第24話

 洸之進を下ろしてまた車を発進させると、もう洸之進のことは綺麗に頭から消えていた。

 陽の向きが変わって眩しい。清二はサングラスを取り出した。

 市の中心部へ乗り入れる。

 ロータリーの中央にある噴水の傍らにアメリーが見えた。

 モカ地のワンピースを着けている。控えめななりだが、若い女にはそれがよく映えた。上品だった。雨のように落ちてくる噴水の水がキラキラと秋の光を反射し、その真下にいるアメリーの白い顔には、葉叢がつくる光斑が揺れていた。それは、圧倒的に世界の秩序を支配した夏が退場し、万物が固有の滋味を各々のやり方で表し始めた秋の鮮やかな彩りの中で一幅の絵だった。アメリーの美しさが清二には誇らしかった。

 耳にピアスをし、金髪に染めた若い男がアメリーに近づき、話しかけた。

 清二はバスの停車スペースの少し先に車を停めた。

 ベンツを下りて、サングラスの清二がぶらぶら近づいていくと、若者が怯んだ。

 その横から、日差しにも負けぬ笑みを浮かべたアメリーが歩み寄る。

 くるりと背を向け、清二は車に戻り、助手席のドアを開けてやった。悔しそうな顔で、若者がアメリーを見送っていた。

 清二は目を細めてアメリーの装いに目を凝らした。

 このところアメリーの服の傾向が変わってきた。

 最初の頃、アメリーは続けて赤ピーマン色の佳花の服を着てきた。たまりかねた清二が百貨店に連れていって、何着か買ってやった。ついでに靴もバッグも買い与えた。アメリーは目をキラキラさせ、頬擦りせんばかりに新たに自分のものになった服をうっとり眺めたものだ。

 その後アメリーの求めに応じて、清二は〝額に汗して〟働ける雇客を何人か紹介してやった。毎回毎回キャッシュで肉体を専有するアメリーは清二の妾ではない。独占できる筋合いではなかった。だが彼には自信があった。清二はアメリーにとって最初の男である。彼はアメリーに対する自分の影響力に何の疑いも持たなかった。

 紹介したのは、開業医、弁護士、私立大学の理事、ある仏教系宗教法人の地方支部長などだった。地元に影響力がある榊財閥に連なる清二はそれなりに顔が広いのだ。

 更なる労働機会の創出のお陰で、アメリーにはかなりの余裕が生まれたようだ。まもなく自分でファッションを選ぶようになった。その趣味は清二のとは違っていた。派手さを女性に求める清二に対して、アメリーは寧ろ地味な装いを好んだ。それが却ってアメリーの若さを輝かせ、上品さを添えていることは、清二も認めざるをえなかった。


「さっき県立美術館にボナールを見に行ってきたんです」

 レストランでアメリーが言い出した。

「ボナール? 知らねえな。画家かい?」

「知りません? 19世紀から20世紀前半にかけて活躍した画家で、日本の影響を受けてるんです。明るくてほっとする絵ですよ」

「知らねえ」

 ワインをあおりながら、アメリーを一瞥した。

 笑みを含んだ穏やかな顔が微かに頷いた。

 おや――と清二は思った。

 アメリーが案外博識だということは、付き合いだしてすぐにわかった。文学、美術、音楽全般―― 広い分野に一通りの知識があった。家は裕福ではなくても、両親の教養の高さが窺われた。

 そのアメリーと、つい先日こんなやりとりがあった。

 アメリーが文学の話をし出した。だが言われた作家の名前を清二は知らなかった。

「え~っ。カミュを知らないんですか!?」

 アメリーは思わず高い声を上げていた。

「知らねえよ」

 清二は平然としたものだ。清二からみれば、文学ほどこの世に無駄なものはない。神経質で気難しい作家と読者がマスターベーションのように不健康な時間を浪費し、何の役にもたたない思考や感情を共有する――それ以外ではありえなかった。

「残念です。ほんとに残念です!」

 アメリーは泣き出さんばかりになって、恨めしそうに清二を瞶た。そしてカミュについて熱く語りだした。ろくに話を聞いてくれない親に、懸命に訴える子供のようだった。

 それが、今日は様子が違った。

 はっと気付いた。

 見限られた――?

 この野郎……! 清二は腹が立ってきた。不毛なマスターベーションに過ぎないくせに、人を馬鹿にするのか? 勘違いすんな……。

「分かんねえ話しはやめな」

「はい」

 あっさり肯ったアメリーにこだわりの様子はなかった。表情から柔和な笑みは消えなかった。

 清二は不興の中に一抹の寂しさを感じた。

 肝心のセックスでも同じことが起こっていた。

 経験を積んだ男達によって、アメリーの体はよく開発されていった。知り合った頃のように文字通り手取り足取りいちいち躾る煩瑣さに流れを阻害されることがなく、こちらとしては、とろけるような快楽にただ浸ればよくなっていた。

 だが――何かが狂っていた。どこがどうとはっきり言えないのだが、二人の間で細かい呼吸が合わなくなっていた。特に体位から体位へ移る折に違和感があった。

 セックスのことを時にボディーランゲジなどというが、なかなか正鵠を射た比喩だ。少し小難しい話しだが、言語学では言語はラングとパロールに分けて考えられる。ラングは言葉そのもの、公共的な存在だ。パロールは各人の実際の発話、個人的なものだ。言い回しや語彙にその人らしさがでる。

 その言い方に倣うと、セックスの現場で使用されるボディランゲジは無論パロールである。男女二つのパロールが交換される。言語を使う会話となんらかわらない。

 だが親密な男女の場合、パロールが混淆しあい、水も漏らさぬ程一体になることがある。それにはちょっとしたサイン――男の手の動きや体の動き、女の脚の動きなど、ほんの小さな動作がキーになる。多くは男由来のサインに女が呼応する形だが、稀に女からサインが出ることもある。

 その清二のセックス上の語彙が、正確にアメリーの肉体のキーを叩かなくなっていた。別のプログラムが混在しているのだ。もしくはプログラムの不在――全てのプログラムを無効化した上で成立したアメリーの汎用型のパロールなのだ。

 練度を増したテクニックを堪能しながら、清二は自分が世の中へ連れ出してやった女性との間に生まれた空隙を暗澹と見つめていた。もはやその空隙を埋める術はないだろう。



      8


 幸雄は石のように硬くなった自分のものを激しくしごいた。傍らで眠っている由香里の無毛の股間が、覚醒したばかりの彼の視覚を強く刺激したのだ。

 そこに昨夜彼は長い時間埋まり込み、何度も気を遣った。だが彼の若い肉体は一晩の熟睡の間に完全に復活していたのだ。

 左手をそこに置いた。こんもりと盛り上がる丘の形に沿って、掌がぴたりと貼り付いた。柔らかく、吸い付くように肌目が細かい。自身の手が隠してしまった中央のピンクのクレバスに指を折り入れた。微かな抵抗を伴いながらも、それはスムーズに入っていった。

 由香里のそこは柔軟性がある。だから幸雄のもののような巨きなものも無理なく受け入れる。そそりたった時の幸雄の硬度は半端ではない。体の小さい女性だと痛がる程だ。しかし体格に恵まれた由香里はゆとりをもって受け入れることができる。また収縮力もたいしたものだった。

「うん……」

 由香里が目を覚ました。幸雄の姿を見て、すぐに状況を覚ったようだ。自然に笑みが交された。由香里の手が幸雄の強ばりを握った。すっと頭が下がってきて、幸雄は湿った柔らかい粘膜に彼のものが包み取られるのを感じた。

「おっ……!」

 幸雄は天を仰いだ。由香里の頭を抑えつけようと両手を持ち上げた瞬間、唇はもうそこを離れていた。

 由香里はベッドの傍らに降り立つと、夜衣の乱れを直した。

 それは透けたレースの黒いスリップ型のネグリジェで、背中は丸開きで、両の乳房も脇からすぐに露出してしまうデザインだ。裾はギリギリ股下まである。同素材の掌に納まる程小さな、三角布に紐がついただけののショーツがセットになっているが、由香里がそれを着けることは滅多にない。こうしたセクシーランジェリーは外国製で、由香里はもっばら通販で買っているようだ。

 幸雄は彼女の手首を捉え、再びベッドへと誘ったが、やんわりとほどかれた。

 一度整えたくせに、由香里はあっさりと夜衣を脱いだ。

 ゴージャスな若い肢体が現れた。

 幸雄は手のひらではなく甲の方で、若い時にだけ許される美しい曲線――背中から臀部へかけてのカーブを撫でた。ベルベットのような肌触りだった。

 裸のまま由香里は歩み去った。シャワーを浴びるようだ。

 すぐに小さな水音が始まった。幸雄は由香里の姿を想像しながら、自分のものに自分で構った。朝の光が満ちた部屋はどこまでも柔和で、全てが生き生きとして見えた。幸雄は幸福を覚えた。

 戻ってきた由香里は、幸雄の側には来ず、そのままクローゼットへと消えた。

 更に自分のものを自分で構いながら、ぼんやり待っていると、由香里はピンクのTシャツとコバルトブルー地にピンクの水玉を散らしたキュロット姿で現れた。屹立した幸雄のものを一瞥し、そのまま出ていこうとする。

「何処へ行く?」

「お義母様のお部屋」

 例の謎めいた表情を顔に浮かべていた。

 幸雄は目で問いかけた。だが由香里はすぐに視線を外して、部屋を出ていってしまった。

 いよいよか……。期待に更に強張るものの尖端がヒクヒクと首を振った。

 由香里はすっかり立ち直ったようだった。洸之進が投じた一石による波紋は収まり、平常心を取り戻している。きちんと気持ちの整理ができたのだ。

 彼女はここしばらくしをりの部屋には行っていなかった。幸雄には普段通り抱かれたが、どこか上の空であった。幸雄も浮遊する天女に交接しているような心もとない気持ちになったものだ。

 しをりの部屋にまた行くということは、由香里にとってしをりが――もちろん幸雄もだが――プライオリティであると再認識したということだ。あるいは彼女の中で洸之進を含めた新しい四人の関係が巧く描けている可能性もあるが、少なくともしをりや幸雄の比重は変わっていないと考えてよさそうだった。

 幸雄もまた、洸之進をしをりのように一刀両断にはできなかった。夫として由香里の気持ちも考えるからだ。

 幸雄は私立探偵を手配した。洸之進の素性の裏をとるのである。確実なことはDNA鑑定でもしないとわからないのだろうが。

 そのことを由香里に告げ、それからこう言ったものだ。

「肉親の情はわかる。でも彼が確かに義父おやじの血を引いていると判ったら、それなりに遇してやるという方向性さえ押さえておけば、今はそれでいいんじゃないか。本当に今第一に考えるべきことは、何がプライオリティなのかをはっきりさせることだ。会社なのか、肉親の情なのか。誰が一番で、誰が次なのか。今由香里が動揺しては、しをりさんも動揺する。それこそ清二叔父の思う壺だ」

「あたしが洸之進をとりたてたらどうする?」

 と由香里は訊いてきた。

「どうもしないよ。由香里が判断したんなら、それはきっと正しいんだ。俺としては異存はないよ」

 由香里は一瞬目を伏せた。それからじっと幸雄を瞶めた。

「万が一よ? 将来貴方を追い抜くようなことがあってもいいの?」

 構わない、と幸雄は答えた。

「俺には権力志向はないよ。まして権謀術数なんか全く無縁だ。洸之進にそれだけの器量があるなら、よろこんで彼を支えるよ。それに――あいつとはなんだか馬があいそうな気がするんだ。単なる変人の可能性もあるが、すごい器量の男だって可能性もありそうだ」

「貴方って……!」

 由香里は溜め息をついた。

「ほんとに欲がないのね!? 夫としてはとっても好きだけど、経営者としては物足りないわね!?」と、もう笑顔になっていた。

「人にはそれぞれ向き不向きがあるさ」

 夫婦はこんな会話を交していた。

 その後、幸雄と由香里はしをりと話しあった。しをりも幸雄に賛成してくれた。それで由香里は気持ちの整理がついたようだ。

「貴方とお義母様が一番! そして会社のことが一番! 洸之進のことはその前提で考えるわ」

 そう言ったものだ。

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