第11話

 互いにファーストネームで呼び合おうと、幸雄が口にしかけた時、みどりが言った。

「あたしって、古風な女だから。田舎育ちだからだね、きっと」

「俺だって同郷だぜ?」

「貴方は男だもん」

 幸雄はなんとなくみどりが分かってきた。過去の男達の影を引きずっているようだ。ヒモの付け人もその中の直近の一人なのだろう。

「悪い男だったの、その彼? 今思えば」

「ううん。悪い奴だなんて思いたくない」

「そうか……」

 予想通りの答えだった。女心なのだろう。幸雄はみどりがいとおしくなった。

「携帯とかメールアドレス訊いていい?」

「うん。山田くんのも教えて」

 幸雄が携帯を取り出すと、由香里からメールが届いていた。早朝眠っているうちに入ったらしい。仕事上の内容だった。

 ディスプレイに目をやっている間、みどりは黙っていたが、手元に束の間注がれる彼女の視線を感じた。幸雄はすぐに目を上げたが、みどりは無表情になっていた。

 みどりの番号とアドレスを登録した。

 無口になったみどりがやがて寝息を立て始めると、幸雄は改めて由香里からのメールを開き、返信した。

 することのなくなった幸雄は傍らのみどりを眺めた。

 寝顔も綺麗だった。屈託とは縁がなさそうな表情。だが心にはある種の寂しさを抱えているようだ。どうしてこんないい女が幸せを得られないのか、と気の毒になった。


 検札が来たので、みどりを起こした。

 パンチを入れられた切符をバッグにしまいながら、彼女は

「あ~、夢見てた」と言った。

「幸せそうな顔してたよ」

 みどりはゆっくりと目を瞬いた。半覚醒の無防備な表情。それもよかった。〝選ばれる女〟を選ぶ男の気持ちがよく分かる。

「婚約する夢。指輪を嵌めてもらう瞬間だったのにな……」

「それは悪かった。誰と?」

「山田くんと。あはは……」女性らしい笑みを浮かべた。

「光栄だな。そうなってたらよかったな」

「なんだ。相思相愛なんじゃない、あたしたち!」

「本気だよ?」

 幸雄は少し真剣に言った。罪深い科白だとは分かっていた。由香里に対してではない。みどりに対してだ。

 みどりの柔らかな笑みは変わらなかった。

「君をずっと好きだった」

「いつから?」

「高校の時からずっと」

「貴方には奥さんがいるじゃない」

「いたら、人を好きになってはいけない?」

 みどりの目が微かに見開かれた。

「ううん。ありがとう」

 笑みが弱弱しくなっていた。傷つくことを怖れる繊細な表情だった。だが、一体何を怖れる?

「君にも俺を好きになってほしかった。でも言えなかったな。あの頃は!」

 みどりはちょっと膝に視線を落とした。

「あたしもね、山田くんのこと好きよ? でもこのまま本気になっちゃったら、恐いな……なんて」

 あはは、とみどりは笑った。

「なぜ?」

 その問いに対する答えなかった。みどりの目は逃れるように窓外を見た。それが答えだった。

 やがて、「あたしって、求められる女だから――」と呟いた。

 それに続く言葉は出てこなかった。

 幸雄はみどりを見つめた。だから求めろというのだろうか? それとも貴方も他の男と同じねと言いたいのか。するとまたみどりが話し出した。

「どんどん事態が進んで、気がついたら思わぬことになってることがある。それを口にすると、男は裏切者とか浮気者とか言うの……」

「俺はみどりさんを誤解してないと思っている」

「多分! でもそれでも何も変わらないわよ?」

 ふいにいたずらっぽい目になった。快活さが戻っていた。

「そんなことは……考えてないんだ」

 そう言い、幸雄は苦笑した。結局負けた気がした。

「うん。それにあたし田舎者のくせに田舎駄目だしね……。山田くんは今M県に戻ってるんでしょ?」

「うん」

「そういえば山田くん、双子の兄弟いたよね? 弟さんはどうしたの?」

「T市に戻ってる。家を継いだんだ」

「そうなんだ。じゃ、山田くんが家を出たの?」

「うん。俺に先に入婿の話があった。どっちが継いでも同じだからね。思いきって俺が家を出た」

「へええ。双子だから、どっちが長男ってことないもんね」

「M県に戻ろうとは思わないの?」

「M県って、働こうにも産業なんかろくにないでしょ? 榊財閥はあるけど」

 いきなり榊の話しが出たので、幸雄はびっくりした。

「そうだ。榊といえば――榊洸一郎が死んだの知ってる?」

「……うん」

「愛人とか自称子供が沢山現れて、大変だったってね?」

「……うん」

 沢山は大袈裟だ。愛人というのが二人現れただけだった。しをり達は身構えていただけに、いささか拍子抜けの態だった。洸一郎はその点綺麗だったのだ。手は沢山出したが、後始末もその都度しっかりやっていたのだ。

 愛人というのも、もとよりあやふやな話だ。しをりと由香里が頑として撥ね付けて、騒動は収まった。

「あたしの実家の隣に、榊洸一郎のお妾さんが住んでてさあ」

 みどりは意外なことを言い出した。

「すっごい美人なの! まるで女優よ。昔のことだけどね。榊洸一郎もよく見掛けたわよ。子供もいてさ。男の子で、年下だったけど、隣だからよく遊んだわよ」

 聞き捨てならない話だった。

「ついこないだ実家に帰ったのね。そしたら偶然その子に会ったの」

「ほんとに榊洸一郎の子かな? そのお妾さんの連れ子かもしれないし、別の男の子供かもしれない」

「洸一郎には弟がいるらしいの。その人が最近来て、洸一郎の血をひく者だから養子にしたいっていったらしいの。家族関係がややこしくて、洸一郎の家にはすぐ入れないけど、将来家を継げるようにしてやるって言ったそうよ」

 清二叔父だ。とんでもない奴だ。何か企んでいるようだ。

「どんな子だ?」

「すっごく可愛い子よ。女の子みたい。小柄で色が白くて〝美少女〟。でも男だから大胆なとこもある。あたし振り回されちゃったわよ」

 みどりは柿ピーを一摘み口に放り込んだ。

「話しながら駅に向かったのよ。二人とも電車に乗る用事があったのね。あたし、駅でトイレに入ろうとしたの。そしたら、その子もついてくるのよ! 考えられる? 女子トイレよ!? 貴方、出てきなさいって叱ったわ」

「うん」

「そしたらね……、意地悪しちゃやだ、なんてなよなよしがみつくの! 声なんかも裏返しちゃって、ハスキーなセクシーボイス。あたし、背が高いでしょ? あたしの方が大きいの。まるであたしがヒステリーおこして、連れの少女にあたり散らしてるみたいで、周りは非難の目で見るし、ばつが悪かったわよ。おまけに個室に入ったらさあ……あたしは彼に音聞かれるのいやだから、水流しながらするわけ。女性ってそうするの知ってる?」

「そうだってね」

「ところがあの子ったら、隣で派手な音出してするのよ。きっと立ったまましたんでしょうよ。聞いてるこっちの方が恥ずかしくなっちゃったわよ。全くもう!」

 みどりは缶ビールを一口飲んだ。

「出てきたら、お待たせ、って大声でいうし。あたしの手握るし。汚いし」

 普段なら幸雄は笑い出すところだ。だが、家の大事に関わることだけに、真剣にならざるをえなかった。

「そいつ男なのか、ほんとに?」

「あたしもちょっと自信なくなっちゃってえ……。考えたら、お風呂なんかも一緒に入ったことなかったし。貴方ほんとに男? って訊いたのよ。そぉしたら、すごいのよぉ! いきなりあたしの手を盗って、自分の股に押し付けたのよ!」

「めりこんだ?」

 思わず幸雄は際どい冗談を言った。

「とぉんでもない! ギンギンで鉄の棒みたいだったわよ。それから彼、男の声に返って、あたしの顔見ながら笑う、笑う。……さんざ翻弄されて別れたわよ。もう、今思い出しても悔しい」

 そう言いながらみどりは楽しそうだ。幼馴染みなだけに、気持ちが通っているのかもしれない。

「貴方、もし出会ったら、どついといてよ! 悪戯ばっかりしてると、玉取っちゃうぞ、って」

「どうやら、俺――もう会ったみたいだ」

「えっ?」

「そいつ、名前は何てんだ?」

「齋藤洸之進」

 みどりは漢字を説明した。

「何だ、そりゃ……?」

「笑っちゃうでしょ!?」

「母親は?」

「齋藤絵理」

 しをり達が追い返した自称妾達の中に、その名は確かなかった。それにしても、またしても「り」の字がつく。そういえばみどりにも「り」の字がある。

「どこで会ったの?」

「実は……俺の婿入り先は榊家なんだ」

 幸雄は打ち明けることにした。自分の立場をはっきりさせることで、男の子に関する情報をもっと引き出せるかもしれないと思ったのだ。

 結果、素性がだいぶ明らかになった。

 だが我々は、みどりも幸雄も知らない事実も交えて、このあたりの経緯を遡ってみてみよう。

 みどりが物心ついた時には、すでに絵理は隣に住んでいた。

 その内洸之進が生まれた。みどりには、隣家の明るい縁側でむつきにくるまれた洸之進をあやした記憶がある。

 洸一郎は絵理のもとへよく通ってきた。特に洸之進が高校にあがる頃は毎日のように姿を見せた。それは先妻の桐子が亡くなってやや経った頃あいだ。洸一郎はまだしをりとは出会っていない。

 その頃洸一郎は、真剣に洸之進を跡取りに検討した節がある。早くからこの妾腹の息子の異能を認め愛したようだったが、最終的には経営者向きではないと判断したようだ。

 その後の洸一郎の行動は素早かった。躊躇なく齋藤母子と縁を切ったのだ。その際かなり破格の手切れ金が払われた形跡がある。それは洸之進が突然高校を中退した時期に符合する。

 洸之進は神童と呼ばれた程頭がよかった。にもかかわらず、中学生の頃は徒党を組み、大将然として、子分を何人も引き連れて遊び歩いた。

 中学生の社会では、勉強ばかりが人望の基準ではない。スポーツができたり、喧嘩が強かったり、ませた遊びをする者などが尊敬の対象になる。洸之進はその女のような面差しにもかかわらず、男子生徒から一目も二目も置かれていた。

 高校は県立高校へ進んだ。そこは全国でも有数の進学校だ。しかし子分どもは学力的に県立高校は無理だった。また進学校ではそういう種類の徒党を組む者はいない。洸之進は以来単独で動くことになる。

 ここでも洸之進の成績はトップクラスだったが、奇行が目立った。

 授業はろくに出ず、映画館やビリヤード場に入り浸り、どこで知り合ったのか隣の市の年上の女高生を妊娠させた。この時は洸一郎の命をうけた膳場が奔走して内密に始末をつけた。別の女高生の家に上がり込んで酒を飲んだ時は、相手を急性アルコール中毒にさせ、救急車を呼ぶ騒ぎになり、訴えられそうになった。

 その時も膳場が動いた。だから洸之進のことを知るには膳場に訊くのが一番早いのだが、この時の幸雄はそんなことは何も知らない。


 東京駅で一緒に昼食をとった。

「山田くんは子供いないの?」

 そんな話しになった。

「うん」

 二人は互いの私生活に踏み込み始めていた。

「つくらないの?」

「できないんだ」

 途端、由香里の悲しげな顔が脳裏に浮かんだ。


 ある晩由香里が涙ぐんで言ったものだ。

「あたし、貴方に謝らなければならない」

 思い詰めた顔だった。

「あたしね、子供一生産めないのよ」

 由香里は産婦人科で身体を診てもらったらしい。

「妊娠しない体なんですって。ごめんね、貴方! あたしと結婚したばっかりに、貴方まで一生子供を持てないのよ!? ごめんね、貴方!」

「こんなあたしでいいのかしら? 貴方の奥さんでいる資格あるのかしら……」

 おろおろと取り乱す由香里を宥めるのは大変だった。


「ふうん……。奥さんお気の毒ね。あなたはそれでもいいの?」

「仕方ない。俺はいいが、女房が気の毒でね……。子供が好きなんだ。早く子供をつくって、子供から〝ママ〟って呼ばれたいって常々言っていた」

 本当に仕方のないことなのだ。人は誰も生まれながらに同じ条件で存在している訳ではない。

 そのことで却って幸雄夫婦は互いの絆を強めた。

 だが夫婦はそれで納得したとしても、家や会社の将来が問題だった。洸一郎が亡くなった今、しをりも子を産むことができなくなったわけだから。


 東京駅でみどりと別れた。

 山手線に揺られながら、幸雄はみどりの個人的な心配事も聞いておくべきだったかと後悔した。洸之進や自分の話しばかりに頭がいってしまっていた。

 みどりはどこか鬱屈している。幸雄に力になれることがあるかどうかは分からないが、気掛かりだった。

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