Chapter2 紅蓮悲憤⑥

 史香は足元のグロックを恐る恐る手に取ってみた。想像したよりもずっしりとした重み。それと同時にトリガーを絞るだけで命を奪えるという手軽さに持つ手が震える。

「やめろっ史香!!」

 フェリクスの鋭い声に驚き、史香がグロックを取り落した。かしゃん、と音を鳴らして床に落ちるグロック。

 床を這うように慌てて史香の元へ駆け出し、足元に落ちたグロックをひったくるように取り上げた。

 藤林はフェリクスの叫び声に反応し半ば反射的に〈爆炎エクスプロード〉を発動させていた。

 フェリクスが振り返れば、前方の空間が炸裂する寸前のように歪み始めていた。

「くっそがぁ!」

 フェリクスは一瞬にも満たない逡巡の後に取り上げたグロックを藤林へ向けた。

 睨みつけてきた銃口に、藤林は完全に虚を突かれた。オブジェクターが銃器を持っているなど考えてもみなかった。

 藤林はそうだと認識していなかったが、ブラックラベルのオブジェクターとの遭遇は初めてのことだった。対人戦を視野にいれたオブジェクターなど、存在することも至らなかった。

 そして実銃を向けられたのは藤林にとっては初めてのことだった。それが子供であれば……。

 手元が、そして意識が乱れ、〈爆炎エクスプロード〉の爆発範囲が狂う。――史香を巻き込む形に。

「しまっ……!」

 誰もがそう口にした。藤林でさえも。

 そして空間が爆ぜた。紅蓮の炎と衝撃波を撒き散らし、史香を呑み込む

「史香ぁ!!」

 その叫びに史香は悲鳴もなく応えることは無かった。

 薄まる黒煙の中から倒れている史香が姿を現した。仰向けで胸を上下させており気絶しているだけだとわかったが、だからといって放っておけるわけがない。

「史香! ねえ大丈夫!? 史香!」

「動かすな! 頭を打ってるかもしれん」

 倒れた史香を抱き起こそうと朝希が駆け寄った。だが触れる前に厚治が制止する。

「このクソ外道が! てめえ、やりやがったな!!」

 フェリクスの右眼から毒々しいアメジストの輝きが失せていた。レゾナンス相手である史香が意識を失ったためだ。

「ち、ちがっ……」

 藤林が顔を横に振る。誤って子供を巻き込んでしまったからか、その顔からは血の気が引いていた。

 明らかに動揺していた。そしてそれは決定的な隙だった。

 眼前に二振りの刃が迫っていた。怒気や殺気を超越し、最早フェリクスは自動的になっていた。藤林を殺すまで止まらない機械(キリングマシン)。

 反射と生存本能で二連の斬撃を長杖で弾き返す。

――こいつ、レゾナンスが切れていない……!? しかも、両眼だと……!?

 明確な殺意と共に、オブジェクターの証である黒の結膜と紫の瞳が、今度は両眼に現れた。

 フェリクスの猛攻が続く。襲いかかる連撃を藤林はどうにかいなしていく。だが徐々にフェリクスの連撃の速度が増し、藤林の反応速度を上回りつつあった。捌ききれなかった斬撃が掠めてゆく。

――いや、攻撃の速度が早くなっているわけではない……!

 手数そのものが増えていた。まるで剣を振るう腕の数そのものが増えているように見えた。

 痛みを堪え、アドレナリンの供給を最大にし、残存している集中力を振り絞り、フェリクスの猛撃の中に僅かな隙を見出した。藤林は満身の膂力を込めて身を翻し、長杖を真一文字に振るう。

 ぎんっ、と鋼と鋼が真芯で衝突し弾かれる音。

 フェリクスも斬撃に満身の力を込めていた。それ故に捌かれたことで、致命的な体勢で胴と喉元を晒すことになる。

 藤林が更に踏み込む。鋼の長杖を槍のように構え、鋭い刺突を喉笛に突き刺した。

 手応えは、無かった。まるで素の状態でオルタネーターに攻撃をした時のような、自分の攻撃がどこへともなく空に吸い込まれる感覚。

 そう、本当にオルタネーターを相手にした時のような……。

――違う! 分身!?

 喉笛を貫いた葉月フェリクスの姿だったものが、乱れたスノーノイズを撒き散らしながら霞のように消えていく。

 横方向から脅威が来る。分身ではないフェリクスの姿があった。喉笛は貫かれていない。

 フェリクスの殺意に満ちた視線が合う。藤林は息を呑んだ。

――紅く、なってる!? まさか、私と同じ……!?

 フェリクスの左眼の虹彩が、微かながらも紅みを帯びはじめていた。自分と同じ、血の色のルビーの輝きに。

 驚愕が集中力をかき乱し、フェリクスの猛攻がついに藤林の防御をこじ開けた。

 トドメの刺突を突き出すフェリクス。藤林は身を捩らせ回避を試みた。だが間に合わなかった。

 右の〈ボーンバイター〉の刃が藤林の肩に深々と突き刺さった。

「るぅぁあああああああっ!!」

 咆哮と共にフェリクスは突き刺したショートブレードを引き裂いた。

 肩の腱を斬られた藤林が長杖を取り落とす。

 さらにフェリクスが前に踏み込み、その肘を藤林の顎へ突き刺した。

 それがトドメとなった。ぐらり、と藤林の意識と視界が揺れ、床に背中をしたたかに叩きつけられる。

 これで勝負がついた。そのはずだった。だがフェリクスが止まることはなかった。肩の刺創を鉄板入りのブーツで強く踏みしめ、藤林にマウントを取ると両手を彼女の首にかけた。

「てめえ! この野郎!! やりやがったな!! 許さねえ! 絶対に許さねえ!!」

 フェリクスの両手が藤林の首に食い込んでいく。

「ふざけんな! 何が子供を守るためだ!! よくも史香を!! 許さねえ! 許さねえ!!」

 喉仏と頸動脈が潰されていき、藤林の顔が紅潮していく。酸素不足に血流がせき止められ、藤林の意識と視界に闇が滲み始める。

 突如、フェリクスの視界に衝撃が走った。藤林の絞められていた喉輪が解放される。

 フェリクスの横っ面を厚治が殴り抜いていた。

「このバカ、落ち着け。俺たちの任務を忘れるな。殺すんじゃなくて生け捕りにするんだろ」

 口の中の切れたものを吐き捨て、憮然としながらもフェリクスは「すまん……」と素直に謝罪を口にした。

 二人は苦痛にうずくまっている藤林の方を見た。絞殺されかけた藤林は激しく咳き込んでいた。だが解放されることはなく、厚治はうずくまっていた藤林を蹴り倒して、喉輪の代わりにこめかみのすぐ傍に大剣の切っ先を突きつけて動きを封じる。

「お前の負けだ、藤林。殺しはしない。だけどこれ以上こちらの邪魔したり、今からする質問にだんまり決め込んだらもう少し痛い目に遭ってもらうぞ。お前のパートナーはどこにいる」

 酸素と血流不足で喘ぎながら、藤林は向けられた大剣の持ち主を睨み据えたまま黙秘した。

「さっさと言いやがれ!!」

 フェリクスの苛立った怒鳴り声に史香を看ていた朝希がびくりと身を震わせた。

「……いない」

 藤林の渋々こぼした掠れ声に「は?」とフェリクスは苛立つ。

「死んだ。もうとっくの前に、私のパートナーだった子は。……この国に殺されたみたいなもの」

 その言葉を最後に観念したかのように藤林の両眼の虹彩が燃える血のようなルビーのものから普通の人間のものに戻っていく。 

 厚治はちらとフェリクスの双眸を見やった。その両眼は、色こそは藤林と違ってルビーの赤ではなくアメジストの毒々しい紫だった。

 厚治は知っている。両眼が変貌する者が過去にどのような背景を持っているかということを。そして藤林の言葉を思い出す。――藤林のかつてのエフェクターは既に死んでいる。

 フェリクスは切れた口腔を吐き捨てながら、更に尋問を重ねた。

「もう一つ、お前が拉致ったエフェクターたちをどこに隠してる」

 だが再び黙秘を決め込む藤林に「いい加減にしろ、この野郎!!」と怒鳴り散らす。

 また殺しかねない勢いで食って掛かるフェリクスを厚治が手を上げて制した。

「そのままだんまり決め込んでても構わないがな、そうしたらお前が〝保護〟とやらをした子たちはどうなる? 遅かれ早かれ飢え死にか塩になるのがオチだ。それはお前も望むとこじゃないだろ」

 厚治の落ち着いた、だが重く諭す声に藤林は渋々と口を開いた。

「……東京国立博物館、黒田記念館」

 フェリクスが一目散に駆け出す。

 その背中を見送って、申し訳無さそうに藤林は言葉を続ける。

「……史香さんだっけ。その子、大丈夫なの」

「お前が心配できた身分かよ」厚治が呆れたように息をつく。「……意識ははっきりしてきてるが、頭を打ってる。迎えが来たらそのまま病院に直行させるつもりだ」藤林を睨み据えながら、厚治は言葉を続ける。「任務じゃなかったら俺もお前を殺してるところだったぞ」

 うなだれる藤林に厚治は視線を向ける。呆れと哀れみと同情の綯い交ぜになった目。

「お前の考えは正しいよ。子供を戦いから遠ざける。人としてそれは正しい。気持ちはわかる。だがな、やり方が間違ってるんだよ」

「……ねえ、あなたたちはどうしておとなしくオブジェクターとして従っているの。あいつも言ってたじゃない。あの子を傷つけるなら総理大臣だって殺すって」

「お前の知ったことじゃない……」

 疲労で掠れた声で、厚治はそう小さく吐き捨てた。

「俺たちが正しいとは微塵とも思わないさ。だがお前がやったことも正しいとは思わない。少なくとも、お前は一人、エフェクターを直接傷つけた。俺もフェリクスも、それだけは許さない」

 それに、と厚治は続ける。

「こいつは俺の持論だが、人間、自分のやってることが何ら疑いの余地も無く盲目的に正しいと思い込み始めたら、それは破滅の始まりだと思ってる。お前のやってきたこともそうだ」

 藤林は何も言い返せなかった。微かに開いた口からは諦めにもにた吐息が漏れただけだった。

「……ごめんなさい」

 ようやく絞り出せたものは、謝罪だった。

「……誰に謝ってんだ」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 誰に言うでもな藤林の謝罪の言葉が、誰にも聞き届けられることなく地に転がっていった。


 レンガ造りの黒田記念館の出入り口を蹴破り、フェリクスは建物の内部に進入した。差し込んだ外の光で埃が舞うのが目に見える。

 やはり明らかに人の手による略奪が行われたのか、一枚も絵画の無い内部を片っ端からかけずり回る。最後にたどり着いたのは、スタッフの控室と思しき部屋だった。

 慎重に扉の前に立ち、耳をそばだてて中の様子を窺う。明らかに人の気配を感じ取ると、フェリクスは勢いよく扉を開いた。

 ツンとした臭いが鼻をつく。人間の体臭。

 闇の中でいくつもの双眸がこちらを不安げに覗き込んでいた。

「生きてる……みんな生きてる……!」


 二日後。

 行方不明になっていたエフェクターたちの捜索と保護、そして藤林の戦闘、逮捕を終えてのデブリフィーングが行われていた。

「まずはお疲れ様。まさか捜索一日目にして解決するとは思わなかった。そしてありがとう。救助されたエフェクターの娘たちも多少衰弱はしていたけれど特に怪我も無し。下手人も逮捕できたしね。史香ちゃんの怪我も大したことなかったようで何よりだ」

「ご心配おかけしました」

 頭に包帯を巻いた史香が恭しく頭を下げる。その隣でフェリクスが「おう、もっと労ってやれよ」と尊大に差し挟んだ。

 幸いなことに史香は浅い裂傷と軽い脳震盪だけで済んでおり、むしろそこかしこに火傷を負ったフェリクスと厚治の方がダメージが大きかった。今でも全身の節々が軋む。

「藤林凛の取り調べは進んでいるよ」と司が話を進めていく。

 藤林の目的はオブジェクターからエフェクターを拉致――あるいは保護し、彼女たちをオルタネーターとの戦いから遠ざけることだった。

 だが封鎖都心の外へと出れば、手錠端末からビーコンが起動し居場所が発覚する。結局脱出させあぐねて、できることとなれば封鎖都心のどこかへ隔離することだけだった。そんな生活もいずれ破滅することは目に見えているだろう。それくらいの想像くらつくだろう。あるいはそういった判断ができない程に、藤林は一人で追い詰められていたのか。

 だが一方では、エフェクターの少女たちを保護する宛があったとも考えられる。手錠端末によるビーコンを無かったことにできる存在――即ち、権力である。その権力の在り処こそ、『新日本母の会』とそれを率いる増田であると推測できた。

 だが、捜査に踏み込んだ調査局の捜査担当によれば増田たちも微妙なところだった。藤林と面識こそあれど、邂逅を果たしたのは陰山が写真を納めた時の一回のみ。この時点で藤林のエフェクター拉致活動の支援をとりつけられたが、それ以降は全く連絡がつかなかったという。

 どちらにせよ増田は犯罪幇助に変わりはなく、現在では地検特捜部による捜査の手が及んでいるという。

「だとすると、藤林は何をアテにエフェクターを拉致ってたんだ。まさかあのまま封鎖都心の中で生活させるつもりだったっていう程馬鹿じゃないだろ」フェリクスが顎に手をあてて推測を言葉にする。

「それを今、取調べ中ってこと。今回ばかりは防衛省も文句は言えないから、じっくりお話を聞けるね」

 他方、自衛隊が再び調査局への連絡無しに封鎖都心に踏み込んでいたことに関して、社会衛生庁側から詰めているという。今日はオフィスに防衛省からの出向官僚である阿波野の姿が見えないので、おそらくはそういうことなのだろう。

「それで救助したあの娘達の処遇はどうなんだよ?」

 厚治が訊ねる。

「私個人としてはもちろん彼女達を家族の元へと帰してあげたい」

「引っかかる言い方すんな」「はっきりモノを言え」

 フェリクスと厚治の棘のある語気に、オフィスの空気が張り詰める。

「彼女達の処遇を決定するのは私では無い」

「なんなんだよ、そりゃあ……ふざけるのも大概にしろよこの野郎!!」

 やおら立ち上がると、フェリクスは司の前につかつかと迫る。

「もういいだろ……! もう十分だろ……! オルタネーターと戦って死にそうな目に遭っただけじゃなく、藤林とかいうイカれた奴に好き勝手されて、まだあの子たちは自分の家に帰ることを許されねえのかよ!」

 胸ぐらを掴み、壁に叩きつける。

「子供を死ぬような目に遭わせてまで取り戻したい東京って何なんだよ! そこまでするほどの価値が東京なんかにあるって言うのかよ!! ふざけんな!!」

「何してるんです!!」深山が制止の声を張り上げるが、「お前は黙ってろよ! 何もしてない分際で!!」と返された鋭い声に突き刺され、慄然とする。

「あんたは何の為にここにいるんだ!! あんた前に言ってたよな、『自分の仕事は俺たちを生かすことだって』……! その言葉は嘘なのかよ、おい!」

 司の襟を掴んでいるその手を厚治が掴む。振り返れば厚治が首を横に振っていた。それ以上は駄目だとも、あるいは無駄だとも。

 観念したかのようにフェリクスは司の襟をそっと離す。

「……申し訳ない」という司の謝罪が溢れる。だが「謝ればいいってもんじゃねえだろ……!」とフェリクスは低く唸った。

「私だって……!」深山の詰まった声がフェリクスの背中に叩きつけられた。「私だって、私たちだって、今できることに全力であたってるんです……! 司さんも同じです……。子供たちを……貴方たちを戦わせて申し訳ないと思ってないわけ……ないじゃないですか!」

「そう思ってるだけじゃ無駄だって、いいとこの大学出たくせにわかんねえのか? ……結果が伴わなければ、何も意味ねえんだよ!!」

 怒りのままにドアを叩きつけるように荒々しく閉めてフェリクスは部屋を後にした。無言の中で叩きつけられたドアの残響音だけが、人の出払っているビルの中に響き渡る。

「スッキリしねえ終わり方だな、ったく……」

 厚治はがりがりと頭を所在なさげに掻きむしりながら、いきなりの怒声のやり取りに呆然としている朝希と史香に柔らかに目配せした。

「二人とも、もう帰ろう。話はもういいよな? おい深山さん、俺たちはしばらくシフト無いはずだよな。しばらくゆっくり休ませてもらうよ。その内フェーリャも頭冷えて怒鳴ったこと自分で後悔するだろうから、さっきのことはあんまり気にすんな」

 オフィスから退出していく三人。ドアの閉まり際、その隙間から厚治の鋭い視線と声音がオフィスに放られた。

「だから司さんよ、しばらくは連絡して来んな。どんな緊急の案件でも働く気は起こらんからな。顔も見たくないし、声も聞きたくない」

 そう言って、厚治はドアをやや強めに閉めた。


「なーんかごめんな。変なことになっちまって。びっくりしたろ。ほんとフェーリャって瞬間湯沸かし器だよな」

 朝希と史香を連れて階段を降り、エントランスへ足を向けていく厚治。けらけらとおどけてみせたが、二人は顔をうつむかせたままだった。

 エントランスに出ると、その脇にある喫煙所からフェリクスが出てきた。ぷん、といがらっぽい匂いが鼻をつく。表情は先ほどの怒気をまだ引きずっているようだった。

 フェリクスと史香の目が合う。

「史香、どうしてあの時、拳銃なんか使おうとしたんだ……」

「おい、よせ。今じゃなくても……」

 厚治が話を遮ろうとする。だが――

「お前がそんなことをしなくていい。誰かを傷つけて、自分が傷つくようなことをしなくていい。手を汚すのは俺の役目であって、お前じゃない。お前は……こんなことをしちゃいけないんだ」

「そんなの……」と反論のために史香は顔を上げたが、それ以上の言葉が続かなかった。

「朝希、お前もだ。本当ならお前たち二人はこんな所にいちゃいけないんだ。だから、もう……」

 それ以上の言葉を紡ぐ気力も失せていた。あの時抱えた怖気が発作のようにフェリクスを倦怠感で襲った。

 地獄にいるのは、俺だけで十分なのに……。


「フェーリャ、藤林の目、気づいていたか?」

 まだ「東京大学」の刻印が消えていない調査局のビルから出て、厚治がやおら口を開いた。

「俺の他にもいたんだな……。いや、俺よりも更に上手の〝オーバーレゾナンス〟持ちが……」

 先ほどの侵襲にも近い倦怠感をまだ引きずっているようで、フェリクスは深く息をついた。

「まあいいや。それについては今度考えることにする。なんかもう疲れた」

「……そうだな、疲れたな。しばらくシフト無いようだし、ゆっくり休もうぜ」

 そうして厚治と朝希の二人と別れた。調査局のビルと隣のホテルの脇を抜けた先にある高層マンション群が厚治と朝希の住居である。流山と同じく、価値が暴落したためオルタネーターの対策に携わる者たちのために借り上げられている。

「あの人はどうして、あんなことをしてしまったのでしょう」

 柏の葉キャンパス駅前のロータリー。当分前に閉店したマクドナルドの前に放置されているベンチに腰掛けながら、史香は誰に問うわけでもなく疑問を言葉にした。

 ほとんど誰も乗っていないつくばエクスプレス線が高架上の駅に通り掛かる音が聞こえてきた。

「それがわかれば苦労はしねえよ」

 フェリクスは問いに答えるわけでもなく言葉を口にする。紫煙を無性に吸いたくなってポケットから『敷島』と印字された煙草のソフトパックを取り出すが、あいにく最後の一本は先ほど吸ってしまっていた。そのまま手の中でくしゃくしゃに丸め込むが、そこらに適当にポイ捨てするのだけは、史香の目もあったので思いとどまった。丸めたゴミをポケットの中に戻して、フェリクスは言葉を続ける。

「ただ何かしたかった。どうにかしたかったんじゃないのか。そういう気持ちばかりが逸って、後先考えずに行動した……。ほんと、そういう連中に限っていっつもどうしようもないことをやらかして余計に事態を悪くさせる。ほんとに良い迷惑だ……」

 それはあまりに哀しいことだ。史香はいたたまれなさに目を伏せる。

 少女たちを戦いや死の恐怖から遠ざけることは、きっと正しいことだろう。藤林が少女たちを想うことは倫理的にも人道的にも、そして政治的にも正しいことだ。

「正しいよ、藤林は。史香みたいな子供が封鎖都心なんて危なっかしい所に出向かなきゃいけないってことも間違ってるし、そもそもの時点で俺のようなどこの馬の骨かも知れん男と共同生活していることも間違ってる」

 でもな、とフェリクスは言葉を続ける。

「正しいことが正しい結果になるとは限らないものなんだ。正しいとか正しくないとかを基準にして行動したら、今回みたいにロクな結果にならないことがほとんどだ。それに史香、正しいとか正しくないとかを誰が決めるんだ? そんなことは立場や状況がちょっと違ってしまえばガラリと変わってしまうぞ」

 フェリクスの言う通りだ、と史香は思った。

 今回の藤林のしでかしたことで、現場には大きな混乱が起きたことは目に見えている。おかげで六人のオブジェクターの命が奪われた。後方の指揮系統も滅茶苦茶になっただろう。藤林がエフェクターを拉致したことで、また新たな少女がエフェクターとして招集される羽目になっただろう。自衛隊としても、とんでもない程に迷惑を被ったことだろう。組織内の不始末が他の省庁にまで波紋を拡げるのは彼らとしても由々しき事態だ。

 そして自分は怪我をして、フェリクスに大いに心配をかけてしまった。

 子供を守りたい。たった一人の女のただその一心が、これだけの事態を招いた。

「じゃあ、俺たちのやってることは一体何なんだろうな……」

 フェリクスのその疑問に答える術を史香は持っていなかった。フェリクス自身もその自問に対し自答などできるわけがなかった。

 駅のプラットフォームから電車の発車を告げるアナウンスが聞こえてきた。

 誰も乗客の乗っていない列車が発車していった。

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