第28話

 目覚めた時には、窓外は漆を刷いたように暗くなっていた。

 夕食は旺盛なものになった。三人とも朝から殆ど何も口にしていなかったからだ。喉も干上がっていた。ワインがいつもの倍のペースで空になっていった。

 しをりは白っぽい半袖のワンピース姿だ。その光沢はシルクに見える。少し厚地なのは、このところ夜になるとようやく肌寒さを感じるようになってきたからだろう。

 由香里などはもうセーターを着込んでいた。だが生地は薄そうだ。レモンイエローで素材は綿か。ボトムはヴァーミリオン地にイエローのストライプが入ったショートパンツだ。

 幸雄はオフホワイトのチノパンに黒のポロシャツというあっさりした格好だった。

 胃の自己主張に反比例して、口数は誰もが少なかった。

 幸雄は二人の顔をぼんやりと眺めていた。

 こういう顔を何に例えたらいいのだろう? 二人ともとてもいい表情をしている。

 どうして行為に満足した後の女達はこんなにいい顔なのだろうか?

 いい顔と言えば……たとえば仏像の顔? 違う。そんな悟った顔じゃない。集中している顔?たとえばプレー中のアスリートのような、はたまた難度の高い節目にさしかかった演奏家や役者のような? それはどれも皆美しい。そんなプロでなくても、一般的に美しい顔は見られる。この瞬間、ここ一番という局面に集中して臨む顔は誰でも皆美しいのだ。その場合は、精神に対して美を感じるのだ。

 でも彼女達の表情はそれではなかった。今自分の前に二つ並んでいる顔を、今自分は感傷的に――元々美貌だということを差し引いても――美しいと感じているのだ。では何故そう感じるのだろうか?

 きっとそれは、彼女らが燃焼し尽くしているからだ。長期的に蓄積した疲労ではなく、瞬間的な消耗。内部留保を放出し尽した体力的な無一文の状態。満足しきった肉体はそこで無欲になっている。持たざる者の平穏だ。持てるものを惜しげもなく燃やし尽し、同時に取り巻く世界をも燃やし尽し、完全燃焼した満足感のもたらす至福だ。悔いない人生を生きた者の、死に臨んだ境地といったら、少し近いだろうか? 灰。そう、全ては灰 。しかし高温で効率よく焼いた純度の高い灰だ。一粒子のむらもない、均質で肌目細かな灰なのだ……。

 広いダイニングは隅の方まで明かりが及んでいない。その微かなもの淋しさ、微かな寄る辺なさが、灯りの下に集う三人の感情をより親密なものにしていた。


 露天風呂に行こうと言い出したのは幸雄だった。

 言われてみれば、こんな時は確かに気持ちいいだろうと、たちまち女二人が賛成し、テーブルの後片付けもそこそこに、全員その場で服を脱ぎ捨て、裸で風呂にむかったものだ。

 湯に嬌声をあげて飛び込むと、子供のように泳いだり潜ったりした。

 そうして体が火照ると喉が渇いた。しをりの部屋へ行き、飲み直すことになった。

 そして、飲んでいるうちに、驚くべきことに三人はまた欲情し始めたのだ。老いて自ら燃え尽き灰になった、その灰からまた若々しい個体が復活するというフェニックスのようだった。

 今度は女達は申し合わせたように、ゆっくりと丁寧なセックスをした。勢い幸雄もそのペースに付き合うことになった。だがスローだからといって、内容まで淡泊なわけではない。むしろ女達は執拗でねちっこかった。彼女達は昼のドラマとは違うバージョンを作り上げようとしているように見えた。昼が男性原理に基づいたセックスだったとしたら、夜は女性原理に基づいたものにしたいようだった。しかも原理こそ違え、質はどうやら同質にしたいようだ。

 昼さんざん放出した幸雄はむしろ最初は彼女達のやり方を歓迎した。しかし昂奮してくると物足りなさを感じた。ところが射精を繰り返し強いられたあとは、逃げ出したい気分になった。だが、そんな男の事情が都合よく認められるわけはなく、また彼女達のテクニックと幸雄の回復力が並外れていたので、またえんえんとセックスが続けられることになった。

 しまいには幸雄はもう自分がほとんど知能を持たない原生動物のような気分になってきた。人生で初めてのことだった。


 ふと目が覚めた。

 脳に鉛を流し込まれたような重苦しさを感じていた。

 首が反り返っていた。枕から後頭部がずり落ちている。

 板の木目が目に入った。どこかの部屋の天井らしいが、見覚えがない。

 どこだっけ……?

 幸雄はまた目を瞑った。夢の続きを見ているような気がしたのだ。見るべきだった夢なら見続ける方がいい。だが、そんな夢だったか?

 その時下半身に圧迫を感じた。

 薄目を開いて首をもたげると、女の白い腰部が見えた。女は幸雄に逆を向き、馬乗りに跨がり屈んでいる。幸雄自身も裸のようだった。

 まだしをりと由香里とのセックスが続いているのか――それともやはり夢なのか?

 幸雄は朦朧とした頭を振り、更によく見た。

 女が顔を上げた。目が合った。

 麻里だった。

「おっ?」

 なんでこんなことになっているのだろう? 幸雄は呆然と麻里の顔を眺めた。そして、さぞ間抜け面をしているだろう自分の顔を自分でも見てみたい、などとも思った。鏡などないので、麻里の表情にその徴を探そうかなどとも考えた。

 麻里に驚いた様子はなかった。そんな幸雄を一瞥しただけで、すぐ視線を真下に落とし、ぐいと逸物を握った。眼前でたっぷりした臀部が膨らんだ。

「駄目じゃん!」

 片腿を上げ、幸雄に〝愚息〟の体たらくを見せた。背側から回した手で萎えたそれを摘み、先端をぶらぶら振った。

「自分から迫ったくせに、何これぇ……」

 幸雄ははっと上体を起こした。

 部屋をざっと見回わす。しをりと由香里の姿はなかった。状況は相変わらず分かっていないが、取敢えずほっとした。

 見る角度が変わると、見えてくるものも変わる。そこは膳場や麻里が使用している運転手の控室だった。ここには布団もある。仕事の合間に仮眠がとれるようになっているのだ。膳場は時折利用しているが、麻里はめったに使用しないはずだった。

 頭ががんがんする。

 鈍った頭で昨夜(?)の結末を思い出そうとしたが、浮かんできたのは、夜が白々と明けてきた窓を見た朧気な記憶だけだった。半紙に筆で横に長い線を引くと、終いの方ががかすれしまうように、最後の方の記憶がかすれて消えている。

「俺、お前とやったのか?」

 麻里はまじまじと幸雄をみた。

「何よお! 幸雄がいきなり抱きついてきて、おまんこやりてえって言ったんじゃないか!? この若年性アルツハイマー!」

 麻里は腰を浮かせて幸雄の萎えたものを握り潰した。

「いてっ!」

「ふん。感覚はあるんだ。若年性勃起障害の癖に!」

 そういう病名はあるのだろうか? 勃起不全に縁のなかった幸雄の辞書に元々その単語はない。

「やんなかったのか?」

「やれなかったのか、でしょ」

「そうか。俺はいつ来たんだろ?」

 我ながら間抜けな質問だった。

「今よ!」

「今?」

「呆れた。あんたほんとに何も覚えてないのね! そう、素っ裸のフリチンで来たわよ。あんた3Pやったね?」

「……」

 図星だ。しかし初めそれを唆したのは麻里だ。だがしかし、するとあまり時間は経っていないのかもしれない。

「今何時だ?」

「もう朝よ」

「朝は判ってる。朝の何時だ?」

「当ててみな?」

「おい……」

 何をこいつは朝っぱらから機嫌が悪いんだ? 生理なのか? まさか昨夜銜えこんだ男にサオがなくて、穴が開いていたとかいうんじゃないだろうな?

「麻里は泊まってたのか?」

「まさか。勝手に人んちに泊まんないわよ。由香里さんが朝一のフライトで飛ぶから送りに来たのよ」

 あ、そうだった!

 幸雄はがばっと跳ね起きた。

 うっかりした。由香里は今日早朝から出張だった。

 さっき窓外に曙を見てから、どれ程時間が経っているのだろう? 問題は由香里がもう身支度を終えているかどうかだ。そのため早く目覚めていたのなら、麻里に裸で抱きつく姿を見られたかもしれない。

 幸雄は慌てて部屋を飛び出した。


 夫婦の寝室に由香里の姿はなかった。

 ゴールしたアスリートよろしく時計を睨みつけた。

 古ぼけた柱時計で、部屋に不釣り合いなほどの年代物だ。しかも巨大で、仔山羊ならすっぼり隠れられて狼を欺けそうだった。洸一郎が半世紀以上も前に、留学していたイギリスから持ち帰ったものだ。毎日ゼンマイを巻く必要があるが、それは幸雄の仕事になっていた。振り子の音に加え、一時間毎の正時にその数だけボンボン鳴るが、慣れると音は気にならない。深みのある低い音が 幸雄も由香里も結構気に入っている。

 そのジョン・ブルはまだ早い時間を示していた。

 幸雄はひとまず胸を撫で下ろした。

 ついでしをりの寝室に行き、覗いてみた。ドアが軽く開いていた。これは自分が開けたのかもしれない。

 女二人が仲良く眠っていた。揃って子供のように無邪気な寝顔だ。

 安心すると同時に、愛おしさがこみ上げてきた。幸福な気持ちになった。


 そんな気分に浸りながら休憩室に引き上げて来ると、部屋の真ん中に麻里が突っ立っていた。既に服を着て、仕事の顔付きになっていた。裸のままの幸雄は少し気後れした。

 二人の視線がぶつかった。気のせいか着衣の麻里の眼が冷ややかに感じられた。一方こちらは全て剥き出しだ。チクリと屈辱感が胸を刺した。

 その気分を打ち消すように、服の上から彼女の胸を触った。まだ三十分くらい時間があるのだ。体力は回復している実感があった。

 大きく隆起した胸の一房を、下から掬い上げるように、揉みしだく。

 麻里は幸雄の好きにさせていたが、全く身じろぎしなかった。いつもなら頼まなくても幸雄の下腹部に手が伸びてくるところだ。

 幸雄は麻里を窺った。ちょっと心配になった。何か問題だろうか?

「しようぜ?」

「ちょっとぉ……。どこだと思ってるの?」

「休憩室だろ? お休憩タイムだ」

「30分三万円、前払いで貰うわよ」

「この田舎でそれは高い。せめて二十年間肉体払いにしてくれ」

「あたしだって、いつもウェルカムなわけじゃないわ」

「さっきはやる気だったじゃないか」

「あんたのお姫様はまだおやすみだったの? あたしみたいな安っぽい女と絡み合ってるとこ見られなくてよかったわね!? 安心してまたお気軽な女を相手にしに戻って来たのね!?」

「おい……何荒れてんだよ?」

 言いながら、図星だったので内心狼狽えた。

 動揺を隠すために、麻里を抱き寄せて身体を密着させた。

 今度は麻里が反応した。

「う……ん……」

 甘い吐息を吐いて、腕を幸雄の裸の尻に回した。

 しかしその手は幸雄の脇腹を這い、するりと胸と胸の間に入り込み、やんわりと幸雄を押し退けた。

「駄目よ、ほんとに。あたし、仕事に入ったらそういうことは考えないの」

 声が上ずっていた。付き合いの長い幸雄には、麻里の乳首が勃っていることが服の上からもわかる。だが手にこめられた力は本気のようだった。

 幸雄は体を離した。

「ごめんね!」

 そう言う眸が赤らんでいた。

 幸雄は面食らった。

 麻里が泣きそうなのだ。その眸は真っ直ぐに幸雄を見上げていた。

「あたしらしくないよね? でも気分じゃないの。あたし由香里さんのことも好きだし……」

 何が目の前の女の心の中で起こっているのか、幸雄にはわからなかった。が、何やら細やかな気遣いがハマるシーンになっていることだけはわかった。

 そっと両頬を手で包んでやった。

 麻里は梅雨時の曇空のような顔をして幸雄を見上げている。

 また抱き寄せた。そっとソフトに。それに応える素直さは麻里の体にあったが、自分から密着してこようという意志はなかった。


 由香里は元気一杯で出掛けていった。丸一昼夜の行為に満足したのか、晴れやかな顔をしていた。恐るべき体力だ。

 幸雄は見送りに玄関まで出たが、傍らの麻里の方もごく自然な顔をしていた。そういえば好色な麻里が昨晩男と同衾しなかったわけはなかった。

 二人の顔を見比べて、女はわからないなと幸雄は思った。

 由香里は本当に夫とお抱え運転手の関係に気付いていないのだろうか?

 洸一郎の囲い者だった麻里をしをりはけして使おうとはしないが、由香里は平気で使う。麻里が由香里を好きだというのはそのせいなのか――

 そんなことを考えながら、幸雄は会社の机に肘をついていた。

 まるで仕事にならなかった。脱け殻のようだった。初めてのことだ。

 あのまま麻里とベッドインしても、役立たずだったかもしれないな……。

 丁度部屋の前の廊下を足早に横切っていくしをりを目で追いながら、溜め息を一つついた。

 しをりは溌剌として見えた。生まれたばかりの朝の太陽のように、艶やかで勢いがあった。

 自分の回りの女は化けものばかりだな……。

 幸雄は思わず、はっはっはと笑った。

 ぼうっとしている幸雄をさっきから変な目で見ていた、斜め向いの席の三十路女が目を丸くした。

 そっちを見遣ると、慌てて目を伏せた。頬が心なしか赤らんでいる。机の上にはきっと帳簿が開かれているのだろう。だが彼女の目が帳簿の数字を見ていないのは明らかだ。彼女が幸雄に気があることは前から気付いている。だが経営者一族の幸雄ではどうにもならないことは、彼女自身がよく知っているだろう。

 百年後由香里と別れるはめになったら、貴女と付き合うよ――

 幸雄は心の中で三十路に語りかけた。

 ――そして帳簿を改竄させて、大金を横領する。俺はタイに高飛びし、貴女だけが監獄に行く ってのはどうだ?

 午前中の幸雄はそんな馬鹿なことばかり考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る