Chapter2 紅蓮悲憤
Chapter2 紅蓮悲憤①
くらいくらい、へやの中。
さむくもないけど、あたたかくもないくらやみの中。
みんなでひっそりと、息をひそめて過ごしている。
もうずいぶんとお風呂に入ってないから、ちょっとくさかったけど、すぐに慣れたから大丈夫。
ご飯もおかしみたいなものしかなくて、あったかいものが食べたいけどがまんする。つめたいジュースがのみたいなんてわがまま言わない。
ちょっとつらいけど、外にいっぱいいるモザイクみたいなバケモノとたたかうよりも怖くないからぜんぜん平気。
それにお姉ちゃんがもうすぐ帰れるからと励ましてくれたし、新しいお友だちもできたから、まだがんばれる。
早くママとパパに会いたいな。
東京都武蔵野市吉祥寺。
この街は〝最前線〟となっていた。
河川というオルタネーターが決して侵入することのできない河川という水場のバリケードによって隔てられている千葉、埼玉、神奈川の近隣三県と異なり、東京西部と二十三区封鎖都市は地続きだ。オルタネーターがいくら二十三区の外へ出てこないことが理屈と状況証拠として証明されたとしても、人間の持つ心理的な要素は如何ともし難く、また万が一あるいは億が一ということもあり得る。
そのためオルタネーターの領域となることをかろうじて免れたこの吉祥寺は自衛隊の人間と思しき迷彩服姿の人間と社会衛生庁と思しきスーツ姿の人間が数多く闊歩していた。
現在、吉祥寺と荻窪の境界線周辺ではオルタネーター侵入防止を目的とした、神田川より分流する人工河川を自衛隊主導で急ピッチで建設している。
また近くにある大学は研究施設として国に接収されていた。二十三区外に出るとおよそ三十分程で塩の塊と化してしまうオルタネーターの早急な研究と解析のためである。近隣で捕獲することができたオルタネーターは大急ぎでここに運び込まれている。
かつては住みたい街ランキングに常に上位に名を連ねていたこの繁華街も、今では
井の頭公園もまたこれまでに無い静謐の中にあった。神田川の水源である池が存在し、地元民と学生、そして何らかの夢を追う若者達が集う場所だった公園もかつての賑わいは消え失せ、木の葉が風に揺れるだけとなっている。
数年もの間放置され汚れと錆まみれとなったスワンボートが浮かぶ池のほとり。同じようにペンキが剥がれ錆まみれになったベンチに二人の女性が並んで座っていた。一人は司千歳だった。その傍では一人のスーツ姿の女性が控えている。深山理恵が薄い戸惑いを表情に浮かべていた。
「あれから七年、ですか」
ベンチに座っているポニーテールのもう一人の女性、陰山観月が池のほとりに零す。
「西日本、北日本の土地価格の高騰、長期間の政治的空白と一時の食料不足、失業による混乱もようやく治まり、不況も下げ止まりしたとは言えますが、落ち着きが見えました。ですが千葉、埼玉、神奈川の近隣三県と西東京からの人口と企業の流出は歯止めがかからない状況にありますね。とはいえ、それが怪我の功名ともなってますけれども。東京を離れざるを得なかったことから、地方に移転した企業により地方自治体の税収と人口は回復。東京の過度な一極集中は解消されました」
「それでも首都圏に残っている人はどうなんだろうね」
首都圏の失業率には未だに〝7・24〟発生当時と変わらない高止まりで横ばいとなっており、それによる税収の減少も止まらずにいる。いくつかの小さな自治体も既に財政破綻直前にまで追い詰められている。
「全員が全員、そう簡単にそれまで住んでいた場所を離れることはできませんよ。ただの引っ越しとはわけが違います。今までの生活を手放すのも同じですから」
その人口流出の最中でも首都圏に留まっている人々は公務員、あるいは公的機関に出向している者か、そして首都圏を出たくとも他に行く宛の無い者、出たくとも出る手段の無い者に分けられる。
一方で首都圏から出ていったからといって、そこで安住できるとは限らない。首都圏を脱出してきた者に向けられる〝世間の眼差し〟というものは、いつだって鋭く冷えたものだった。
「首都圏、東京都隣県である千葉、埼玉、神奈川はオルタネーターの影響なんてものが風評被害となり、自殺者も右肩上がり」
「オルタネーターの影響ってなんなのさ?」
司が苦笑混じりに尋ねると、陰山は使い込まれたメモ帳を取り出した。今どき手書きとは珍しいと司は常々思っていた。
「例えばですね、オルタネーターは放射性物質で構成されているとか、既に日本の地下という地下に潜り込んでいるとか……。面白いのはオルタネーターは殺した人間に変身して成り代わるころができて、千葉埼玉神奈川と政府の一部はオルタネーターに支配されているとか」
「相変わらず、荒唐無稽だけど面白みも無いようなものばかりだねえ」
「風評被害に面白みがあっても困りますよ」
陰山も苦笑いを浮かべながら続ける。
「それとやっぱり『〝7・24〟は中国や韓国や北朝鮮の仕業』とはしゃぐのも流行ってますね」
「オルタネーターは北朝鮮の秘密兵器とか?」
司は失笑する。
「そんな笑い事で済ませれば良いんですけどね。大阪のコリアンタウン、横浜中華街、その他外国人居留地で嫌がらせ行為が多発してます。各々の自治体のヘイトスピーチ禁止条例に引っかからないギリギリのやり口です。これ、上で音頭取ってる奴がいますね」
「多分『風の楯』だよ、それ」
「『大日本委員会』ではなくて?」
「腐っても与党の先生方は表立ってそんなこすっからいことしないよ。裏ではどうだかわからないけど」
司の言葉に「なるほど」と返しながら陰山は携帯端末を取り出すと、メモアプリを立ち上げてそこに書かれた概要をかいつまむ。
「その『風の楯』がやらかしたことの一つに中華料理屋に嫌がらせをしたら、そこの店主は台湾人でしたというオチがありまして。激怒した店側がネット上の在日台湾人コミュニティにこの出来事をアップしたところ、それが台湾本国にまで流れて大炎上。『風の楯』側は中国人工作員の仕業とでっち上げて言い訳してますが、まあしっかりウラは取られてます」
「その裏取りした情報を流したのは君でしょ」
「あら? ばれちゃいましたー? ファクトチェックはジャーナリストとして基本中の基本ですから」
その基本ができていない連中が多すぎます、と観月はぷりぷりと頬を膨らませる。
傍目には井戸端会議にも見えるが、司の傍らに控えている深山は少し強張った面持ちで陰山に視線を向けていた。
ジャーナリスト陰山観月。与野党問わず政治屋や官僚、そして活動家からすれば、積極的に関わり合いになりたくない人物の一人であると音に聞いている。
「あとは順当にオルタネーターは神の裁きによるものだ、いや神そのものだ、悪魔だ、宇宙からの敵性異星人、異次元からの侵略者などなど」
「順当過ぎて面白くないねえ」
「タチが悪いのはエフェクターの少女がオルタネーターを引き寄せているとか、エフェクターを喰わせればオルタネーターはおとなしくなるとか」
「前者に関しては明確な否定材料が無いのが辛いところなんだよねえ。あと後者に関しては……」
もう何件も実例が出てるから、とは司は実際に口に出すことはなかった。
「しかし殺せば……っていうかあいつら生物かどうかも怪しいけど、倒したら塩の塊になるっていうのもなんだか……。こんなの公式発表したら大炎上ですよ。そんなこと信じられるか!って、意識高い方々が……」
「みんな『物語』を求めるからねえ。オルタネーターは未知の物質や元素で構成されていたとか、そんなセンセーショナルなナラティブが欲しいからね」
「殺してしまえばすぐに塩の塊になって、生け捕りにしても旧二十三区の外に出して三十分もすれば、これまた、ただの塩になるんじゃ、まともな研究や分析のやりようが無いですよね」
オルタネーターが出現してから七年の間の研究で得られた情報は、その犠牲にしたものと比べればあまりにも少ない。オルタネーターには通常兵器が通用しないこと。オルタネーターは決して水場に侵入しないこと。オルタネーターを倒すには、エフェクターと呼ばれる少女とレゾナンスという状態になったオブジェクターという人間による肉弾戦しか手段が無いこと。理論上、核熱ですら通用しないこと。オルタネーターはカメラやセンサーなどといった電子機器で存在を捉えることができないこと。
クリティカルな解決方法は一切無かった。
「さて、世間話もこれぐらいにして、本題に移りましょう」
世間話にしては物騒過ぎると、傍に控えていた深山が胸の内で零した。
「ではまず私からこれを……」
陰山は指紋認証式の鍵のついたブリーフケースを持ち上げると、人差し指を当てて解錠した。中からA4サイズの茶封筒を取り出して司に手渡す。
「三ヶ月前に『藤林凛』と呼ばれる一名の
茶封筒の中身は幾枚かの写真とA4サイズのレジュメだった。
幾枚かの写真には明らかに隠し撮りと思しきアングルの人物写真。写真には三人のスーツ姿の女性の姿がある。 司のレジュメの内容はその「新日本母の会」と藤林凛というWACが過去に接触していたという事実とその詳細な経緯がまとめられていた。
「どっかで見たことあるなあ」
「寺田紗衣っていう女性人権団体に所属してる野党系市議会議員と増川静という寺田が賛同している『新日本母の会』の会長です」
「まーたこいつらかー」
司は辟易したように嘆息した。これまでに幾度も余計な仕事を増やしてきた連中だ。
女性の社会進出を標榜する社会運動団体だが、そのような組織がエフェクターという少女の存在とあり方を見逃すはずがなかった。日本各地そしてネットと場所を問わず、エフェクター達の解放の声を荒げていたが、その活動がここ最近になって暴力を伴うほどに過激化し始めていた。ネットと東京西部、そして二十三区の周辺で喚き散らすだけに飽き足らず、ついに二十三区内に不法侵入しオブジェクターの活動を妨害するまでに及んでいる。司としても彼女達の活動は頭痛の種であった。
「でもなんで? こういう女って自衛隊アレルギー酷そうなんだけど。特にこの『新日本母の会』とか」
「与党の女議員は別にそうでもないですね。まあ、ああいう手合は老人に下駄履かされて喜んでるだけなので。でも確かに野党系のこの女が自衛隊を接触しているのは確かに不自然ですね」
司の指差した写真の女二人、寺田と増川は昨今、エフェクターの少女の解放を謳っている。この程度ならSNSでよくいる手合だが、この女の場合は実力行使さえ厭わず実際に行動に出ている有様だった。またそれと同時にオブジェクターに対し謂れなき誹謗中傷を煽った中心人物でもある。
昨今、政治家の身でありながらインターネット上で特定の属性を持つ人間を誹謗したり、あるいは自身の支持者を煽って自身と異なる考えを持つ陣営に敵意を向けさせたりする者が与野党問わず後を絶たない。そもそもの時点で、大多数の有権者が政治家と活動家の識別もついておらず、またほとんどの政治家自身も選挙に受かった後も活動家気分で浮ついている、というのが二人の見解だった。
「私も最初はそんなはずが無いって思ってたんですよ。でも実際の所は……ってところです」
「十中八九、利害の一致だろうね」
藤林凛。およそ三ヶ月前より自衛隊を脱走したWACである。
ここ最近、旧二十三区内でオブジェクターだけが殺害されエフェクターは行方不明になる件が複数回立て続けに発生していた。
手錠端末は旧二十三区の外ではビーコンの役割も果たす。殺害されたオブジェクターの手錠端末はいずれも旧二十三区内で回収されているが、エフェクターの手錠端末は一つも回収されておらず、またエフェクターたちが二十三区外に出た形跡も確認されていない。
そしてこれらの事案はこの藤林凛がAWOLになった三ヶ月前から始まったことだ。
おそらく、藤林の目的はエフェクターの拉致。
そして今回、エフェクターの保護を謳う「新日本母の会」と利害と目的が一致したと考えられる。寺田と増川の指示によるものなのか、あるいは両者が協力関係にあるのか。
思わず深山も興味を引かれてレジュメを覗き込んでいた。それに気づいた司が「読む?」と既に目を通したレジュメの一枚を深山に渡した。
「調査と取材ありがとう、陰山さん。オブジェクターとエフェクターのみんなに気をつけるよう勧告しなきゃね」
「しっかし、相変わらずの縦割りぶりですね」
陰山が呆れたように嘆息する。
二十三区内のオルタネーターの撃破と壊滅した区域の調査を担当しているのは、オブジェクターとエフェクターを擁する社会衛生庁内に設けられた『調査局タスクフォース』と呼ばれる部隊ではあるが、防衛省率いる現場の陸自と不毛な縄張り争いをしているのが現状だ。
先日、北千住でフェリクス達が救出した金谷たち自衛隊員もこの藤林の捜索にあたっていたことが、後の事情聴取で判明した。封鎖都市内での任務中に行方をくらました自衛隊員が存在することについて、何ら報告も寄越さなかった上に事態が明らかになった後で捜索の協力を要請してきた防衛省に憤りを通り越して呆れてきたが、もはや後の祭りで今更何を言ったところで意味が無い。
かつては国防の要としてオルタネーター相手にその役目を果たそうとしたものの、彼らの力は怪物相手に全く通用しないことからその任から解かれている。現在の陸上自衛隊は二十三区外縁外周の警備、杉並区、練馬区などの東京都西部と隣接している区境にオルタネーター侵入防止用の人工河川と壁の建造、攻略済みとなった地域の鉄道や道路などの交通インフラの修復、そして封鎖都市内に向かうオブジェクターとエフェクター達の諸々の後方支援が主な任務となっている。
一方で年端も行かない少女達とどこの馬の骨かもわからないオブジェクターという連中が、封鎖都市の調査とオルタネーターの撃滅という危険な任務に赴いていることは、彼ら国防の任に就いている者からすれば面白くない状況だった。
この期に及んで未だに燻る縦割り行政による縄張り争い。「あの仕事はうちの領分じゃない」「この仕事はうちのものだ」と喚いてはばからない社会衛生庁と防衛省の役人たちの無責任さと過剰な管理意識により、現場のオブジェクターとエフェクターは無用な苦労と衝突を強いられている。
国防を標榜しながらも東京二十三区奪還においては後方支援に留まっている自衛隊は、しばしばその矜持故に暴走することが度々あった。その尻拭いをする羽目になるのも社会衛生庁調査局タスクフォースが擁するオブジェクターとエフェクターだった。
「もうちょっと協力できないんですか? そうすれば少しは状況も改善されるのでは」
陰山が呆れたように、そして他人事のように鼻白む。
「こちらとしてはできる限りの情報はしているつもりなんだけどね。でもあちらさん、こちらが譲歩した分だけ調子づくんだよ」
「相変わらずですね」
困ったようにこぼしてみせる司ではあったが、この女も隙あらば防衛省の領分を掠め取ろうとする程度の賢しさと豪胆さの持ち主であることを陰山はこれまでの付き合いの中で熟知していた。その意味では、司千歳もまた典型的な官僚らしい一面を持つと陰山は認識していた。
互いに用は済んだように、陰山はブリーフケースを片付けて、司も渡されたレジュメを深山に渡して仕舞わせた。
「新崎さーん、終わりましたよー。帰りましょー」
陰山が橋の方へ手を振ると、新崎と呼ばれた男も「おーう」と手を上げて応えた。
池の対岸を渡す橋には一人の男が柵にもたれかかっては、手にしたスナック菓子をぼりぼりとかじっては、そのカスを池に住む鯉やらアヒルやらにやっていた。
ダークスーツに黒ワイシャツと黒ネクタイという明らかに堅気とは言えない出で立ち。その上に恐ろしく美しく造形された顔が乗っかっている。はっきり言って近寄りがたい。
「車出してくる。腹減ったし、事務所帰る前にどっか寄ろうぜ」
「良いですね。それじゃ立川に寄りましょうか」
二人の後ろ姿を見送ってから、司も「私達も帰ろ」と深山へ振り向いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます