリも順調に終わって、日常生活も特に問題無いよ。長距離歩くのはしんどいけど、膝の上までやられてたらもっとしんどいって医者も言ってたし、私なんかまだマシな方でしょ。仕事も親戚がやってる会社に入れてもらってね、良くしてもらってる。ようやく落ち着いてきたって感じかなぁ」

「変な連中に付きまとわれたりは?」

「変な連中?」

 フェリクスの言葉に、漫然とパスタを口に運んでいる史香が疑問を差し挟むと、長閑は変わらない微笑で答える。

「ジャーナリストだか芸能人気取りの変な連中がいるのよ。動画配信だか変なブログを立ち上げてるストーカーじみた奴ら」

〝7・24〟以降に施行された特別立法により、オブジェクターとエフェクターの個人情報は一般人以上に保護されてる。だがそれも形骸化しつつあるのが現状だ。マスコミこそ法に従ってはいるものの、週刊誌は相変わらずグレーゾーンを綱渡りしているし、連綿と続く自主的な隣組やご近所同士の相互監視により情報は筒抜けとなっており、一つの社会問題とされている。

「妄想と嘘も交えて、あることないこと動画サイトで配信してるくだらない連中。ナントカチューバーとかライバーって言うの? 実際に嘘まみれの動画が拡散されて、居場所を失くした元オブジェクターや元エフェクターも結構いるのよ。モラルやリテラシーを母親の腹の中に忘れてきた自己顕示欲まみれた動画配信者どもやブロガーども。まったく、目の前に現れたら張り倒してやりたい」

「……俺は狩村さんに何事も無くて……良かったと思う。っていうか、だったらネットなんざやめればいいでしょう」

「いやぁ、そうは言ってもねえ……。情報は逐次チェックしておきたいよ?」

「狩村さんに今のところ何もなければ見なけりゃいいだけの話じゃないですか。いちいち自分からムカつくものを見に行って、わざわざイライラしてるなんてアホらしいっすよ。インターネットをやめてください」

「ニュースとかもさ」

「インターネットをやめなさい」

「ネコちゃんとかワンちゃんの動画見たいし」

「インターネットをやめろ」

「でもさぁ……」

「インターネット、やめろ」

「…………はい」

 肉体というインターフェイスの枷の無い空間に集合知と理性なんてものは存在しない。あるのは自己顕示欲と都合の良いダブルスタンダードな正義をぶつけ合って、それで世界が少しでも良くなると勘違いしている妄執だけだ。そんな醜悪な空間にわざわざ自分から首を突っ込んで、精神を削られる必要は無いというのに……。

 その後も二人は昔話に花を咲かせていた。大体がフェリクスの恥をかいた話だったが。それでも困ったようでまんざらでもなさそうな表情を長閑に向けるフェリクスを、史香はちらちらと眇めた目で見ていた。

 フェリクスさんって昔はどんな人だったんだろう。わたしはこの人のことをもっと知りたい……。

 それが嫉妬というものであると、史香には自覚できなかった。

 食事も会計も終えて三人は店を後にする。「それじゃ今日はこのへんで。なんかあったら連絡してねー。相談に乗るよー」と長閑は自分の車へ足を向けた。

「あーそうだ。史香ちゃん」

 長閑に呼び止められて史香が振り返る。

「葉月くんのこと、くれぐれもよろしくね」

「くれぐれもよろしくするのは俺じゃねえんすか」とフェリクスは眉を八の字にする。

「だって葉月くん、傍から見てて危なっかしかったもん」

 だから、と長閑は史香に目を向けた。

「本当に、葉月くんのこと、よろしくね」

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