第29話

     9


 拍手が起こった。

 来賓代表の山中祥紀は口許に微かな笑みを浮かべて、ゆっくりと金屏風のある演壇から降りてきた。

 山中は地元選挙区選出の衆議院議員。還暦を少し越えたばかりの男盛り。所属する党の政調会長の要職にあった。若い頃ラグビーで鍛えたがっしりした体躯を紺のスーツに包み、半白の髪を整髪料で撫で付け、精悍な浅黒い顔には精気のある目が光っていた。

「……それでは続いて乾杯に移ります」

 山中を見送った司会が会場に向き直った。

「本日ご来賓の方を代表して乾杯のご発声を頂きますのは、この度榊ホールディングス代表取締役社長になられました榊由香里様でございます。それでは榊様宜しくお願い致します」

 低いどよめきがおこった。

 由香里は演壇に向かう自分に視線が集まるのを感じながら、二週間前のしをりとの会話を思い出していた。


「しをりさん。昨夜のパーティーで野崎先生に会ったの」

 朝しをりの顔を見るなり、由香里はそう告げた。

「そう? このところ野崎先生によく会うわね。選挙が近いからね」

 野崎は当地が地盤の県会議員だ。既に四期を務め、五期を目指してまもなく任期満了の県議会選挙に臨もうとしていた。

「で、今度ご自分のパーティーをなさるから、招待状を送るって言ってたわ」

「あら。いつなの?」

 由香里は野崎に教えられた日付を言った。

「まずいわね……」

「そうなの!」

 招待状は代表取締役社長のしをり宛に来るにきまっていた。榊財閥の代表ともなれば、何らかのスピーチを頼まれることは分かりきっていた。

 野崎は県会議員以外に地元大手企業のオーナーという顔を持っており、榊の会社とは浅からぬ付き合いがあった。代理人の顔出しだけでは済まされなかった。

 だがその日、しをりはもっと重要な取引先との交渉で東京にいっている。勿論野崎にそんなことを言うわけにはいかないが。

「あたしが行くしかないわよね?」

 由香里には他に案がなかった。

 しをりは暫く考えにおちた。それから

「……やはり、人事を行うべき時が来たようね」と言った。

 翌日、榊ホールディングスでは臨時役員会があり、ついで臨時株主総会が慌ただしく開催された。榊ホールディングスの株は非公開で、殆どをしをりと由香里が持っていた。

 しをりは代表取締役会長に、由香里が代表取締役社長になり、長年洸一郎のもとで実直に経理を勤めあげた木峠ことうげ準一が常務取締役に昇進。新たに幸雄が取締役に抜擢された。

 幸雄にとっては晴天の霹靂だった。

 だが、この人事はしをりと由香里の間で以前から準備されていた。眼目は幸雄を役員にとりたてることだった。

 二人は幸雄の役員入りを何度か本人に打診したのだが、その度にまだその時期ではないと拒まれていた。

 しをりや由香里にしてみれば、婿の幸雄を平社員のままにしておいては世間体が悪いし、信頼する幸雄に経営の一翼を担ってもらいたかったのだ。

 野崎の件はいい機会だった。それまで出ていた構想では、しをりや由香里に異動はなかったのだが、パーティーの件を考慮した人事になった。


 演壇の上に立つと人の様子がよく見える。由香里は祝辞を述べながら、会場内に目を巡らせた。

 幸雄は由香里の側に控えながら、同じように見るともなく参席の人々を見回していた。由香里も背が高いのだが、更に高い幸雄は演壇上の由香里とほぼ同じ目線の高さになっていた。

 地味なダークスーツばかりの中に、そこだけ華やいだ一角があった。

 中心には背の高い若い女がいた。

 幸雄は由香里に当たるスポットの余光を受ける目を細めた。

 明らかに白人との混血とわかる顔立ちで、抜けるように白い肌をしていた。服装は秋らしいマロンのアンサンブルで、地味な服装といえたが、それが却って女の若さと美しさを際立たせ、上品さを添えていた。大きな明るい目と形のいい肉厚の唇が笑みをつくっている。微笑は、連れの男の語りかけに反応したもののようだった。

 男は幸雄も知っている。県内の都市部を中心に手広く仕事をしている土建屋の社長だ。名前はたしか田岡といった。五十がらみのずんぐりした小柄な体の上に、禿頭の脂ぎった顔が載っている。傍らの女より10センチは低い。

 女の周辺の人々は正面の演壇の方に顔を向けながら、チラチラと女に目線を遣っていた。

 ふと由香里を見ると、由香里の視線の先も女の辺りにあった。視線は次の瞬間には会場の反対の隅に向けられていたが。

 女の顔に満面の笑みが広がった。いい笑顔だった。その視線が気まぐれに浮游して、幸雄の上に止まった。

 ほんの束の間だった。すぐに視線は逸れ、流れていった。

 何者だろう?

 野崎の利害関係者にしては若すぎだ。地味にはしているが、良家の娘にしては艶っぽすぎる。土建屋の愛人? そんなところだろう。だが、ではそんな女を何故こんな席に連れてきたのだろう? 田岡には狭い地方都市の風評などどうでもいいということか? そうだとしても、田岡のような男は自分の女がよその男にちょっかいを出されはしないかと常に心配するようなタイプに思えるのだが……。

 ふいに女がグラスを掲げた。

 女ばかりではない。全員がグラスを胸の前に差し出していた。由香里の話が終わったのだ。

「乾杯!」

 由香里の若々しく艶やかな声が響きわたり、会場が唱和した。

 いっきに会場が賑かになった。

 由香里と幸雄は新任の挨拶に回って歩いた。

「おおっ。幸雄さん。とうとう取締役になられたか」

 名刺から目を上げたホストの野崎は幸雄を鷹揚に視た。

「お引き回しの程、宜しくお願い致します」

 頭を下げながら、この男は多分榊ホールディングスの人事を知らされるまで自分の名前など憶えていなかっただろうと幸雄は思った。事実野崎は、幸雄の彼の中でのランク付けを決め兼ねている様子だった。それは、ざっと挨拶を交した多くの者に共通した反応だった。

 洸一郎亡き後の榊の動向を注意深く見守ってきた地元の有力者達は、いまやしをりと由香里の、 企業家としては若すぎる二人の女性に完全に及第点を与えていた。一方当初存在が注目された娘婿は、一向に表舞台に出てこないことから、単なる逆玉の入婿、洸一郎の血を次代に受け渡すことだけが役割の種馬と見倣すに至っていた。

 そんな参席者達の反応を肌で感じながらも、幸雄には自分を大きく見せようという気は全く起きなかったし、由香里もまたあえて夫を売り込むことをせず、悠然としていた。彼女は夫を信じていたし、能力は言葉ではなく行動によって顕わされるものと思っていたからだ。由香里のそうした態度は、一つには彼女の育ちに由来するものだった。下からのし上がって来た者にはない帝王の気風だった。

 由香里の周りには自然に人が集まってきた。

 若くて美しい由香里は、それだけでも男達を引き付けた。多くの惑星や衛星、彗星を従えた太陽のようだった。幸雄には見馴れた光景だ。彼ら相手に一通り挨拶が済むと、幸雄はもうひとつの太陽が気になった。

 女は折しも野崎と向き合っていた。傍らから田岡が大きな地声で野崎に話し掛けている。野崎は適当に相槌をうっているが、女の方はあまり見ようとしていない。周囲は野崎に遠慮して会話に入り込んでいかないようだ。

 そこへ山中が近寄っていった。同伴してきた夫人は二人組の婦人達と話していた。野崎と田岡が同時に頭を下げた。田岡はここぞとばかり、今度は山中に話し掛けたが、山中は田岡には興味がないようだった。専ら野崎の方ばかり向いて話していた。

 長身で細身の男が後から歩み寄り、田岡に話し掛けた。田岡がそちらを向いた。長身の男の顔には見覚えがあった。野崎の秘書だ。その瞬間、女と野崎が目配せしたのを幸雄は見逃さなかった。

 野崎は手の平を女の方へかざしつつ、山中に何かを言った。紹介したのだろう。山中が頷いた。

 次の瞬間、ついと野崎が田岡の正面に回り込んだ。何やら思い出した態で親しげに話し掛けた。野崎と秘書で田岡を囲む格好になった。山中と女は彼らから切り離され、二人で二言三言会話を交した。

 全ては束の間のことだった。田岡が振り向いた時には、山中は既に背を向けて去りつつあった。その背を田岡は未練気に見送った。

「そうだ。榊さん!」

 幸雄に気付き、野崎が手招きした。

「あなたに紹介しておこう。この人はこの辺り一帯仕切っているゼネコンの田岡さんだ。……何だ、知ってる? え? 田岡君もか。なら話がはやい。ここんとこ地方経済は冷え込んどるでな。地元の企業は手を携えて効率よく投資せにゃならん。二人ともよく情報交換をすることだ。俺も協力を惜しまん。困ったことがあったら遠慮なく言いたまえ」

 そう言い置いて野崎は行ってしまった。

 女と幸雄の目が合った。

「榊幸雄さんですか?」

「そうです。私のことをご存知でしたか?」

「お名前だけは。でも榊清二さんは存じ上げています」

 途端に田岡が不愉快そうな顔をした。

「そうですか……。貴女は?」

 田岡の表情を疑問には思ったが、気付かぬ態で幸雄は訊ねた。

「本田と申します」

 女はバーキンのバッグから名刺を取り出した。それで幸雄も胸から名刺入れを取り出した。

「ああ。私にも下さいよ」

 田岡も名刺入れを出した。

 幸雄は二人と名刺を交換した。

「失礼ですが、外国の方ですか?」

 女が差し出した名刺には、本田アメリー、とあった。通常より一回り小さく、角が丸くなった女性の名刺によくあるタイプで、薄いピンクの和紙製だ。ほんのりと甘い香りがした。肩書はなく、住所も記載されていない。携帯電話の番号とウェブアドレスだけが記されていた。

「彼女は父親がフランス人なんですよ」

 面白くなさそうに田岡が言った。

「もう亡くなりましたけど。国籍は日本です」

 アメリーはそう言い、続いてよく訊かれるだろうややぶしつけな穿鑿を待つ風になった――幸雄にはそう見えた。。彼女の素性に既に見当をつけていた幸雄は、そんな話しはする積りはなかった。仮にしても、下品な田岡を妙なことで威張らせるだけだった。一方でそういった質問にも平然と対応しそうに見える女の態度に、驚きを禁じ得なかった。

「清二とはどういうご縁でしたか?」

「大変お世話になりました。私の恩人です」

 それが答えだった。田岡が益々不機嫌になった。アメリーは本当にそう思っているのか?

 どう世話になったかは、訊くまでもなかった。清二がただで人助けなんかするはずがない。するなら必ずセックス目当てだ。その辺りの経緯はどうやら田岡も承知しているように感じられた。

 アメリーの〝所有権〟は清二から田岡に移った――少なくとも田岡はその積りでいるようだ。だが肝心のアメリーにその意識はなさそうだ。それが田岡を苛立たせているようだ。

「最近お会いしておりませんが、お元気でしょうか?」

「いえ、私も随分会っていませんよ」

「榊さんは今度取締役になられたんですね?」

 アメリーは幸雄の名刺に目を落とした。

 幸雄は驚いた。田岡も目を丸くしている。

 電撃的に行われた榊ホールディングスの役員人事は、すでに公表されたとはいえ、まだ知らない者が多かった。それが先程の由香里のスピーチの際のどよめきになって表れていた。この会場に集まった人間達はほぼこの地域のステークホルダーをカバーしているといっていい。その者達にしてそうなのだ。アメリーのような素性定かでない小娘が知っていること自体が驚きだった。

 だが幸雄はすぐに合点がいった。

 野崎なのだ。

 いや、情報源は他にもあるかもしれない。この娘は侮ってはならないようだ。

「榊ホールディングスといえば、日本中に知られた会社ですから、榊さん、偉いんですね」

「新米ですよ」

「なかなか取締役になろうとされなかったそうですね。何かお考えがあったのですか?」

 直球が飛んできた。田岡は心持ち心配そうな顔をした。彼が何か言い出そうとする切っ先を幸雄は制した。

「榊は同族会社ですから、普通のサラリーマンが自分の出世だけを考えればいいのと私の場合は一寸違うと思っています。外の血は基本入れないわけですから、私のへまは直接家族の衰退に繋がる。妻や義母が経営者として優秀なうちは任せた方がいいのです。全くの平社員から始めた私が会社の役に立つと思える日が来たら、更に上を目指すことも考えます。私は今そう思っています」

「まあ……」

 アメリーの目が揺れた。

 意味は分かったようだ。それが彼女の哲学に何らかの影響を与えたということはあまりありそうになかったが、彼女が親しんできた男達とは異なる考え方だったはずだ。だが、それを盾に切り捨てようとはせず、アメリーは素直に当惑していた。

 表情の豊かな娘だ……。

 幸雄は眼前の混血の娘の顔を好ましくみつめた。

 田岡は冷めた目になっていた。

 実際幸雄の理屈は怯懦と紙一重だった。自分の代で成功した経営者なら、百人が百人ともこの考えは否定するだろう。幸雄が榊家に最近現れたニューフェースだったなら、家族の中で微妙な立ち位置にある彼が当たり障りなく言い抜けたと、人は取ってくれるかもしれないが、何年もこれまで鳴かず飛ばずで来たと見做されている幸雄だけに、まともに受け取られたのだ。

「……まあ、なったばかりで、あんたも大変だろうが、まだまだ上があるんだ。せいぜい気張りなさいよ。さて、俺達は失礼するか?」

 田岡は幸雄に興味を失ったようだった。

「野崎先生に会ったし、山中先生にも会えたしな」

 話の後半では既に横を向いていた。

「はい。その前に洗面所に寄っていいですか?」

「ああ。出口にいる。じゃ、榊さん」

 片手をあげて、田岡は歩み去った。

「榊さん。いい色に日焼けしていますね。ゴルフですか?」

 すぐには動こうとせず、アメリーが訊いた。

「いえ。テニスですよ」

「まあ。優雅ですね。どちらでしてらっしゃるの?」

「最近はT……テニスクラブです」

 幸雄は市内のテニスクラブの名をあげた。

「あたしみたいな素人でも出来るかしら?」

「誰でもある程度は上達するものです」

「機会があったら教えて下さい」

「よろこんで」

「では失礼します」

「その気になったら連絡下さい」

 幸雄はスラリとしたアメリーの後ろ姿を見送った。

 案外肩幅がある。腰も西洋人のように張っている。脚は長くほっそりしている。大柄なわりに軟かそうな体だ。二つ折りにしてのしかかったら、どこまで曲がるだろうか?

 突然、目の前に由香里が現れた。後ろから近付いて回り込んだようだ。あらぬ妄想に耽っていた幸雄はギクリとした。

「何か旦那様の興味をひくようなものがあったかしら?」

 由香里の目が笑っている。

 由香里が嫉妬心を見せるということはまずなかった。それは由香里が若く、美しく、性格的にもチャーミングで――つまり女性として一番価値のあるものを全て備えているからだ。それらは由香里が意識して身につけてきたものではない。天然のものだ。だから由香里にはほぼ無意識の与件である。当人には、そうなのだからそう、という感覚しかないはずだ。他の女に負けたことがないから、その可能性すら意識しないのである。

「綺麗な娘ね。誰なの?」

「田岡さんの愛人のようだ」

「へえ~。なんでそんな娘連れてきたのかしらね?」

「野崎先生に紹介するためだと思う」

「と言うと?」

「袖の下だ」

「まあ!」

「ところが先生とはとっくに親しくなっていたらしい」

「誰が? 女性が?」

「うん。ところが野崎先生も大したものだよ。逆に山中先生への袖の下に利用したようだ」

「ほんとなの?」

「ほんとさ。ほら見ろよ」

 幸雄は化粧室の出入り口の方を顎でしゃくった。

 丁度出て来たアメリーに四十がらみの男が声をかけていた。

「あれは山中先生の秘書ね」

「そうだよ。最後に入った袖は山中先生の袖だったってわけさ。そんな構図を知らない田岡さんが哀れだね」

「女は知ってたのかしら?」

「知っていた。断言できるよ」

「ふ~ん。したたかな娘ね。それともその二。頭が空っぽ? それともその三。男なしで生きられない体?」

「その一が一番近いと思う。でもまだ世の中の経験が浅い。まだ固まっちゃいない。そうそう。最初の相手は清二叔父だったようだ」

 由香里はやれやれといった顔をした。

「ありそうな話だわ。あの娘も不幸ね」

 ちょっと違うと幸雄は思ったが、黙っていた。会っていない人間に、風変わりな、それも白黒定まらない個性を説明するのは難しいのだ。

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