Chapter3 快楽としての動物保護
Chapter3 快楽としての動物保護①
「君ってアメリカ人だっけ?」「うわっ、ガイジンだ」「ロシアってアレか? ボルシチとか? プーチンとか?」「おい日本人もどき」
「ロシアとか戦争大好きの蛮族じゃん。おそロシアじゃん。おそロシアだ。殺されるぞ〜」「おい葉月、北方領土返してくれよ」「なんかロシア語喋ってよ。ウラーとか? ぎゃははは」「でもお前、見た目の時点で日本人じゃないじゃん」「葉月また活躍してたんだって? ドーピングかー?」「ロシアに帰れよ」「ロシアってさ、昔日本が戦争してた時に条約破って侵略してきた卑怯者じゃん」「お前の母親、ロシアからのスパイだろ」「ロシアって北朝鮮を支援してる国じゃん」「葉月、お前なんで髪を染めてるんだ。自毛だと? 嘘をつくな。本当だったとしてもここは日本だ。黒く染めてきなさい」
子供の頃の記憶はとりわけ学校のものが大半であり、フェリクスにとっての学校の記憶というものは腐ったものでしかない。
日本人と父とロシア人の母の間に生まれ、母方の血の方が色濃く出たフェリクスは当たり前のことではあるが、日本人離れの容姿に奇異の目で眼差されることが多かった。白人を見れば「だいたいアメリカ人」としか考えない日本人に「ロシア系だ」と訂正すると、大抵が少し引き気味に顔を引きつらせた。
折しも、ロシア空軍の戦闘機による領空侵犯や北海道北部海域周辺でのロシア漁船の違法操業が日常的に行われていたことに加えて、日本に対するロシア系クラッカー集団によるランサムウェアでのサイバー攻撃が頻発している。また、クリミア併合からはじまったウクライナをはじめとする東欧諸国への強行的姿勢も継続しれていれば、日本国内での対露感情は芳しくなく、そういった報復的感情がフェリクスに向けられることも、日本人の島国根性からすれば当然のことだった。
口を聞けば「日本語がお上手ですね」と皮肉げに返され、なにか失敗すれば「ロシアに帰れよ」と罵られる。「日本とロシアが戦争したらどっちにつくの?」と頭の悪い質問を無視してきたのも数え切れない。興味の無いサッカーのワールドカップだのオリンピックだのが開催される度に揶揄されたり、日本国内で白人が何かしら犯罪を犯せば「あいつ、お前の知り合いじゃねえの」と煽ってくる。頭の悪いクラスメイトならまだしも、いい歳した教諭までもが同様に、だ。その度に暴力的な衝動が身の内で灼熱を持ってのたうち回った。だからそんな低能どもを合法的な手段で黙らせるためにどれだけ勉学で良い成績を修めたし、どれだけスポーツで活躍したが、そんなことに意味はなかった。それどころか奇異の目の中に妬みと嫌悪も加わった。
得体もしれない白人との混ざりもの。日本人の紛いもの。フェリクスをそう遠巻きにしていた者たちは、その実態が外見以外は日本人とそう変わらず、しかし半分でしか日本人でしかない。見る目は珍獣か何かに向けるそれになった。勝手にテレビに出ているようなハーフのタレントのような役割を勝手に期待し、そして勝手に期待を裏切られたと喚く。すぐにフェリクスへの多くの眼差しは奇異のそれから敵意かあるいは差別と呼ばれるものなった。
そしてその差別に対しフェリクスもまた激しい敵意と憎悪を向けるのも当然の話でしかない。
だからフェリクスにとって、東京が大地震によって崩壊し得体のしれない怪物によって占拠されたことも、どうでもいい話でしかなかった。
国家だの都市だのを帰属先としてアイデンティティ保つことなど、フェリクスにとっては微塵も理解できないことだった。
多様性を尊重しよう。互いの違いを認め合おう。肌の色など関係ない。生まれた国も関係ない。政治的に正しい表現をしよう。
そんなおためごかしなど所詮は上辺だけの薄っぺらいものに過ぎず、〝7・24〟という惨劇を経て、東京を失うという非常事態の真っ只中では〝正しさ〟という薄っぺらい化けの皮はすぐに剥がれ落ちた。フェリクスの生まれや肌と髪と瞳の色は〝普通の日本人〟たちの集団ヒステリーやフラストレーションをぶつけるための格好のサンドバッグにしかならない。奇しくもちょうどアメリカでは、アジア系に対するヘイトクライムが盛り上がっていた時期で、その反動によるものもあった。アメリカとロシアの区別もつかないのかと、全く阿呆らしいとしか思えなかったが。
今になって思えば取るに足らない学校という小さな吹き溜まりの中の些事だったとも思えたがだが、十代半ばの繊細な心持ちの時期に、これらの仕打ちは精神と価値観を歪ませるに十分過ぎた。フェリクスが学校という偏見のエコーチャンバーに満ちた狭苦しい社会の中で敵に囲まれるのは当然の帰結だった。
一人、フェリクスのことを犬畜生か何かとしか認識していなかった教師がいた。中年女性の数学教師で熱心に日の丸を振り回し、授業よりも特定の新聞社やマスコミを罵倒することや選挙活動に熱心だった。フェリクスを目にする度に「DNAの壊れた雑種」と呼び、ソ連の不可侵条約云々だの、北方領土云々だの、北朝鮮と中共との関係が云々だの、オリンピック選手はドーピング汚染してるだのと子供相手に説法しても栓のないことを演説していた。
だが、さすがにその女の悪意がフェリクスの両親にまで及ぶと話は違った。学校という生腐れした小さな社会の中での確実な問題解決方法。フェリクスにとって、それは暴力だった。暴力しか無かった。何事も暴力で解決するのが一番だった。
無論こちらから先に一方的に手を出すことは無かったし、むしろフェリクスは日本に住む者らしく専守防衛を信条としていた。いつも相手から突っかかってきたから殴って黙らせただけの話だ。道理はあちらに無いし、非もこちらに無い。相手が男だろうが女だろうが先輩だろうが後輩だろうが関係無い。無論、それが教師であろうとも。
封鎖的で問題の表面化を最も厭う学校という場は、結局フェリクスを厳重に叱責するだけのほとんど不問に近い形で無理くりに問題を終わりにした。フェリクスの受けていた仕打ちを故意に無視していた他の教師からの半ば罵倒に近い叱責を受け流しながら、つくづく学校という場は道理も何もあったもなじゃないと改めて思ったが、その不条理さがこの時ばかりはフェリクスに味方した。
そうして最終的に孤立という結果をもたらしたが、当時のフェリクスにとってのそれは最も煩わしくなく快適ものだった。誰もが自分を避け、そして自分も誰も彼もを存在しないものと扱う。勉学に関しては優秀な成績さえ示していたのであれば頭の悪い教員たちも黙るしかない。教諭の胸先三寸で決まる高校受験と違って、大学受験は一発勝負の一般受験であったので、それもフェリクスにとっては都合が良かった。
東京に行けば変わるのかもしれない。東京は違うのかもしれない。誰もが誰に対しても無関心で、髪が銀色だったり顔つきが日本人らしくないといった程度のことでは見向きもされない。きっと居心地のいい場所なのだろう。そんな子供らしい漠然とした憧憬は、だがそれも〝7・24〟で潰えることとなる。
今の旧二十三区外の東京は二〇二〇年より以前の薄汚い残り滓でしかないように見えた。
しかしそうであっても、フェリクスがこれまで積み重ねてきた努力は決して裏切ることはなく、晴れて現役で北海道大学への進学が決まった。
ようやく、自由になれる気がした。
ようやく、母に心配をかけることもなくなると思った。
ようやく、まともに道理の通る世界が始まると思った。
だが不条理な世界は学校だけに限ったことではない。むしろ学校の外もまた、それ以上に道理の通らない世界だ。そのことがわからなかった程度に、フェリクスはまだ幼かった。
大学合格の報せを受け、入学費用を納めに銀行に向かおうとした日。悪質な嫌がらせか、あるいはたちの悪い冗談のようなどうしようもない運命がフェリクスの肩に手をかけた。
自宅に半ば強引に訪れた入国管理局を名乗る者たち。入国管理官は「君には東京を救う資格がある」と慇懃に言った。突き出された赤いインクで印字された用紙。オブジェクターとしての素質があるという云々の書類。無論、フェリクスに東京を救うという殊勝な心づもりなど歯糞ほども無かった。オブジェクターとしての参加はあくまで志願制であることが法的にも定められているとう点をフェリクスは指摘すると、入国管理官は、明らかにこちらを虫か何かを見る目つきで、次に母である葉月ジナイダの在留資格の話を持ち出してきた。
母の在留資格には何ら瑕疵は無い。母は帰化せずに国籍はロシアのままだったが永住権は既に確立されている。だがそんな理屈は連中には通じなかった。
相手は自分たちの保身のためなら公文書も平然と改竄、隠匿、破棄するような遵法精神の薄い官僚連中だ。日本人ではないのだからと、入管収容所でひと一人、人非人の如き扱いをして殺しても何とも思わないような人狩りども。
志願とは名ばかりの強制徴用は全国どこにでも繰り広げられている。フェリクスのように不条理な法の横紙破りを受けるケースもあるが、大体は〝世間の目〟に突き上げられることが多い。「せっかく素質があるのに、志願しないとは何事か」という世間の目。隣ご近所の相互監視からSNSへ発展していった世間の目は捉えた相手を決して許さず、その暴力性に正義のおためごかしが掲げられれば誰もがそれを振るうことに躊躇しない。
かくして、母親を人質にとられたフェリクスはオブジェクターとして東京という異界に向かわされた。見送る母の顔は今でも鮮明に思い出せる。自分の身代わりになって息子が死地に駆り出されるその心中は察せられる。
結局のところ、自分のような日本人のなり損ない、銀髪の雑種はテレビやSNSなどで政府に対して尻尾を振ってみせなければ二等市民にもなり得ないということだ。純血の日本人が求める媚の売り方ができて、芸ができて、〝貢献〟とやらができて、ようやくここで息をすることを許される。度重なる偏見と嫌がらせに対し募る憎悪を無関心という形で耐え難きを耐え忍び難きを忍んで日々を大人しく静かにやり過ごしているだけでは、日本人の外見的特徴からかけ離れた葉月フェリクスという存在は「よくわからない怪物」というレッテルを貼られる。
ましてはオブジェクターなどという理解の及ばない存在にもなれば、尚更だ。
悪意を向けてきた者の顔も名前も声は、上手く思い出せない。
だが、悪意を向けられてきたことだけは刻みつけられているかのように覚えている。
忘れたくとも忘れられずにいる。
その向けられてきた悪意すらも、最早フェリクスを成す一部と成り果ててしまっていた。
だがそれでも、十歳かそこらの少女が得体のしれない化け物がうろつく崩壊した都市に駆り出される、そんな運命を哀れむくらいの倫理観もフェリクスの中には熾火のように残っていた。
それは慈悲や思いやりかもしれないが、だが同時に自分が〝人間〟であることの確認行為でもあった。オブジェクターという人ならざる異能を身に着けた自分は決して化け物なんかではないという確認行為。
幼い日からずっと何かを憎み続けてきた。
最早、憎悪が自分を構成する一部に成り果てたことは否定するつもりもなく、フェリクスはそのことを潔く認めている。
だが、その一方で憎むことしかしてこなかった日々に疑問をも持ち始めている。
彼女の――史香の微笑みを目にする度にそう思う。
微睡みから目覚める。泥濘のようなだるさの無い、すっきりとした目覚めだった。デジタル表記の目覚まし時計を見れば、アラームが鳴る午前七時より少し前。
フェリクスは身を起こしリビングへ立つ。少しも煙草を吸いたいという気持ちも湧いてこない。自分が少し前向きな心持ちであることに薄く笑みを浮かべ、今日一日の身支度を始めた。
「今日は蜜李の月命日なんだ。検診の前に墓参りに行こうと思う」
史香も起床して一緒に朝食のトーストをかじりながら、フェリクスから今日一日の予定を聞いていた。今日は昼過ぎ頃に定期検診があるが、その前に午前中に外出するとのことだ。
はて、と史香の中に疑問が生まれる。フェリクスとパートナーになって四ヶ月が経つが、その間に一度も墓参りなど行ったことがなかった。
「でも今までお墓参りに行ったことなんて……」
「ようやく、行ける決心がついたんだ」
その言葉に史香はフェリクスの抱えていた葛藤のようなものを察することができた。
そうだ。相手は元パートナー。自分が守り切れなかったエフェクターだ。
――蜜李……フェリクスさんの最初のパートナー。
フェリクスや厚治との会話の節々だったり、住居の調度品などで蜜李という別の少女の存在を史香は何となしに察してはいた。
興味はあった。だが不躾に訊ねることなど史香にはできなかった。パートナーを守り切ることができずに亡くしてしまったのだ。あまりにセンシティブな領域に無遠慮に踏み込むような真似をするほど、史香は無粋ではない。
いつか自分から話してくれる日を待ってみようとは思っていた。
案外、その日は早く訪れた。
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