Chapter1 死に損なった都市
Chapter1 死に損なった都市①
二〇二七年。
東京スカイツリーが今にも倒れそうな角度で傾いていた。
高所ゆえの強い風が吹きすさぶビルの屋上で、葉月フェリクスは銀色の髪を揺らしながら、視線を下に移し崩壊した東京の街並みを見下ろしていた。
《こちら喜屋武厚治。東口方面をざっと捜索してみたが、奴さんがたの姿形も見えねえ。くたばっちまったんじゃねえの。もう帰りてえよ。そっちはどうだ?》
片耳に嵌めたインカムに無線ごしの声が耳朶を叩く。距離の近さが窺える口調の男の声だった。
「死なれたら余計に面倒だ。もっとちゃんと探せ」
フェリクスは眇めた目に双眼鏡を重ねて周囲を見渡してみた。気心の知れた仲間につっけんどんに返したものの、フェリクス自身も既にうんざりしており、今日何度目かの大きなため息を吐いた。
レンズ越しに拡大された視界に迷彩服姿の人間を捉えたのはその時だった。吐きかけたため息を呑み込む。
「……いた。三人しかいない。大踏切通りを走っている。俺たちが先に向かう」
《事前に聞いた話じゃ十人だったはずだぞ? ……りょーかい。俺たちもそっちに向かうわ。しくじるんじゃねえぞ》
「誰にものを言っている」
鼻を鳴らして返すと、フェリクスは無線を切る。
「いたんですね! 早く救助に向かいましょう!」
少女の声。傍らに共に立っていた少女のものだった。
幼いが、強く折れることを知らない意志を秘めたまっすぐな目とその表情がフェリクスに向けられる。
その顔が、昔、守り切ることができなかった別の少女の相貌の幻影と重なる。
「フェリクスさん、どうかしましたか?」
自分ではなく、どこか遠くを見るような目を向けていたフェリクスに少女が尋ねる。
「いや……なんでも無いよ」
朧な幻影を払うように首を横に振り、フェリクスは少女と手を繋ぎ――
「さっさと仕事を終わらせて、飯にしよう。美味いものを作ってやる」
そうして二人はマルイの「○I○I」のロゴが剥がれ落ちたビルの縁へ並び立つ。
「行こう、史香」
眼下に広がる朽ち果てた東京の光景。二人は瞼を閉じる。感じるのは、繋いだ手の互いの体温と共鳴(レゾナンス)する意識。
同じ過ちは繰り返さない。もう二度と、この手を離すつもりは無い。
改めてそう胸の内に誓って、再び瞼を開く。
するとフェリクスの右眼が、少女は左眼が、その瞳は人間のものとは思えない毒々しいアメジストの輝きを灯していた。
葉月フェリクスは少女の手を握りしめ、滅びた東京の街並みへ文字通り飛び込んでいった。
東京都封鎖都心・旧足立区北千住エリア。
都市迷彩服を纏った三人の陸上自衛官が、かつては大踏切通りと呼ばれていた道路の割れたアスファルトの上を駆けていた。
全力疾走と言うには程遠いふらついた足取り。息も絶え絶えの満身創痍。最早気力だけで足を動かしている体だった。
笑い出した膝に観念して後方を見遣る。何もそこにはいないことを確認してから、ついに三人は塩まみれのアスファルトに膝をついた。荒い呼吸にむせ返しながら、三人の中で最も階級の高い金谷二等陸曹が声を上げる。
「俺たちの他に残っている者はいるか!?」
「わ、我々三人だけです……!」
答えたのは最も若い高田二等陸士だった。膝をついていないが、八九式ライフルを杖代わりにしてここまで全力疾走してきた疲労と酸素不足にあえいでいる。
彼らはこの一帯の極秘裏の調査を任務としていた。防衛省とは異なる機関――〝社会衛生庁〟率いる調査局によって既に踏破され、踏み慣らされた一帯を自分たちが改めて歩いて調べ上げるという不条理かつ無駄としか思えない任務内容だ。
この一帯は既に安全が確保されたはずだった。そうブリーフィングでは聞かされていた。
にも関わらず彼らは襲われた。二十名二班体制もほとんどが為す術もなく殺害され、生き残れたのはこの三人のみである。
「あ、あれがオルタネーター……」
精も根も尽き果て腰を降ろした島本一等陸士がこぼす。震えた声は疲労によるものだけではなく、共に行動していた同じ部隊の仲間を目の前で次々に殺されたこともあった。
オルタネーター。
二〇二〇年東京オリンピック開会式を襲った巨大地震と共に現れた正体不明の敵性存在。
人間の存在を察知するや否や問答無用で襲いかかり、この東京という都市から日本人を――人類を排斥したモノ。
オルタネーターに通常兵器が全く通用しないということを、彼らはどこかで与太話に過ぎないのではないかと楽観的に考えていた。そんな常識外れな存在などいるものか。そして、この東京の〝事態〟に対処するのは、国防の要たる我々自衛隊の仕事であり、〝社会衛生庁調査局タスクフォース〟などというぽっと出のワンイシュー機関などではない。
仲間が無惨に殺された今にして思えば下らないセクショナリズムであると悔いることもできたが、その一方で社会衛生庁タスクフォースの実情が、〝素質〟があるというだけで民間人の若者と十歳前後の少女に半ば強制的にオルタネーターという怪物退治をさせていることに、非人道的の所業であると義憤も彼らは持ち合わせていた。
オルタネーターに唯一対抗できるのは、〝素質〟を持った者たちのみ。そしてその素質も、素質を持った人材も自分たちには無い。
呼吸が落ち着いたところで高田は改めて、自分たちの背後に目をやった。そしてそこで目にしたものを見て恐怖に凍りつくのを堪え、どうにか大声で叫んだ。
「二曹! 金谷二曹! オルタネーターです!」
アナログテレビの空きチャンネルに映るスノーノイズをそのまま切り取ったような不定形のその存在がそこにいた。目にするだけで正気や理性というものを削り取ってくるような、人間の持つ根源的な価値観といったものと相反しているとしか思えなかった。
到底、目のような感覚器官など認められないが、オルタネーターは明らかに三人の姿を見据えてきた。
「走れ! 走るんだ!!」
金谷の悲鳴にも似た号令に高田が脱兎のごとく走り出す。
だが、島本はその場で佇立したままだった。スリングで背に吊っていた八九式ライフルを手にして、トリガーに指をかけると血走って焦点の合っていない目と銃口をオルタネーターに向ける。
「くっそおぉぉぉ! くたばれ化け物がっ!」
島本が吠え立て、ノイズの塊に向けトリガーを引き絞る。持ち主と動揺にライフルが銃声をがなり立てながら、5.56mmNATO弾が連続で吐き出された。
「よせ! 無駄だ!」
制止に叫ぶ金谷の言葉通り、その火線がオルタネーターを砕くことはなかった。着弾すると同時に銃弾はどこへともなく消え失せていく。金谷と高田から見ても島本の照準は確かにノイズの塊に向けられていた。だがライフルを撃った島本にも全く手応えは感じられない。
話には聞いていた。理解はしていた。あのノイズの塊には通常の兵器は全く通用しないと。しかし実際にその不可思議な現象を目の当たりにして、正常な判断などできるわけがない。
恐慌に陥った島本が更にトリガーを絞り続ける。喚き散らす島本に同調するように八九式ライフルもがなり立てる。
だが吐き出された銃弾はオルタネーターにダメージを与えることはなかった。
無数に浴びせられる銃弾をものともせず、何事も無いようにオルタネーターは脚にしていた触手の一本を掲げると、先端を槍のように鋭く尖らせ、そして鞭のようにしならせながら奮った。
空気を裂く音とともに島本が二度、三度オルタネーターの触手に嬲られ、そしてトドメとばかりに腹を貫かれた。
血を吐き脱力する島本。だが貫かれた触手に支えられて崩れ落ちることも許されない。そのまま島本は空中に持ち上げられる。残った力を振り絞って触手を振り払おうともがくが、じたばたと暴れさせる手足の動きが徐々にぎこちなく硬くなっていく。
「た、たすけ、二曹、たかだ……」
金谷と高田に助けを求めるように振り向いて手を伸ばす島本。
だがぎこちなく腰を捻った拍子に、島本の胴体はぼきりと折れて真っ二つとなった。
折れて割かれた胸から上がアスファルトに落ちると、島本は迷彩服と装備だけを残して粉々に砕け散る。島本だったそれは白い結晶となって地面に散乱した。
触手に串刺しにされたままの島本の下半身も、オルタネーターが邪魔だと言わんばかりに触手を振るうとどこへともなく飛んでいき、地面に落ちると同じように白い結晶となって砕け散った。
「あ……あぁ……!?」
高田が言葉にならない呻き声を漏らす。まただ。また人間が塩になって死んだ。あのスノーノイズの塊の化け物に襲われると、塩の塊になって死ぬ。話には聞いていた。事前に説明はされていた。だが、いざ実際に目の当たりにして、到底現実的とは考えられない有様に恐怖が思考と体をがんじがらめに縛り付ける。人が塩になって死ぬなんて。
「馬鹿野郎! ぼさっとするな!」
呆けるばかりの高田の胸ぐらを掴み、金谷が走る。
逃げるしかない。逃げたところで殺されるまでの時間が伸びるだけかもしれない。だからと言って大人しく殺されるわけにはいかない。限界まで疲労の蓄積し、酸素不足の体に鞭打ち、走り続ける。それしかなかった。
大きな踏切と十字路が見えてきた。左に曲がる。JR北千住の駅前ロータリーが前方には朽ち果てたマルイのビルがそびえ立っているのが見えてきた。
それと同時に、二つの人影がこちらに向かって疾走してくるのが目に入った。
まるで地を低く跳ねるように、同じ人間とは思えない速さの疾駆。まともに顔も視認することもできないまま、二つの影は金谷と高田とすれ違い、そのままオルタネーターへと突進する。
二つの影の内、一つが更に加速する。アスファルトを踏み砕くほどの加速。二人は驚きに振り返る。
影が二振りの脇差大のショートブレードを空中で構え、独楽のように鋭く回転する。
そして一切の銃撃が通用しなかったオルタネーターを両断せしめた。
斬り裂かれたオルタネーターのスノーノイズで構成された体が塩となって砕け散った。はらはらと雪のように塩が舞い落ちる。
金谷と高田は驚きに足を止め、荒い息に肩を上下させながら二つの影を見やった。
一つは成人男性ほどの背丈だった。少し長い銀髪を振り乱し、両手に構えるショートブレードについた塩を振り払っている。
もう一つは少女のものだった。ややウェーブのかかった長い黒髪を風に揺らして、心配げな顔を金谷たちに向けた。
だがその少女の視線を男が手にしている剣で遮った。
「来るぞ、前を見ろ」
男の言葉と同時に後続のオルタネーターが姿を現す。その数、四体。
金谷と高田の表情が絶望に染まる。だが男は銀色の長く豊かな睫毛もぴくりとも動かさず、涼しい顔で鼻を鳴らした。
「史香、出力七十パーセントくらいで頼む」
男が少女に声をかけると同時に、まるで反発する磁石のように勢いよく跳躍する。銃弾の如く飛びかかると手にしている二振りのショートブレードでオルタネーターを斬り裂いた。刃を突き立てられたオルタネーターはそのノイズの体を白濁化させると、塩となってぶちまけられる。
飛び散る白い結晶の中で男は身を翻すと、何も無い空中に足をつけ再び磁石の反発のように跳躍。
残ったオルタネーターも反撃する。ノイズの塊から触手が勢いよく生え伸び、男に襲いかかった。だが銀髪の男がブレードで片っ端から斬り払っていった。
触手の反撃を切り抜け、男は上方からオルタネーターに飛びかかりブレードを突き刺し、アスファルトに叩きつけて潰す。
地面に散乱した塩の上に着地した男の足元に影が広がる。上を見上げれば、頭上からオルタネーターがのしかかろうとしていた。
だが男は慌てる様子も無く腕を掲げ手のひらをノイズの塊に向ける。すると廃ビルや打ち捨てられたスクラップの中の鉄材がガタガタと揺れ動き始めた。
強大な磁力のフィールドが男の手のひらの先に展開された。
斥力の障壁にオルタネーターは弾き飛ばされると、勢いよくビルに激突する。
男もそれを追うように磁力を利用して跳躍するとビルに張り付けられたオルタネーターを追撃、ブレードを振るい八つ裂きにしてみせる。
斬り刻まれたオルタネーターが活動を停止する。その遺骸の塩が降りしきる中、男はビルの壁を蹴って宙返りした。
残った最後の一体を見据える。オルタネーターがこちらを無視して、明らかに少女を標的として定めていた。
さすがの男もその顔を険しくする。何もない空中に磁力の足場を発生させ、蹴り出す。さらにいくつもの磁力の足場を飛ぶように稲妻の如く跳躍して加速する。
「史香っ!」
史香と呼ばれた黒髪の少女めがけて、オルタネーターが触手を伸ばして襲いかかる。
だが脅威は史香に届くことは無かった。磁力で急加速してきた男がその触手を全て斬り落としてみせた。勢いそのままに男は史香をかばうように抱きあげると、すぐに離脱を図った。
触手を斬り落とされたオルタネーターが、その男の背中めがけて突進する。
「厚治、まかせた!」
男の声とともに迫ってきたオルタネーターが両断された。
ビルの屋上から大剣を構えた別の男が飛び降りて、最後の一体のオルタネーターを一太刀で仕留めたのだ。烈風の如き強烈な斬撃に爆散した塩と粉塵が煙となって立ち込める。
その煙の陰から大剣を地面に叩きつけている大柄の男が姿を現した。男の背中にはツインテールの黒髪を揺らしてる少女がおぶさっていた。
「アツジかっこよかったー」と、ツインテールの少女はご機嫌に厚治と呼ばれた大柄の男の背中から飛び降りる。
二人分の男の影と、そして二人分の少女の影を金谷と高田は呆然とした面持ちで見つめていた。
被った砂煙を払い落としながら、フェリクスが鬱陶しそうに半ば敵を見る目を金谷たちに向けた。
「なんで自衛隊がこんなところにいるんだ」
その目は同じ人間とは――いや、動物とは思えないものだった。
男たちの方は右目が、少女たちの方は左目が、本来は白いはずの結膜が黒く濁っており、瞳はアメジストのような毒々しい輝きの虹彩に変貌している。見る者を不安にさせる人外の双眸に金谷と高田は息を呑む。
「まあまあ、尋問は俺たちの役割じゃねえだろう」
厚治はフェリクスの肩をぽんぽんと叩いてなだめると、立てるか? と二人に手を差し伸べる。高田はその手を借りてどうにか立ち上がった。
「よう自衛官さん、怪我無いか?」
「助かったよ、ありがとう」
金谷の方にも史香が駆け寄り「大丈夫ですか!?」と声をかけた。
高田と金谷の二人は改めて自分たちの命を救った面々の姿を見据えた。彼らについても知識としては知っている。
彼らがオルタネーターに対抗できる〝素質〟を持った唯一の存在――オブジェクターとエフェクター。
大剣を肩に担いで金色にブリーチした髪に片方の側頭部を刈り上げているという、およそ政府機関の人間とは思えないTPOを弁えていない様相の男――厚治が色黒の人懐っこい微笑を向けて、二人に自己紹介をする。
「俺たちは社会衛生庁調査局のタスクフォースだ。自衛官なら知ってるだろ? 俺の名前は喜屋武厚治。で、こいつが――」
厚治が親指で示した方には、銀髪の男――フェリクスが二振りの片刃のブレードを鞘に収めていた。厚治に気づくと、フェリクスは憮然とした視線を二人に向ける。
「葉月だ。葉月フェリクス」
「改めて礼を言わせて欲しい。君たちのおかげで命拾いした。ありがとう」
金谷と高田は礼を言いながらもわずかに困惑を表情に露わにした。聞き慣れない日本人のものとは思えない発音の名前もだが、その容姿に二人は思わず面食らった。
日本人離れしたものと日本人らしさが同居した、同じ男から見てもぞっとする程に鼻筋の通った怜悧な顔立ち。プラチナブロンドとも言える銀色の髪はほとんど手入れされていないのかに首筋を覆う程に伸ばし放題でボサついているが、その整った甘いマスクが揃っていれば、そういうスタイルとしか見えない。
「つかぬことを訊くが、君は、その……日本人じゃないのか……?」
高田の恐る恐るといった声音の、だがあまりにも不躾な質問に、フェリクスは不機嫌そうにその毒々しい輝きの右目でねめつける。
「東京にはびこる化け物を退治してるのが日本人じゃなかったら、お前らに何か不都合でもあんのかよ」
揺れる銀色の前髪の奥に不快感を露わにした底堅い瞳が二人に向けられる。
「気にすんな。ちょっと気難しい奴なんでな」
でもよ、と穏やかな口調で厚治が言葉を続ける。
「他人のこと、見た目からいきなりそういう風に訊ねちゃ駄目だぜ」
高田は目を伏せ、「申し訳ない……」と口にする。
フェリクスの背中は黙ったままだった。高田の謝罪を受け入れないまま、先を歩いていく。無言の苛立ちのようなものが背中ごしに伝わり、高田は立つ瀬がなくなる思いが胸の中ににじみ出る。
謝罪を無視してフェリクスが殿につき、厚治の案内で駅の方へ歩を向けた。
「ついてきな。ここよりかは安全なとこに案内するぜ」
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