Chapter2 紅蓮悲憤④

 翌日。四人は上野の街にいた。

 山手線の主要なターミナル駅の中でも下町風情を残す他方、都内で最も博物館や美術館が集まる場所であり、春になれば恩賜公園には桜が咲き乱れる。すぐ傍に東京大学と東京芸術大学が軒を並べ、文化と芸術、そして学問の街としての性格を持ち、数多くの観光客を集めていたこの街も、今では他の東京の街同様に死んでいた。

 電気が通っていないため薄暗いJR上野駅構内の公園口からフェリクスたちが姿を現す。フェリクスと厚治の右腕にはタスクフォースを示すエンブレムが刺繍された黒い腕章が付けられている。

 地震によるものと思しき傾いている東京文化会館の脇を通ると、開けた恩賜公園に出た。

 世界文化遺産に登録された国立西洋美術館も倒壊している。その他、上野の森美術館、東京都美術館、国立科学博物館、東京国立博物館も地震によって立ち入ってはならないとわかる程に傾いている。だがそのような自然災害による被害の中にも、明らかに人の手によるものとわかる破壊と略奪の形跡も見受けられた。

 四季の無い封鎖都市の中では桜も立ち枯れており、〝7・24〟が起こるまでは賑やかだったこの文化の森も今では見るも無惨な灰色ばかりの光景となっていた。

「このだだっ広い公園を四人で回れってか」嘆息しながらフェリクスが灰色の公園に首を巡らせる。

「何があるかわからん。効率的じゃないが分散するより四人で固まって動こう」

 厚治の提案に考えを同じくしていたフェリクスも頷く。

「とはいえ、どこから見て回ったものかな……」

 厚治が周囲の地図を広げると、他の三人も囲むようにそれを覗き込んできた。

「池のほとりにお寺があるんですね」と感心したような声の史香。

「動物園もあるっ!」と朝希も声を挙げる。

「池は不忍池って言うな。動物園は上野動物園だ」

 厚治は地図を指差す。

「動物園はだだっ広いから、先に不忍池とか西郷さんの方を見て回るか」

 フェリクスの言葉に厚治も同意に頷くと、東京国立博物館と大噴水を背に四人は南下していく。

「今のところ、オルタネーターは見かけませんね」

 史香の声はこころなしか穏やかだった。オルタネーターなんて怪物がいなければ、絶好のお散歩スポットになれただろうからか。

「そうだな。調査局もここいらをどうにか封鎖都市の中での拠点にしようと考えてるらしくて、オルタネーターの排除を頻繁にやってるみたいだからな」

 立ち止まって、フェリクスは地面を足で擦ってみた。ざりざりと砂と塩が混じって擦れる音。塩はまるで溶け残った雪のように、そこかしこに積もっていた。

「それにしても、やけに塩の量が多いな。二人とも足が滑らないよう気をつけろよ」

「「はーい」」返事をする史香と朝希。

「ほんとだ。まるで今さっき戦闘があったみたいだな。今日ここに来るのは俺たちが初めてだよな」

 フェリクスのつぶやきに厚治も視線を地面に落とす。一箇所に少し高く盛られた塩の山がところどころに点在している。見る人間が見れば、それはオルタネーターの死骸であるとわかる。

 塩の山は時間が経てば風に吹かれて散っていくはず。短く見積もっても数時間前にオルタネーターとの戦闘があったことがわかった。

 やはりここにいる。少なくとも、少し前までここにいた。

「史香、朝希、気を引き締めろ。いるぞ、オルタネーター」 

 訝しみながら再び歩き出したフェリクス。不安げな表情で顔を上げた二人に真剣な眼差しを向けて、厚治は深刻に頷いた。

「厚治もフェーリャも詳しいよね」

「お二人はこんなふうになる前の東京に来たことあるんですか?」

 朝希と史香の問いに二人は記憶を辿るように視線を上に向ける。

「高校卒業して上京してきたんだ。つっても二年も住んでなかったな……。バイト漬けでそんな観光とかしてなかったし……」と厚治

「実は俺も東京なんざ中学生の時の修学旅行でしか行ったことがないしなー。オリンピックが始まる直前で慌ただしくて、そんなに見て回れてなかったし」

 まあでも、とフェリクスは言葉を続ける。

「好きにはなれそうにない街だと思った。地元も嫌いだが、東京はもっとだ」

「結局、俺もすぐに地元に出戻ったしなー。で、こんな形でまた東京に戻ってくるとは思わなんだ」

「ふーん」とわかったのかわかっていないのか、ぼんやりと零す朝希。

 そうして無言が訪れた。話すことが無くなったのか、靴底が塩と砂を踏む音と木々のさざめきだけが流れていく。

「東京って静かですよね」

 ぽつりと、史香の言葉が風に乗った。

「……まあ、オルタネーターががちゃがちゃ吠えるようならそれはそれで耳障りだったかもな。ああでも、それはそれで居場所が割れて狩りやすいんだけども」

 欠伸を混じらせながらフェリクスが応える。

「それもあるんですけれど……」

「うん?」

「ここでは、わたしたちのことをとやかく言う人が誰もいないんですよね」

 フェリクスは不意を打たれたような感覚を覚えた。そう口にした史香の言葉が、フェリクスの中に鉛のように沈みこんでいった。

 史香が微かに視線を上げれば、桜並木が目に入ってきた。

 封鎖都心の中では季節というものが失せていた。時間の移ろいというものを感じられない。無機質なビルとコンクリートと塩の柱という色の無い町並みは、まるで出来の悪い一枚絵のようにしか見えなかった。

 やがて右手に五條天神社が見えてくる。

 鳥居に影。すかさずフェリクスと厚治は剣の柄に手をかけ、四人の瞳が一斉に毒々しいアメジストの色に変貌する。

 影はオルタネーターではなかった。人がうずくまっていた。陸上自衛隊の迷彩服姿。

 先に抜いたのはフェリクスだった、二振りのうちの一振りのショートブレード〈ボーンバイター〉を構えうずくまっている人影に切っ先を向ける。

「動くな!」

 フェリクスの鋭い声に、うずくまっていた迷彩服姿がびくりと身を震わせる。

「両手を上げて、ゆっくりとこっちを向け」

 迷彩服姿がおずおずと両手をあげて、おそるおそる立ち上がってこちらに姿を見せた。メガネをかけており、髪もいくらか短い。頬もぽってりとした丸顔の気弱そうな女。

 藤林凛ではなかった。

 だがそれでも、フェリクスも厚治も警戒を解いていない。二人とも次に瞬きをする間にこの女の首を斬り落とせるように構えている。

「も、もしかして調査局の方々ですか!? 救援に来てくれたんですね!? わ、私は玉川と言います。朝霞から来ました玉川結子です!」

 フェリクスと厚治は困惑に眉根を寄せて、史香と朝希も頭の上に「?」を浮かべている。

 フェリクスが短く目配せすると、厚治は背中の剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと玉川に近づく。

「認識票、見せてくれるか」

 厚治がもう片方の手を差し出すと、「え? あ、は、はいっ」と玉川は片手を上げたまま自分の首元から認識票を取り出し、それを厚治に手渡した。

「名前、生年月日、認識番号、所属部隊、血液型を暗唱してくれ」

 鋭い疑念の視線と共に厚治が問う。

 玉川はすらすらと答えてみせた。厚治とフェリクスは互いの顔を見合わせると、構えを解いて緊張を緩めた。

「疑って悪かった。こちとら自衛隊のせいで面倒なことに巻き込まれてばっかりでな」

 苦笑しながら厚治は認識票を玉川に返した。

「朝霞だったか? 本当ならそっちに問い合わせてせりゃ確実だが、ここじゃあな……」

 封鎖都市と外部通信は、やはり県境にまたがる〝ゆらぎ〟によって不可能だった。この玉川という女の素性を朝霞駐屯地に問い合わせるのが確実だったが、今この場では不可能だ。ショートブレードを鞘に収めたものの、フェリクスは疑念の目を玉川に向けたままだった。

「そうですよね。申し訳ないです。こちらの素性を証明できるものが、それしかなくて」

「まったくだ。身内からオブジェクター殺しなんてヤカラなんざ出しておいて、それでだんまり決め込んでおいて、にっちもさっちもいかなくなって俺たちに泣きついてきた始末だ。っつーか、今日もお前らみたいな連中が来てることも話に聞いてないんだが!?」

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 ねちねちぐちぐち、とフェリクスが辛辣に言葉をぶつける。反論の余地も無いので玉川は平謝りする他無い。

「っつーか、また自衛隊はオブジェクターとエフェクターも連れずにのこのこ封鎖都心にやってきたのかよ。マジで馬鹿は死んでも治らねえのかよ」

「あの、私もオブジェクターなんです」

 フェリクスのぼやきに返した玉川の言葉に、さしものフェリクスと厚治の二人も驚きを露わにした。

 自衛官や警察官にもオブジェクターは存在する。だがどういうわけかその数は非常に少ない。これは最初期の封鎖都心への調査でほとんどのオブジェクターの自衛官や警察官が殉職したこともあるが、単純にその異能を覚醒させる者の数が民間人と比べて圧倒的に少なかった。

「まだ残ってたんだな……。で、お前のエフェクターはどこいったんだよ」

 フェリクスの問いに玉川は申し訳なさそうに視線を右往左往させて、そして俯いてしまった。その態度にフェリクスは額に青筋を浮き上がらせる。

「ミイラ取りがミイラになってんじゃねーよっ!!」

 怒れる龍の如く火を吹かんばかりに怒鳴り散らすフェリクス。玉川も「ごめんなさいごめんなさい! 雑魚でごめんなさい!」とやはり平謝りするしかなかった。

「俺がお前に謝られても何も意味ねえんだよ。だいたいてめぇ、自分のことを雑魚だと思ってたんなら、パートナーに対して申し訳ないと思ってなかったのかよ……!」

 さすがに厚治が「おい、よせ」とフェリクスの手を引き離す。

「まあどうでもいいや、お前個人のことは。それよかさっさと仕事を済ませようぜ」

 舌打ちと共に鼻を鳴らしてフェリクスは前方を指し示した。

 新たに一名を加えてフェリクスたちは歩を進めていく。厚治と玉川が先頭で並び、そのすぐ後ろにはブレードを抜いたままのフェリクスという隊列。改めて警戒の念を向けるフェリクスとその針のような視線を背中に浴びて縮こまるしかない玉川。

 半ば塩の柱に呑まれているアメ横のビル群を左手にかえるの噴水の周囲をぐるりと周回し、西郷隆盛像の前に出た。

「このあたりまで歩いて回ったのは初めてなんだが……こりゃまたひどいな。西郷さん、顔面から突っ伏しちゃってら」

 視線を上から下にしながら厚治がこぼす。上野の西郷さんは膝からぼっきりと折れて地面にひび割れ伏せていた。台座の薩摩犬が一匹だけ寂しく取り残されている。

「これが……かの有名な上野の西郷さん……」

 至極残念そうに哀しみを露わにする史香と、「ふーん……」とあまり興味を示さない朝希。

 フェリクスは公園の出入り口の噴水の前まで進み、辺りを見渡した。

「どうだー?」と厚治が尋ねると、フェリクスは大きく首を横に振って肩をすくめてみせた。

「戻ろうぜ。この辺りは外れだ」

 厚治は傍に控えていた玉川に目配せすると、彼女も同意に頷いた。

 特に収穫も得られなかった五人はとぼとぼと来た道を戻っていく。

「ところで話は全然変わるがよ、アンタ、武器は〈ディフェンダー〉を使ってるんだな」

 道すがら、玉川の背中に相変わらず警戒の目を据えていたフェリクスが口を開く。

 彼女の背後には金属製の長杖が吊るされていた。

「そ、そうですね。これ、使いやすいので」

 長杖〈ディフェンダー〉。社会衛生庁調査局がオブジェクターに対し支給する装備の一つである。製造はショートブレード〈ボーンバイター〉と同じくオブジェクターとエフェクターの装備の生産供給を政府から一任されているシマダディフェンシブツールズ社だ。

 シマダからは金属製の杖とカテゴライズはされているが、中央の持ち手よりも両端が太くされており実際は鉄棍と言ったほうが正しい。

 オルタネーターとの戦闘においては最も扱いやすいとの評判で、多くのオブジェクターに愛用されている武装だ。

「そちらは、なんだかすごい武器ですね。初めて見ました」

 言いながら、玉川は厚治の背中の長物に視線をやる。

「あぁ、これか。俺にはこれが性に合ってるからな」

 厚治の背中にはその背丈ほど長さの幅広の大剣が背負わされていた。

 大剣〈パルヴァライザー〉。同じくシマダ製の装備の一つであるが、こちらはその見た目通りの扱いづらさで敬遠されており、使い手も多くはない。

 刃は片刃であり、ブレードの部分には〈ボーンバイター〉と同じくメタリックブルーの塗装が施されている。また幅広の鍔には持ち手が備えられており、ここを持つことで盾として用いることも可能だが、対オルタネーター戦においては決定的な優位性とも言えない。

 総じて、〝オルタネーターとは別の存在〟との戦闘も視野に武器と言えた。

「……どうして、藤林凛はこんなことをしたんでしょうね」

 ぽつりと、二人に答えを期待するふうでもなく玉川は口を開いた。

「こんなことって?」フェリクスが視線だけを微かに玉川へ向ける。

「オブジェクターを殺害して、エフェクターの少女たちだけを保護して回ってることです」

「イカレポンチの考えてることなんざ知りたくもねえよ」そうフェリクスがぶっきらぼうに吐き捨てた。

 さしもの玉川もこれには眉根を深く寄せて抗議の意を示した。

「……私はエフェクターの子たちを守ってあげたかったのだと思います。少女たちを戦いから遠ざけたかったのではないでしょうか。でも手錠端末のビーコンがあるから、子供たちを封鎖都心の外に連れ出すことができず、結局、中で匿うことしかできなかった……」

「だったら手錠端末のビーコンなんざ構うことなく逃げ出せば良かったんだ。オブジェクターを殺して回るくらいに腕が経つなら政府の追跡もどうにかできんだろ」

 そう口にした自分の言葉が引き金となってしまい、フェリクスの脳裏に一人の少女の姿がよぎる。

「…そうだ」その少女の名前が耳鳴りのように耳朶に張り付き始める。「蜜李」という少女の名が呪詛のようにリフレインする。「全部ほっぽり出して、逃げ出してしまえば良かったんだ……。こんな国のことなんか、この国の人間のことなんか、どうでもいいだろ……」

「そういやアンタ、藤林とは知り合いだったりするのか?」

 厚治の尋ねる声に玉川が微かに顔を上げた。

「……いえ。ただ、顔と名前はもう自衛隊内では出回っています。オブジェクターを六人も殺害したんです。防衛省では内々に処分して手打ちとしたいのでしょう。だから私も今日この場に派遣されました」

 そうか、とフェリクスは応えたが、だけどよ、と返して続けた。

「一つだけ言える。藤林がどんな理由でこんなふざけた真似をしでかしてくれたかなんざ知ったこっちゃねえよ。そいつがどんだけ正義だ善意だのと御大層な考えを持っていようとな」

 それに、とフェリクスは昏い笑みを玉川に向ける。

「史香にふざけた真似をしてきたら、そいつが女だろうが自衛官だろうが総理大臣だろうが大統領だろうが俺は自動的にそいつを殺す」

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