Chapter1 死に損なった都市③

 コンクリートを突き破って林立する塩の柱。粉砕されたガラス片と塩の結晶がないまぜになって、ひび割れた路面に横たわる乗用車と消防車といった緊急車両。片方だけ落ちている靴や打ち捨てられたベビーカーなどが、〝7・24〟発生当時に統制された避難誘導が行われていなかったことを物語っている。

 世界の終わりのように荒廃した東京の街並みの中を、フェリクスは傷んだプラチナブロンドの銀髪を揺らしながら歩いていた。その足取りは力無く、覚束ない。長い距離を歩き通す体力など、とうの前に尽きていた。彼を突き動かしているものは、もはや精神力の他になかった。

 長い白金の前髪の奥に潜む黒い瞳は前方を見据えてはいるが、その視野は極限に達した疲労で狭まっている。いつ倒れてもおかしくない。

 それでもフェリクスの歩みは止まることはなかった。取り憑かれたように足を引きずりながら歩みを進めていく。

 フェリクスはその両腕の中に一人の少女を抱えていた。薄汚れた彼の胸の中に顔をうずめている少女はぐったりと力が抜けており、生命力というものがまるで感じられない様子だった。男の腕から少女の体温はもう抜け落ちてきている。呼吸も弱々しいものとなり、胸の上下も浅い。

「お兄ちゃん……フェーリャお兄ちゃん……」

 耳を傍立てていないと聞こえないほどにか細い少女の声。フェリクスは「蜜李、どうした? 痛いか?」と少女の声を聞き漏らすまいと顔を近づける。

「なんか暗くなっちゃった……。お兄ちゃんどこ?」

 蜜李と呼ばれた少女の瞳はもう何も捉えていなかった。その目は粘膜特有のみずみずしさが無くなっていた。

「ごめん……! ごめんな、蜜李……! 必ずお前を守るって約束したのに……!」

 息も絶え絶えの蜜李に顔を寄せる。

「東京なんか、こんな国の人間のことなんかどうでもよかったんだ……! お前さえ無事に家に帰すことができるなら……元の生活に戻すことができたなら……!」

 涙ながらに後悔と無念に顔を伏せるフェリクス。

「東京のことも日本のこともオルタネーターのことも、どうでもいいと思ってるのなら……」

 蜜李の声にフェリクスは驚いたように伏せていた顔を上げて、目を見開いた。

 ノイズだかグリッチが彼女の顔を、姿を、存在を曖昧なものにさせていく。それはまるであの化け物ども、オルタネーターのようであり形の崩れた双眸がフェリクスを責めるように見据える。鈴を転がすようだった声がノイズのようなエフェクトがかかったように歪む。まるでガラスを擦り合わせたような身の毛のよだつ音がフェリクスを責めるように言葉を紡ぐ。

「どうしてアタシを東京こんなところから逃してくれなかったの」


 罪悪感のリフレインといういくら見慣れた悪夢であっても、その衝撃による覚醒はいつだって不快極まりないものだった。今ではもう見慣れた天井を目にしても、しばらくは目を覚ました自覚が湧かなかった。

 吹き出た脂汗と意識を暗闇から無理矢理引きずり出されたことによる倦怠感を抱えながら身を起こす。

 フェリクスは寝癖でくしゃくしゃになった白銀の髪をぼりぼりと搔きながら、四肢をだるくさせる重力に抗い立ち上がる。

 あの悪夢があの少女を守ることができなったことに対する罰であるならば甘んじて受け入れるが、それで睡眠不足となっては、まだ自分に残されている責務を果たすのに支障が出るのでは如何ともし難い。

 ――責務を果たす、だと?

 自分にまだそんな欠片ほどの責任感とやらが残っていたことに、内心で僅かに驚いて自嘲に鼻を鳴らす。悪夢の中の蜜李も責めていたじゃないか。こんな国、こんな東京なんてどうでもいいはずなのに。

 目覚めの気付けにと、テーブルの上に放置してあったキャップを開きっぱなしにしてガスの抜けた炭酸水を呷る。僅かに残った炭酸が刺激しながら寝起きで乾いた喉を潤していく。

 顔を洗うために洗面段に向かうと、姿見に映る自分自身と目があった。寝癖だらけの銀髪に日本人離れした顔つきの男が浮腫んだ目つきで憮然と睨み返してきた。青白い肌は白人の血が混じっていることによるものだけではないだろう。

「敷島」と印字された煙草を手にして、よろよろとベランダへと向かうと煙草を咥えて火をつける。紫煙の重い刺激が意識をようやく覚醒させていった。

 吐き出した紫煙はすぐに見えなくなった。空模様は煙の色と同じ生憎の曇りだった。

 眼下に広がる光景を見下ろす。すっかり見慣れた、再開発によって整備された小綺麗な駅前の広場があった。

 千葉県流山市。流山おおたかの森。

 かつては東京都内への高級ベッドタウンとして隆盛しかけたこの街も、今では空き家が目立ち閑散としている。

 つくばエクスプレス線に沿うようにそびえ立ついくつかのタワーマンションには、一般的な入居者とされるような核家族と思しき人の姿はほとんど無かった。時折見かける人影こそはあったものの、誰も彼もが難しい顔をした疲労感を滲ませる背広姿か、あるいは明らかに堅気の者とは思えない雰囲気を漂わせている者くらいだった。

 駅と直結しているショッピングモールも食料品などの生活必需品売り場を残して、ほとんどの店舗は開店休業中だった。人間が最低限の生活を送るだけの経済活動しか行われていない状況だ。

 一時は秋葉原から東京駅まで延長が計画されていたTX線も現在は終着駅は埼玉県内である新三郷までとなっている。かつては東京都心へのベッドタウンとして周辺地域のそれなりの隆盛に貢献し、朝の通勤ラッシュのあまりの混雑ぶりが問題となっていたこの鉄道も、今となっては筑波や柏の葉に新たに設けられた政府関連施設に足を運ぶ関係者が主な利用客となっていた。

 再開発地に建造されたタワーマンションも元の住民はほとんど出ていってしまったのだ。代わりに政府関係者が入居していた。くたびれた背広姿の上に険しい表情を乗せている人間がそれである。

 もう一方、明らかに堅気の者とは思えない雰囲気を漂わせている者たち。オブジェクターと呼ばれている者達だ。

 そして葉月フェリクスもオブジェクターと呼ばれている者の一人だ。

 それでも、まだこの土地に残っている一般の地元民は、どんな理由で未だに残っているのだろうか。金が無いから移住できないのか。移住する伝手が無いからか。あるいは、ここにしか居場所が無いからなのか。他に行ける場所が無いからか。

 小さなアラーム音が耳朶を叩き、フェリクスの少し呆けていた意識を手繰り寄せる。

 手首に腕時計のように装着された端末。スマートウォッチの類だが、まるで手錠のような枷に液晶を乗せただけの見た目をしていた。

 事実、この端末はフェリクスにとっての枷の役割を果たしている。GPS機能によってフェリクスの動向は〝飼い主〟に常に把握され、勝手に長距離移動をすればアラートが〝飼い主〟の元に発報される。

 この手錠端末に記録されたスケジュールとToDoリストに、フェリクス自身で入力されたものは一切無い。全て自分たちに首輪を着けた〝飼い主〟が遠隔で入力し、フェリクスのようなオブジェクターたちを管理している。無論、エフェクターの少女にも同じ手錠が嵌められている。

 そして何より、この手錠端末は〝飼い主〟の許可が無い限り、取り外しはできない。

 その手錠がフェリクスにお勤めの時間を知らせていた。

 それと同時に別室のドアが開く音が聞こえてきた。

「フェリクスさん、おはようございます」

 パジャマ姿の史香があくびを噛み殺しながらリビングに顔を出してきた。少しウェーブのかかった長い黒髪は寝癖で乱れている。

 そんな史香の顔にまるでサブリミナル映像のように先ほど悪夢で見た別の少女の顔が重なってちらつく。

「……つっ……」

 違う。史香は蜜李じゃない。

「あの、フェリクスさん、どうかしましたか?」

「……いや、まだ眠いだけ」

 小首を傾げる史香に、フェリクスは取り繕って貼り付けた微笑を向ける。

「おはよう史香、飼い主様からの呼び出しだな」

 彼女の左腕にも手錠端末が嵌められている。まだ十一歳の少女にはあまりにも不釣り合いな枷を目にして、取り繕った微笑がわずかに崩れた。

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