第6話
2
「幸雄さん。出発まで時間あるかしら?」
出張準備をしている幸雄に、しをりが訊いた。
しをり出社前の榊邸である。
しをりは幸雄を会社では「山田さん」、家では「幸雄さん」と呼ぶ。
このところ月に一度、幸雄は東京へ出張するようになっていた。その日は移動の日だった。
「11時のフライトですから、少し余裕はありますよ」
陽のあるうちは、幸雄はしをりに対し丁寧な話し方をする。夜由香里がいない時には「しをり」と呼び捨てにしていた。二人はそういう仲になっていた。しをりの方は「幸雄さん」と言う。「しをり」と呼びたいと言ったのは幸雄だ。それはすぐに了承された。自分も「幸雄」と呼んでほしいという要望の方は直ちに拒否された。それが彼女にとっての女性の美学なのだろう。必ずさん付けで幸雄を呼んだ。
「お金、小百合さんに渡して来て下さらない?」
「分かりました」
ぶ厚く膨らんだ銀行のロゴが入った袋を渡された。
そこへ麻里が入ってきた。空港まで幸雄を送っていく、その出発時間の確認に来たのだ。
「じゃ、お願いしますね?」
しをりは一寸神経質に麻里を見遣った。麻里が幸雄に手を出さないかと心配しているのだ。
「分かりました」
「出張、気をつけてね?」
幸雄にも疑わしげな一瞥をくれて、しをりは慌ただしく出ていった。
しをりが心配するのは尤もなことだった。榊老人の死後も、麻里は会社に残る途を選んだ。会社としても、麻里の影の職務は相変わらず必要だった。だが、麻里は男なしにはいられない女だ。ところが精力絶倫の榊老人が亡くなってみると、麻里の周りにいる男といえば、幸雄と膳場ぐらいのものだった。膳場は枯れすぎている。すると幸雄だけが残るわけだ。
しかも榊老人が倒れてからこの方、一年半もの時間が経っている。麻里がどこでどうやって欲望を処理しているのか、想像を逞しくしてしまうのは、しをりでなくても当然だ。
そして、しをりの懸念は杞憂ではなかった。幸雄と麻里は男と女の関係だった。
だが、しをりも知らない事実がある。
二人の関係は、最近始まったことではなかった。
幸雄は学生時代を東京で送っている。麻里とはその頃からの付きあいなのだ。
それはとても恋人や、まして愛人と呼べるような関係ではなかった。セックスフレンドとでも言おうか。互いに互いが必要な時にだけ連絡を取り合う関係で、二人が共有した時間の量は、一緒に裸でいた時間の総和だった。会話も、天気の挨拶のようにその時その時使い捨てに交わされたものだけで、互いの私生活や趣味については互いに全く関心がなかった。
そういう関係はもろく、ちょっとした偶然で切れるものだ。実際互いが性的に満ち足りた状況が少し長く続いた時にあっさり切れてしまった。
それきり麻里のことは忘れていた。
副社長室で、久し振りに麻里を目にした時は、腰をぬかさんばかりに驚いた。
副社長の由香里に呼ばれた幸雄は、入室の前に若い女子社員と軽口をたたいた。おもむろに副社長室を見遣った時、麻里と目が合った。扉が開いていたのだ。部屋には由香里の他に、しをりと男性の総務部長がいた。気が付くと、いきなり笑いが消えた彼の顔を眺めて女子社員が変な顔をしていた。
由香里が、新しい運転手だといって麻里を彼に紹介した。驚愕している幸雄に対し、麻里は初対面の挨拶を完璧にやってのけた。早春の鳥のような瑞々しい声だった。
幸雄の方はそれを、意味も知らず真似する鸚鵡のようになぞっただけだった。
麻里が前以て幸雄の存在を承知していたとは、考えづらい。開いた扉からやって来た幸雄を認めて、とっさに心の準備をしたのだろう。
幸雄は動揺を表さないように努めたため、ロボットのように無機質な対応になってしまった。普段愛想がいい彼らしくなかったので、しをりや由香里が変な顔をしていた。
彼女達が麻里を幸雄に紹介したのは、麻里が榊家に頻繁に顔を出すことになるからだった。
「小百合さんのところへ先に寄ってほしい」と麻里に言った。そして彼女が何か言う前に、
「由香里がまだいる」と小声で釘をさした。
麻里は小さく頷いた。
「では、もう出ますか?」
「そうするよ」
幸雄は由香里に出発を告げに行き、それから麻里の車に向かった。
麻里が開けてくれたドアから後部座席に潜り込む。ドアを閉めた麻里は、トランクに幸雄のバゲージを収納した。
「発車します」
運転席についた麻里が事務的に言い、車を発進させた。
敷地内を出るまで、麻里は雇われ運転手の顔を完璧に演じた。尻が軽いくせに、いやに用心深いのだ。そのお陰で、しをりも由香里も二人が男女関係にあることを知らずにきた。疑いを持ち始めたのは、洸一郎が亡くなり、麻里の素行が心配になりだしてからだ。
「手切れ金なの?」
屋敷が視界から消えると、早速麻里が訊ねた。
「そうだよ」
幸雄が手切れ金を小百合のもとに運ぶのは三度目だった。前の二回は膳場が運転手だった。この日、膳場は別の用事で他所へ行っている。
手切れ金を出すに当たって、しをりは小百合から一筆をとっていた。三度に亘って半年毎に支払われる約束になっていた。この日が最後の支払いになる。
「あたしは貰ってないんだ」
「お前がいらないって言ったんだろ?」
「そうよ。あたしは囲われてるって意識はなかったもん。反対に亡くなった社長にはすごくお世話になったの。お金なんて貰えないわ。そんな関係じゃなかったもん」
ではどんな関係だったのかと、幸雄は不思議だった。
「でも、生きてる時は金貰ったんだろ?」
「社長のやり方なのよ、あれは。社長の気持ちを尊重したら悪い?」
「いや……」
「貰いゃ嬉しいけどね、そりゃあ。本心じゃあね」
「一番の理由は
「取るものだけ取って、はい、さよならじゃ、やっぱり金目当ての淫売だって言われるじゃないの」
「小百合は淫売か?」
「世間的にはそうよ。でもさ……人には色々考え方がある。あの娘を非難するつもりはないわ。……でも幸雄、知ってる?」
「何を?」
「清二が小百合にちょっかいだしてるわよ?」
「ほんとか!?」
「入り浸ってるわよ。金も渡してるみたい」
「へえ……」
気のない返事になったのだろう。
「今となっては関係ない?」と麻里が質した。その通りだった。
「そうだな。囲ったわけじゃないんだろ?」
「そんな財力ないわよ」
幸雄は苦笑した。
「叔父さんのまめさには感心するな」
榊老人が亡くなってから、小百合は老人が用意した妾宅を出た。以来ありふれた中層マンションに住んでいる。管理人はいるが、セキュリティはないに等しい。
幸雄は下から訪いもいれず、部屋を訪れた。麻里もついてきた。立場が同じだった二人の関係からいって、当然だろう。
チャイムを鳴らすと、ややあってから、「はい」と応えがあり、ドアの覗き穴が暗く翳った。
扉が開いた。
小百合が立っていた。
ガウン姿だった。光沢があり目に眩しい程白く、同色の刺繍も施されている高級そうなガウンだった。が、素材が薄すぎるので、ぼんやり肌が透けて見える。下には何も着けていないようだった。顔より何より、ついそっちに目がいってしまう。
「あら、幸雄さん。……あれ、麻里も一緒なの?」
「おはようございます。朝早くからすみません」幸雄はようやく小百合の顔を見た。
「おはよう!」
隣で麻里が元気な声を出した。
小百合は卵形の色白な顔をしている。色白は榊老人の選んだ女性達に共通している。老人の好みなのだ。
目尻が下がり気味で、いつも少し笑んだような表情をしている。ちょっとおちょぼ口で、日本古来の紅が似合いそうだった。背は高いわけではないが、低くもない。女性の平均より少し高めといったところだろう。なで肩で、着物が似合いそうだ。全体に従来型日本女性らしい体つきだ。榊老人にはこういう好みもあったのだ。
「わざわざ御苦労様です」
来意を察したのだろう、先に小百合がそう言った。
頬が上気している。白い肌は上気しやすい。幸雄はふいにしをりの尻を思い出した。
しをりほど血潮が肌に表れやすい女性はいない。後ろから攻め立てながら尻を叩いてやると、最初の一叩きで、純白の尻の頬にパッと手の形に紅い象が浮き出る……。
「いえいえ……」
よく見れば、髪に乱れがある。鬢にほつれ毛がかかり、額の生え際が産毛でもわっとしている。アンダーヘアはどうなっているのだろうかと、幸雄はあらぬ妄想を抱いた。
どうやら小百合は二人を中に上げる気はないようだ。仕方なく幸雄は、懐から封筒を抜き出した。
「最後の分です」〝最後〟にそれとなくアクセントを置いた。
「ありがとうございます」
麻里を気にする風もなく、小百合はその場で確認し始めた。といっても、一枚一枚数えるわけではない。百万円の束の数だけを数えた。それを麻里が食い入るように見ていた。
その間、幸雄は玄関を眺めた。
履き物が沢山並んでいた。パンプスもスニーカーもサンダルもブーツもあった。小さい下駄箱も付いているのに、出しっぱなしなのだ。しかし、乱雑になっているわけではない。
小百合の手から札束が落ちた。
彼女はしゃがんでそれを拾った。
そのせいで、奥の部屋が見えた。
ベッドがあり、寝具の中に人がいた。丁度頭をもたげてこちらを見たところだった。
ドキリとした。
びっくりする程の美少女だった。卵形の顔に円い大きな目。眸には強い光が宿っていた。通った鼻筋、赤くふっくらした唇、ボーイッシュに短く刈り込んだ髪。片方の肩も見えていた。若さと俊敏さを感じさせる肩の線だった。
少女の姿はすぐに隠された。小百合が立ち上がったのだ。その胸がはだけていた。
「これ読んで、異存なければサインか印鑑を下さい」
「はい」
領収書兼誓約書だ。
小百合はざっと目を通すと、振り返って下駄箱の上の小さな飾り棚に筆記用具を探した。すぐには見つからないようだった。
「書くものありますよ」幸雄は自分のボールペンを差し出した。
小百合がこちらに向き直った時、片方の乳房がこぼれ出た。
発情した乳房だった。見ている方が恥ずかしくなるくらい浅ましく乳首が固く尖っていた。
「すみません」
小百合は大して気にすることもなく、前を掻き合わせて、ボールペンを受け取った。だが胸元はまたすぐ弛んだ。
ちょっと目のやり場に窮して、幸雄は麻里を一瞥した。
驚くことにこちらも発情していた。彼女はチロチロと舌の先を出して、無意識に上唇を舐めている。
それを眺めた幸雄も股間に変調をきたしてきた。それを阻止しようと、視線を宙に逸らした。
「はい」
小百合は紙を返して、幸雄を見詰めた。唇が半開きになっている。その目が落ちて、幸雄のスラックスの前で止まった。粘性のある視だった。
小百合はわざとしどけない姿を幸雄に見せたようにもみえる。だが、そのことを本人がどれだけ自覚しているかも疑わしい。そして、ここは今何かを期待すべき場面ではなかった。
「どうも……」
幸雄は確認に専念するふりをした。
署名は「丘田ゆり」となっていた。これが彼女の本名だ。
小百合というのは、クラブで働いていた時の源氏名だ。色々曲折があって、最後は榊老人の妾になったが、老人が、出会った頃の呼び名を変えなかったので、周囲も自然それに倣ったのだ。
確認したことのしるしに、一つ頷いてやった。
「長い間、親父によくつくしてくれて、有難うございました」
「いえ。こちらこそ、大変お世話になりました」
「じゃ、お元気で」
思い出話しや、今後どうするかなど、あってもおかしくない会話を続ける気はなかった。麻里がいるからだ。女どうしの話しは長くなる。麻里と小百合は同い年らしいし、洸一郎との関わりから共通する話題が多い。長々と喋られたらかなわない。長居は無用だった。
「幸雄さんもね」
「はい」
頷いて、麻里を押しのけるように先に出た。
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