第12話

     3


「くそっ!」

 榊清二は悪態をついた。

 小百合が携帯に出ないのである。そして小百合の自宅に固定電話はない。

 清二は携帯をクラッチバッグに放り込んだ。

 この携帯をくれたのは小百合である。携帯を持ったことのない清二は、こんなもの要らないと拒否したが、

「パパの声聞きたくなったら、いつでも聞けるじゃない? パパもあたしが欲しくなったら、いつでもそうだよっておしえられるでしょ?」

 と小百合は言ったものだ。

 清二はサングラスをかけた目を夏空に向けた。

 フロントガラス越し、目の前に見えている入道雲のように、モクモクと疑念が沸き上がってきていた。

 男と会っているのではないか?

 小百合の部屋で男と鉢合わせしたことはない。だがその疑いを捨てきれない。そんな気配がいつもあるのだ。

 洸一郎が亡くなると、以前から狙っていた小百合を口説き落としてものにすることができた。自分の男の魅力に自惚れるような間抜けではない。経済力のある男なら、小百合は誰でもよかっただろう。三度の飯より男が好きな小百合を落とすのに、ハードルはさして高くなかった。

 洸一郎のように妾宅を構えてやれるだけの資力はない。だが、そこそこの毎月の手当なら、清二にも無理ではなかった。

 付き合って分かったことだが、意外なことに、小百合はさして金がかかる女ではなかった。ブランドもので身を飾りたがるわけでもないし、身体を磨くことに執心する訳でもなかった。金のかかる遊びを望んだり、高級な車を欲しがったりもしないし、豪華なホテルの宿泊や高額な海外旅行をねだることもなかった。その点は安上がりな買物だった。

 だがそのかわり、無類の男好きだった。

 Y市の県下一の繁華街を連れて歩いた時など、ひっきりなしに男に色目を使った。清二がトイレに行って戻ってみると、見知らぬ若い男と手を繋いで座っていた。清二が男を睨むと、相手は 何だこのスケベ爺いは、といった目で睨み返してきたものだ。そんな時小百合は悪びれることがない。平然としている。

 それから清二は持たされた携帯を利用することにした。見知らぬ男との現場にうっかり踏み込んで揉めるのは厄介だ。若い頃なら腕力にも自信があったが、今やり合えば、負ける気はしないが、怪我はするかもしれない。それに当然ながら、そんな手段に訴えるほど無分別な年齢でもない。

 信号が赤になった。清二は車を停めた。

 平日の午前中だ。普通なら小百合が家にいないわけがなかった。夕方店に出なければならないから、今頃は眠っている時刻だ。

 小百合が店を欲しいと言い出した時、清二は内心ぎくりとした。金の面と男関係の面と両方からだ。しかし聞いてみると、カウンターだけの小体な居酒屋だった。経営者の女性が引退するので売りにでていた中古物件だったが、十年前にリフォームされていた。それを居抜きで使用することができるという。

 そして今やここは気掛かりの巣窟と化していた。

 小百合が店を引き継いでから、客層は二十歳は若返った。以前の店は、引退した商店主や元大学教授などが主な客筋だったようだ。彼らは女将と一緒に年を重ねていった。やがて亡くなる者や寝たきりになる者、健康でも酒が飲めなくなる者や、そんな小銭すら自由にならなくなった者――理由は様々だったが、次第に客そのものが枯渇していった。

 新しい店の客は、現役の商店主、水商売の男、自由業、それに遊び人だった。

 最初は物珍しさから店を覗いた彼らも、すぐに小百合目当てに通うようになった。

 小百合は男に目がない。相手は活力に溢れた男、まして酔客である。小百合が金を取って男と寝ているという噂も、清二の耳には届いていた。

 考えるほどに清二は心配になってきた。

 やはり小百合の自宅に行こうと思った。案外寝汚く眠っているだけかもしれないではないか。

 その時、目の前を左から右に車が一台通過した。真っ赤なシビック。

 清二ははっとした。

 運転席の女がちらりとこちらを見た。サングラスの下の顔はよく判らなかったが、赤い蝶をあしらった派手な髪止めに見覚えがあった。助手席の人間が前屈みになって、女の方を向き、その胸に手を置いていたようだった。

 清二は茫然とした。網膜に刻まれた一瞬の映像が信じがたかった。だが年の割に清二は目がいいのだ。目ざとさにも自信がある。

 小百合と洸之進だった。

 洸之進を知らなければ、なんだ、女どうしかと安心したかもしれないが、不幸にも清二は洸之進を知っていた。

 プァンとクラクションを後で鳴らされた。信号が変わっていた。

 弾かれたように車を発進させた。既に肚がきまっていた。赤いシビックを追うのだ。

 しかし、何ということか! 右折禁止だ。

「くそぉ!」

 直進しかなかった。

 次の交叉点も右に曲がれなかった。工事のせいだ。その次でようやく右折できた。

 遠回りしてやっとシビックの走っていた道に出た。

 車影は見当たらない。だが交通量は多くない。それに何といっても目立つ色だ。

 ぐんと加速していく。すると予想通り、遥か先の見晴らしのいい下り坂に赤い車体が見えてきた。道はその先高速の出口と合流する。

 次第に傾斜が弛くなり、前方が確認しづらくなった。

 左手に外国のお城のような派手な建物が見えてくる。モーテルだ。モーテルはその後方にも確かもう二軒あった。お城を先頭に三店がかたまっているのだ。

 赤い車はその辺りで視界から消えた。左の道へ消える赤い後尾がちらりと見えたようだった。

 その道は、清二の記憶では先は行き止まりになっていて、モーテルに用のある車しかそちらへは向かわないはずだった。周囲は畑だ。

 三十秒程遅れて清二はモーテル街に進入した。赤いシビックは既に影も形もなかった。三軒のどれかに入り込んだのは間違いない。そのどれだろう?

 清二は取り敢えず歩道に半分乗り上げて停車した。ここならどのモーテルから出てきても捕まえられる。

 エンジンを切ると、すかさず静寂が押し寄せてきた。通奏音のように世界を充たしている蝉の声も却って静寂を強調する働きをしているようだ。真空の宇宙にでもいるような時間の不在感が清二を苛立たせた。

 携帯を取り上げる。真っ先に出てくる小百合の名と番号を確認して、通話のキーを押した。

「はい」

 意外にもすぐに小百合がでた。

「俺だ」

「あら、パパ!?」

「何が、あらパパ、だ」不機嫌が口調にでた。

「何で電話に出ない!?」

「え? うん、トイレ入ってたかな?」

「折り返しかけろよ!」

「もー、パパったら、何怒ってるの?」

「今どこだ?」

「今ぁ?」

 何と言い逃れしようと、今日こそは捕まえて懲らしめてやる。

「家だよ? これから来る気?」

「その気だが、お前困らねえのか?」

「えー、何でぇ? パパならいつだって大歓迎だよぉ。だって、パパんちだよ、あたしのとこは? 毎日ちゃんと帰ってきてほしいのに、パパの方こそ来てくれないじゃない? あたしいつも寂しいんだよ?」

「ふん、そうかよ。じゃあと20分で行くが、いいな?」

 傍らをメタリックシルバーの車体がすり抜けていった。

 運転席には女がいた。つば広の帽子を被り、大きなサングラスをしていた。ハンドルを握る手から肘にかけてを長い手袋が覆っている。日焼け防止のためだ。この暑いのにご苦労なことだ。女一人ということは――玄人か、と清二は思う。こんな片田舎でそんな商売成り立つのだろうか? なら今度利用してみようか。割合いい女だったな……。

「いいよ」

 小百合はあっさり言った。

「でもパパ、残念。今日はこれから高校のクラス会なの。来ても10分しか逢えないよ? それでもいい? パパの好きなことやれないけど、おしゃぶりならしてあげようか?」

 ふっふっふ……と下品な含み笑いをする。

 清二は時計をみた。丁度正午になるところだった。

「クラス会何時からだ?」

「12時半から」

「お前の年で、そんな真っ昼間からクラス会なんかあるもんか」

「知らないよ。あたし幹事じゃないもん。休日だからじゃない?」

 言われれば確かに日曜だった。

「場所、どこだ?」

「えー? もうパパ、ほんと変! あたしのこと疑ってるの? それともとにかくやりたいの?」

「いいから何処だ!?」

「駅前のジベルニーよ」

 ここから駅までは約10分だ。もしクラス会が本当で、時間にも嘘がないなら、遅くとも12時20分には出ないといけない。それではいくら洸之進が早漏でも、満足に行為をしている時間はない。クラス会はやはり嘘だろう。

「よし。じゃあ、とにかくお前んとこへ行くよ。大口開いて待ってろ!」

 さあ、何と小百合は言うか?

「うん……もう、パパったら! どうしてもあたしが欲しいのね!? じゃ、早く来て!」

「ああ。20分もかからないぞ。じゃあな」

「バイバイ。待ってるよ」

 電話が切れた。

 ふん。強がり言いやがって。すぐに慌てて飛び出して来るに決まってる。俺の顔見たらどんな顔するかな。洸之進の野郎もどやし付けてやる。女みたいな奴だから、ほんとに泣きやがるかな?

 清二は思わず頬が弛むのを止められなかった。にやにやしながら待った。

 赤いシビックはなかなか出て来なかった。10分が経ち、20分が経った。

 清二は少し不審を感じだした。本当にクラス会に行くにしても、もう出ないと間に合わない時間だ。クラス会は結局嘘か。

 携帯が鳴った。

「パパ、何してるの!?」

 小百合の咎めるような甲高い声がうるさい。思わず携帯を耳から浮かせた。

「どこにいるの?」

 清二はすぐには答えられなかった。

「来ないんなら、あたしもう出るよ。間に合わないもん。来るなら夜来てよ。……パパ聞いてる?」

「ああ、ちょっと野暮用がはいった」

「うん……ならしょうがないか。夜来る?」

「うむ」

「よし、赦す! じゃまた後でね」

「シビックで行くのか?」

「ううん。それだとお酒飲めないからね。タクシーで行く」

 小百合の家の近くに大手チェーンのビジネスホテルがあった。そこならいつでもタクシーを拾えた。

 電話が切れると、清二は車を出した。

 三軒のモーテルへの道を塞ぐように道の真ん中に横向きに駐車し、降りて走った。

 どのモーテルも駐車場は地下だ。徒歩でも入れる。片っ端から駐車場を覗いて回った。

 どこにも赤いシビックはなかった。

「何てこった!」

 清二は天を仰いだ。訳が分からなかった。

 さっき見かけたシルバーメタリックの車は見つかった。癪だから、〝仕事〟を終えた彼女を待ち伏せして、客になろうか?

 ふと思い付いて、一番はずれのモーテルの裏に駆け込んだ。

 裏から農道が一本伸びていた。

 この市に生まれ育った清二は、以前のこの辺りはよく知っている。何年か前、デベロッパーがここら一帯の休耕地を買収して、モーテルを誘致したのだ。

 それ以来、眼前の農道は使用されなくなったはずだ。もともと農道としては道幅がなかった道だ。

 ここを通ったのか?

 清二は首を傾げた。

 狭すぎる。余程車の扱いに馴れた者でも、脱輪の危険性に進入を躊躇う幅だ。自分なら絶対進入しない。運転の上手くない小百合が入ったとは考えられなかった。洸之進の方は免許すら持っていない。

 すると、あの赤いシビックは小百合のではなかったのか? そもそもこちらへ曲がったと見えたのは遠目故の誤認か?

 どっと汗が噴き出てきた。

 清二は車にとって返した。幸い出入りする車両がなく、進行を妨げることはなかったようだ。

 すぐに発進させた。駅へ飛ばした。

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