東京イリーガル・レゾナンス
桃李
プロローグ
プロローグ
二〇二〇年七月二十四日、午後九時頃。
テレビ画面では地獄が生中継されていた。
五色のオリンピック旗が夜空にはためく新国立競技場が崩れ落ちていく。
ひとつの世界が終わりゆく様を、大勢の人間が目撃していた。
その日、葉月フェリクスは呆れ果てていた。
十四歳の少年という身空からくる天の邪鬼さもあって最初からオリンピックに興味も無ければ、東京開催なのにやんごとなき理由で一部の競技を地元の札幌で行うという馬鹿馬鹿しさに白い目を向けて嘆息していた。
まかり間違っても日本代表選手を応援する気は無かったし、自分のもう一つのルーツであるロシアにいたってはドーピング汚染という始末だ。
十四歳の小生意気なガキでも理解できる程度の数多の問題と責任を放置したままの国家を挙げた一大イベントに素直に乗り切れなかったフェリクスは、コンビニから帰ってくるなり「オリンピックの開会式見ないのー?」と尋ねてきた母に「見ねえよ、んなもん」と反抗期のお手本のようにつっけんどんに返して、自室のベッドで寝転がりながら漫画雑誌とスマートフォンのパズルゲームに洒落込んでいた。
突然の金切り声がフェリクスの耳朶に突き刺さったのはその時だった。壁越しでも身を跳ね起こす程の悲鳴。
リビングで開会式を眺めているはずの母の悲鳴だ。
「どうした、母さん!?」
慌ててリビングにかけつけてみれば、ソファに座っている母はフェリクスの姿とテレビを慄きながら視線を交互にさせて、震える指で画面を指差した。
フェリクスは母が指差したテレビ画面に視線を向け、そして目を見開いた。
激しく縦横に揺れ動く映像。大勢の悲鳴の大合唱と建築物が崩折れて大地が揺れて裂ける轟音の阿鼻と叫喚。
様々な問題を山積させながらも上っ面だけは着飾って強引に開催することになった華々しいオリンピックの開会式が、我が目を疑うほどの信じがたい光景に変わり果てていく。
いったいどれほどの間、東京は揺さぶられ続けていたのだろうか。
通常、地震は長くても一分程度だという話を聞いたことがあったが、今、東京は体感的にも五分十分も揺れが続いているように思えた。フェリクスがスマートフォンの時計を確認してみれば、少なくとも二、三分は揺れ続けているのがわかった。
揺れでカメラが転倒したのか、ひときわ大きな音を立てて映像が九十度傾いた。
転倒した衝撃でひび割れたカメラレンズは倒壊した開会式のきらびやかなモニュメントを揺れながら映し出している。
グラウンドが大きく地割れして、その場に伏せた選手や大会運営者と政府関係者などの人々を呑み込んでいく。
崩れ落ちていく新国立競技場の外壁の上部からは夜の東京を赤く照らす炎の海がうねり始めている惨状があった。
聞こえてくる高い人々の悲鳴。
それとは別に流れている慟哭のような執拗低音は、まだ大地が揺れて裂け続ける音だろうか。
カメラのレンズに流血が滴り流れてきたのか、中継が暗く濃い赤色に染まりかけると映像は間もなく途絶した。
他局にチャンネルを回してみても、オリンピックを中継していないテレビ局も電波を受信できておらず、数分経過して地元の放送局の試験放送のカラーバー映像へと切り替わった。無機質な「ピー」というテストトーンが何ら感情も無く虚しく不気味に流れていく。
フェリクスは自分の顔とほとんど同じつくりをしている母親の悲愴な顔を見合わせた。ただでさえ白い肌が青白く血の気が失せている。
言葉も出ないとは、まさしくこのことだろうか。息子のフェリクスに何かを言おうとしてるも、口をぱくぱくとさせているだけだった。
やがて映像は地元北海道のテレビ局のニューススタジオからの中継に切り替わった。
「緊急速報です。緊急速報です」
言いながらアナウンサーが慌てた様子で手に取った原稿用紙の上に視線を右往左往させている。
「現在、東京都二十三区全域で大規模な停電が発生している模様です。繰り返します――」
それしか言えないのか、言えることが無いのか、アナウンサーは不安と疑念を抑え込んだ表情で同じような文言を繰り返している。
「どう見ても地震だっただろうが!」「インターネット並びに電話回線の途絶が発生しているものと思われます」「えぇー……、地震です。停電の原因は地震です。オリンピック開会式が行われている東京都内で大規模な地震が発生した模様です。震度、マグニチュードに関して、現在調査中とのことです」「環境省から発表は? 無い!? なんで!?」「映像きてないの? 通信つながらない!?」「……千葉県、埼玉県、神奈川県をはじめとした近隣三県並びに東京都内二十三区以外の市町村につきましては現在、地震の発生と被害は確認されておりません。繰り返します――」「都内のテレビ局と連絡つかない!」「近隣住民の方は念の為、津波や高潮にご注意ください」「皆さん、とにかく落ち着いて行動してください」「オリンピック開会式が行われていた新国立競技場とは現在も連絡がつかない状況です」「政府の対策本部は!?」「専用回線も駄目です!」
画面に映り込むことも構わずADらしき人影がアナウンサーに次々と新しい原稿を手渡し、その裏でディレクターと思しきスタッフ達の混乱と怒号の声が無遠慮に入り込む。報道現場の混乱ぶりに視聴者であるフェリクスと母も困惑と不安が募った。
「いったい、何がどうなっているのかしら……」
スラヴ系のつくりの顔を両手で覆いながら、フェリクスの母は慄き、ネイティブとほとんど変わらない流暢な日本語で不安を吐露する。
フェリクスは母の隣に腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取る。瞳の色以外は母とほとんど同じつくりの顔を並べながら、チャンネルを回していく。
どの放送局も似たような、だが異様な混乱ぶりだった。場所が東京であり、そして時がオリンピック開会式の最中だったからか。
その理由もやがて判明することとなる。
この日、都内二十三区の中にいた人間のほとんど連絡が取れずに終わった。その中には開会式に出席していた各国の選手や総理大臣は無論こと、大多数の政権幹部や海外からの来賓も含まれている。
救助隊が現地に向かおうにも、地割れと共に突如現れた〝白い柱〟と〝靄〟が行く手を遮り思うような救助活動もままならないという。
そして不可思議なことに、地震が発生したのは二十三区のみで、近隣三県と都下には被害どころか揺れは全く感知されなかった。
数日経過して判明したことは、結局この程度だった。
事実上の首都壊滅、そして政府機能の消失。
それに加えての不可解な被害状況。
だがそのような大災害であっても、遠く北の大地、北海道は札幌に住むフェリクスにとっては悲劇ではあったが同時に他人事でもあった。
後に〝7・24〟と称されるこの厄災に、フェリクスは当事者意識を微塵たりとも持つことは出来なかった。
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