幕間・金築史香②

「お邪魔します」

「『ただいま』でいい。短い間とはいえ、もうここはお前の家だよ。遠慮されると俺も困る」

 流山おおたかの森のマンションに戻った二人。フェリクスは「そこらに座っててくれ」と促すと、自分はキッチンへ向かった。電気ケトルのスイッチを入れながら、スーパーで売ってる大量生産品の紅茶のティーバッグとカップを二つずつ取り出しす。

 大の成人男性と十歳そこらの少女を一つ屋根の下で共同生活させる……。これが初めてのことではないが、我ながら狂っているとフェリクスは胸の内にこぼした。

 だが狂っているのは自分だけじゃないだろう。こんなことを許可する司たち行政機関や政府もそうだ。それなりの倫理観を持っていれば、眉をひそめるどころの話ではない。あるいはこのような倫理的な問題にすら気も回せないくらいに切羽つまっているのだろうか。

 もしくは少女を危険地帯に連れ回すことを許可する日本政府に、そんな倫理観を期待する方が間違いなのだろう。

 司はこちらを信頼しているとのまたってはいたが、大方面白半分か面倒事をこちらに全部放っている体だろう。今度会ったら殴ってやろうか。女だろうが関係ない。

 キッチンから、ちらとリビングの史香の姿を見やる。ちょこんとソファに腰掛けてお手々は膝の上にしており、きょろきょろと部屋の中を見回している。そんなに物珍しいものも無いだろうに。

「あー……そんなにかしこまらなくなっていいよ。足も崩して」

 紅茶を出したものの彼女は手もつけずにいる。緊張しているのか、それとも警戒されているのか。

「お茶、あんまりうまくないか?」

「い、いえ、頂きます」

 そう言って、史香は少し慌てたように紅茶に口をつけた。

「とてもおいしいです」

「そっか、ペットボトルのやつあっためただけだけど」

「あ……」

 恥ずかしさに史香の顔がみるみる桜色に染まっていく。やはりかなり緊張していたようだ。

「冗談だ」

 フェリクスが薄く苦笑する。一方の史香は少々戸惑いを隠せずにいた。

「あの……」

「うん?」

 史香はティーカップを置くと、居住まいを正して姿勢を整える、改めてまっすぐな視線をフェリクスに向けて頭を下げた。

「これから、ご迷惑をおかけすると思いますが、どうかよろしくお願いいたします」

 十一歳が口にするような言葉ではない、とフェリクスは顔に出さずに辟易とする。何が彼女をこうもさせたのかは想像に難くない。

「迷惑なんかじゃねえよ。これからパートナーになるんだ。もう気にしてないさ。それより俺の方こそ、さっきはごめんな。でかい声出しちまって……」

 居心地の悪い沈黙が降りる。何か話題を探すように史香は部屋をぐるぐると見回す。そこで、はて、と何かに気がついたように口を開いた。

「ところで、フェリクスさんには私の前に別のパートナーが――」

「お代わりいるか? それとなんか茶請けのお菓子でもあったかな……」

 史香の言葉を遮るようにフェリクスは立ち上がって逃げるように台所へ向かう。

 改めて棚を開けてみてフェリクスは小さくため息をつく。歩み寄ろうとした彼女に早速、壁を立ててしまった。

 そんな自己嫌悪を誤魔化すように棚を漁ってみる。だがあるのは酒のアテになるものしか無かった。我ながら……と呆れる。

 この部屋にはかつてここで共に暮らしていた、少女が立ち入るような要素はもう失われていた。

 フェリクスは棚の奥からスナック菓子を見つけたが、ハバネロ味という表記に辟易してまた戻す。結局観念して、部屋の鍵と財布を手にすると玄関に向かった。

「ちょっとコンビニかスーパー行ってくる」

「あの、でしたら、わたしも」

「いやいいよ。テレビでも見てて待っててくれ。なんかチョコレートとかでいいな?」

 立ち上がって付いてこようとした史香を制しながら靴を履く。

 正直、一人でいる時間が欲しかった。誰かと一緒にいるというだけで、これだけ息がつまりそうになるのは久しぶりだった。

 大人しく座り直した史香を背にそそくさと出立しようとするフェリクス。

 来客を知らせるチャイムが鳴ったのはその時だった。

 靴まで履いたのにどこのどいつだと、少し苛立ちながらフェリクスはカメラ付きインターフォンの応対に出る。

 画面には見知った顔が二つ、ニヤついた表情で並んでいた。

「お邪魔するわよーぅ!」

「遊びにきたぜい」

 厚治と朝希だった。

「今から買い物に行くつもりだったんだが」

「何買いに行くつもりだったんだ?」と厚治。

「史香のためにお菓子とか色々だ」

「だったら出かける必要ないじゃない」

 朝希がそう言いうとピザの箱を掲げてみせた。厚治も揃ってジュースやらお菓子やらが入ったスーパーの袋をカメラの前に上げた。

「史香の歓迎会をやろうと思ってな」

「……わかったよ、今開けるから朝希、ピザの箱を縦にして揺らすんじゃあないっ。潰れるだろうがっ」

 マンションの自動ドアが解錠されると、エレベーターが上がってくる少しの間の後に二人はずかずかと上がり込んできた。厚治は勝手知ったる我が家といった体で冷蔵庫にすぐには手をつけないジュースやらデザートやらアイスやらを放り込んでいく。実際、この二人は何度もこの部屋に訪れている。

 朝希も手早く棚からグラスを手にして、コーラとともに史香の元へ向かった。やはり同年代の人間がいれば幾分か安心するのだろう。明らかに史香の表情から緊張というものが消え失せたように見えた。フェリクス個人としては、朝希のずかずかと距離を詰めてくる様が少し苦手としているのだが、史香はそうでもないようだ。

「早速、仲良しになってくれて何よりだな」

 厚治がキッチンの棚から取皿やらグラスやらを取り出しながら言う。他人の家でありながらも、どこに何が置いてあるか把握していた。

「正直、助かった。間が持ちそうになかった」

 ピザを切り分けながらフェリクスがこぼすと、厚治は吹き出すのを堪えるように喉を鳴らした。

「何馬鹿なこと言ってんだよ。史香が初めてってわけじゃねえだろ」

 そう言ったものの、小島蜜李という名前と姿が脳裏をよぎり、自分が口を滑らせたことに気づいてすぐに謝罪した。

「いや、すまなかった」

「謝ることない。いつまでも引きずってる俺が一番悪いってのはわかってる」

 チン、とオーブンレンジが音を鳴らしたのはその時だった。チキンが温まったようだ。

「そっち頼む」

「……わかった」

 ほくほくと湯気の立つフライドチキンを皿に盛ると厚治は史香と朝希の待つリビングに向かっていった。

「さぁーてお嬢さん方、歓迎会を始めますよー!」

 おいしそー! とまだ幼さの残る声でリビングがかしましくなる。

 フェリクスも切り分けたピザと缶ビール二本を持って三人の待つリビングへ向かった。だがビールと思われたそれは――

「ちょ! おいビールはノンアルかよ!」

「当たり前だ。新しいパートナーがついたんだから、いい加減酒に逃げるのはやめろ。ついでに煙草も控えたらどうだ」

 言いながら厚治も自分の手にしている缶を掲げて見せた。フェリクスと同じノンアルコールビールだった。

 この部屋がこんなにやかましくなったのはいつぶりだろうか。そんな賑やかさがフェリクスの中に未だに燻る寂寥と悔恨を際立たせていく。

 フェリクスはちらとおしゃべりしている史香と朝希を見やる。おしゃべりと言っても、朝希が一方的にぺちゃくちゃまくし立てているだけだが、史香も楽しげにその話を聞いているようだった。

 一見、相性が悪いんじゃないかと思えた大人しい史香とアクティブな朝希だったが、それも杞憂に終わったようだ。日頃からお姉さんぶりたい朝希からすれば後輩ができたようなものだ。実際にエフェクターとしての経験も豊富であり、まだ右も左もわからない史香からしても頼りになる存在なのだろう。

 自分なんかよりも遥かにな、とフェリクスは胸の内で自嘲する。

「ねえ史香、ゲームしましょっか」

「テレビゲームですか?」

 聞いたことはあるが実物は見たこと無い、といった体で史香の言葉には疑問符がついていたことに、フェリクスも厚治も僅かに訝しむ。そんな二人をよそに朝希は「フェーリャ、ゲーム出してー!」と呑気なものだった。

「ん? あぁゲーム?」

 頼まれてフェリクスはテレビ台の下を覗き込む。だが中はゲーム機はおろか、プレーヤーのひとつも無いもぬけの殻を見て、ゲーム機の持ち主の顔とともにその顛末をはたと思い出す。

「すまん、処分しちまった」

 呆れたのかそれとも驚きか、信じられないものを見るような目で朝希はフェリクスに視線を刺す。何か言いたげに口を開くが、史香をちらと見るやそのまま押し黙ってしまった。

「あ、ああ二人共、デザートもあるぞ。アイスとかケーキとか」

「そうだった! 史香も食べよ!」

 割って入った厚治の提案に、コロッと話題を変えられた朝希は史香と連れ立ってキッチンの冷蔵庫に向かった。

「……煙草吸ってくる」

 フェリクスは逃げるように煙草のソフトケースを掴むとベランダへと向かった。厚治も追うように、すっかりぬるくなった缶ビールを手に後についていく。

 人口流出著しい流山の夜は暗く静かなものだった。駅ビルや駅前のショッピングモールや飲食店はおろか、コンビニですら日を跨ぐ前に閉店するようになっている。住宅街に灯る明かりもまだらなもので、空き家の存在を際立たせていた。おおたかの森駅のホームの照明くらいが申し訳無さそうに煌々と誰もいない駅を照らし続けている。

 そんな暗い流山の夜に、フェリクスは紫煙を吹いて流し込んでいく。

「お前、ガキの前で煙草吹かすんじゃねえぞ」

 厚治がノンアルコールビールのぬるくなった中身を煽りながら、隣につく。

「それくらいの分別はある」

「つってもお前、昔は蜜李の前でぱかすか吸ってて……」

 途中で何かに察したように、言葉を止める厚治。ばつが悪そうに、視線を反らしながら謝罪する。

「……ほんとにすまん。そんなつもりじゃないんだ」

「お前も浮かれてんな」

「……そうだな」

 厚治はくしゃりと缶を潰して言葉を続ける。

「さっき買い物しながらな、朝希もようやくお前が前を向いて生きていけるんじゃないかって言ってた。俺もそう考えてる」

 じりじりと紙巻き煙草の燃え落ちる音が聞こえてきそうな程の静寂と沈黙。

「俺は……」

 その沈黙に耐えられなくなったのか、フェリクスはぼそりと口を開いた。

「俺は、次にエフェクターになる娘を失うことになったらもう立ち直ることはできないと思った。だからずっと一人でやっていくようにした。どういうわけか、俺一人でもオルタネーターを倒すことができるんだし、俺一人で十分だ。そう思っていたし、今でも少し思っている」

「司はくっそムカつくが有能で頭は回って、結果的には悪いようにはならない。そこだけは確かだ。だから史香をお前につけたんだろうよ。もうそうなっちまったもんはウダウダ言ったってしょうがねえし、お前もあの子を悪しからずに思ってんだろ?」

 それでも煮え切らないものを抱えた表情をしているフェリクス。その肩に厚治はがっしりとした腕を回して言ってのけた。

「しんどかったら誰かを頼れよ。俺も伊達にお前より人生六年先輩じゃないんだぜ」

「じゃあ、ビールくれ」

「そりゃ駄目だ。しばらくは禁酒な」

 厚治が僅かに残ったノンアルコールビールを煽ると、「そろそろ中戻るか」と缶をくしゃりと潰した。

 二人がベランダから部屋の中へ戻ると、相変わらず史香と朝希はジュース片手に歓談していた。

「ねえねえ史香ー、史香の荷物見ていいー?」

 朝希がリビングの片隅に置かれていたダンボール箱を指差す。

「それ、本なので重いですよ」

「フェーリャ、これおねがーい」

「俺はお前らの執事じゃねえ。ってどれ、ほんとに重いな」文句を言いつつも、フェリクスはダンボール箱を抱えて二人の傍に置いて開封した。

 ダンボール中身は書籍がぎっしりと詰まっていた。

「本読むの、好きか」

 一般文芸も見受けられるが、黄緑や水色の背表紙の文庫本が半分だった。「うへぇ、漫画は無いの?」とのたまってる朝希は無視する。

「ほう、三国志か。史香、十一だっけ? その歳でもう三国志なんか読んでるのか。すごいな」

 フェリクスはその中の一冊を取り出して、表紙をまじまじと眺める。

「俺なんか三国志なんてゲームで知ったクチだぞ。諸葛亮がビーム撃つやつ」

「すげーなー史香。俺、呂布と関羽しかわかんね。ヒゲモジャのおっさん。おい朝希、お前も見習えよ」

「ねぇ史香ー、漫画ないのー? 漫画ー」

  Lサイズのピザ二枚とチキンバレルを平らげる頃には宴もたけなわとなり、フェリクスと厚治は後片付けに入っていた。

「お前は寛いでていいよ」とフェリクスが言ったものの、史香は皿を運んだり、ゴミを片付けたりしてこちらの仕事を手伝ってくれていた。やはりこういうところに育ちが出るようだ。

 こんな子を、国の運営者の老人たちの妄執によって家庭を引き裂かれたこの子の両親は果たしてどんな気持ちだったのだろうか、とフェリクスは思う。

 洗い終わった皿の水しぶきを拭き取りながら、フェリクスは口を開いた。

「……なぁ、史香。全部ほっぽり出して逃げ出してしまいたいとは思わないか?」

 唐突な言葉に「……え?」と手伝いをしていた史香の手が止まった。

「俺が君を必ず、両親のもとまで連れ戻す。君を利用しようとして追いかけて来る奴らがいれば、そんな奴らは君の居場所に俺が絶対に近づけさせない」

 唐突に投げかけられた言葉の意味を呑み下せず、史香は目を白黒させた。

「エフェクターなんかやっぱりやめてさ、両親のところに帰りたいか? こんなことする義理なんて無いだろ。どうして君が命を賭けなきゃいけない。顔も名前も知らない連中のために戦わなきゃいけないんだ。本当なら君は学校に通って友達とかと過ごしているはずだ」

 フェリクスの顔が笑みは消えていた。真剣なトーンで史香に語りかける。

「俺が君を連れて行く。ここじゃないどこかに、君が平穏に暮らせる場所に」

 きょとんとした表情でフェリクスの言葉を受け取っていた史香だったが、やがて憂いを帯びた微笑を浮かべた。

「そう言ってくださるだけでもありがたいです。でも……無理なんです」

「両親を人質に取られてるんだな……」

 史香が微かに目を伏せる。フェリクスはそれを肯定と捉えた。遠縁も遠縁の子供を引っ張り出すほどの妄執に取り憑かれている國仲だ。それぐらいのこともやってのけるだろう。

「見下げたクソどもだ」

「司さんと同じこと言うんですね」

 眉根を寄せてフェリクスは疑問を顔に出す。

「似てるんですよ、司さんとフェリクスさん」

「はぁ? 俺が? あんな女と? 勘弁してくれ」

「ここに来る前に司さん、今のフェリクスさんと同じこと言ってました。ここじゃないどこかで暮らさせてあげるとか、あと國仲の人や私をここに連れてきた人のことをその……ク、じゃなくてすごく悪く言ってたり」

「あいつの場合、老人に嫌がらせをしたいだけだ」

「それと司さん、フェリクスさんのことをとても褒めていましたよ」

 思わず「うへっ」と鼻を鳴らしたフェリクスだった。「マジかよ。胡散臭えっていうか、くすぐったいっていうか」

 そんなフェリクスを見て、くすくすと喉を鳴らす史香。

「今日一日、皆さんと話できてよかったです。フェリクスさん、朝希ちゃんが言った通りの方で優しい方で安心しました」

「そうか? とんだ腰抜けかも知れないぜ」

「司さんもそうですけど、そんな人が朝希ちゃんのように他の人から褒められたり自慢なんてされませんよ。朝希ちゃんと話してるとずっとフェリクスさんのことすごいすごいって言ってましたよ」

「そんな大した人間じゃないんだけどな、俺は」

「それじゃ、わたしはそんな大した人間じゃない人に守られるのでしょうか」

 面映ゆくて口にした冗談が、彼女の気に障ったようだった。「すまん」と罰が悪そうに謝罪し顔を背けようとしたが、史香の鋭い視線がそれを許さなかった。

「わたしの名前は……本当の名前は、金築史香と言います。國仲なんかじゃないんです」

 それは一種の契とも言える宣言だった。全幅の信頼を寄せていることを表し、同時に縛り付ける呪いめいた宣言。

 フェリクスはわずかに顎を引いてたじろぐが、彼女の目を見て拭いていた最後の一枚の皿を置くと真剣な眼差しで史香と相対した。

 一人の人間として、これから共に死線を潜り抜けるであろう相棒として。

 だが同時に庇護すべき少女として。

「國仲史香としても責務を果たした後で、わたしを金築史香として、ここじゃない場所へ連れて行ってくれますか?」

 今度こそは――

 ちゃんと少女の願いを叶えてみせる。

 今度こそ守ってみせる。

 同じ過ちは、繰り返さない。

 君が〝國中史香〟でなくなり、もう一度〝金築史香〟と名乗れるようにするために。


幕間 了

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