第2話 

     1


「あー、祭が出てますね」

 膳場洋平はゆっくりと車を停めると、ハンドルを握った右手の指を二本浮かせて、トントンと叩いた。

 突き当たりの道に丁度神輿が姿を見せていた。

 藍染の背に赤く大きく町名を染め抜いたお揃いの法被を着た男達が威勢のよい掛声を揃える真ん中で神輿が揺れていた。頂の飾りがキラキラと真夏の陽を跳ね返していた。

 神輿は今年修繕されたようだ。昨年は金具も錆び、漆もずっと古色を帯びていたはずだ。

 あれから一年が経ったのだ。昨年の、義父榊洸一郎の葬儀の折も、丁度祭の時期に当った。

 膳場も同じことを思ったようだ。

「社長が亡くなって、もう一年経つんですねえ。早いものだ。つい昨日のような気がしますけどねえ」

「うん」

 榊幸雄は短く相槌をうった。

 太鼓の音が聞こえた。山車も出ているのだろう。

 幸雄は何も言わずに神輿の動きを眺めた。祭は人をどこか晴れやかな気持ちにさせるものだ。前の座席の背凭れに片手を置いて、幸雄は少しの間のんびりして、華やいだ気分を味わった。

 膳場も同じ気分なのか、すぐにはこの後の指示を幸雄に仰ごうとはしなかった。

 考えてみれば、今年六十五になるという膳場にとっては、生まれた時からの産土の神様の祭だ。 二年足らず前にこちらにやって来た幸雄とは、思い入れが違うだろう。幸雄は制帽の下の、短く刈り込んだ白髪を眺めやった。

 膳場はどういう繋がりなのか、亡くなった洸一郎の遠縁であるらしい。若い頃は無頼で、随分と無茶なこともしたらしいが、最後は洸一郎のもとに腰を落ち着けた。洸一郎も昔は相当荒っぽいことをしたらしいし、あちこちで揉め事もおこしたらしい。二人で一緒に暴れまくった時期があるという。

 膳場はそんな洸一郎の用心棒を兼ねて運転手になった。地元やくざの事務所に単身赴いたまま戻らない洸一郎を連れ戻すべく、ドスを呑んで一人乗り込んだこともあったとか。

 叔父――つまり洸一郎の弟の清二なぞは、若い頃は二人を恐れて、顔を合わさぬよう避けて歩いたという話だ。

 それが、年を重ねるに従って、二人は無茶をしなくなっていった。一方清二叔父の方は、狡猾な性格に変貌していった。

 幸雄は先程の一周忌の席での清二を回想した。


 法事が済み、お坊さんを送り出した斎の席で、清二は「ところで――」と喪主の方へ向き直った。一周忌ともなると、参席するのは親族のみだ。

「しをりさん。皆も集まっている。いい機会だ。去年積み残した問題をそろそろ片付けようじゃないか」

 清二は今年七十。亡くなった洸一郎とは、兄弟とはいっても一回り以上も離れているのは、間に女子が二人挟まっているからである。女子はどちらも早逝した。洸一郎と清二は男だけの二人兄弟として育ったのだ。

 兄弟は似ていなかった。豪放磊落で、独裁的だが面倒見のいい洸一郎と正反対に、清二は粘着気質で利己的だった。似ているのは、ひどく好色だという点だけだ。

 容姿も似てはいなかった。早くも加齢から来る染みの浮き出た、のっぺりしたうりざね顔と小肥りな体躯は、洸一郎の浅黒い面長な顔と、背丈があり、年の割に筋肉質な身体と好対称だった。

「何のことでしょう?」

 しをりは不審そうな顔を彼にむけた。

「俺の役員入りの件さ」

 清二はふてぶてしい笑みを浮かべた。

「しをりさん。あんたはこの一年よくやったよ。立派なもんだ。榊の一族として感謝しとるよ。ここにいる皆も同じ気持ちだろう」

 清二の言い方は、まるで本家の当主のようであった。

「だがね、言っては悪いが、この一年は、洸一郎が撒いた種を刈り取るだけだった。こういうご時世だ。本当に難しいのはこれからだ。その時、頭の白い人間がいた方が何かと都合がいいんだよ。俺なら会社の沿革も過去のトラブルも取引先もみんな知ってる。あんたのいい相談役になれるし、必要なら汗をかきもしよう。――どうだろう。自分達の会社だ。皆心配しているんだよ。皆さんそう思ってるんじゃないのかな?」

 清二は座を見回した。

 幾つか同調して頷く顔があった。いずれも遠縁の者ばかりだ。清二が彼等を語らったのは明らかだった。自分が取締役に、ましてや代表権のある取締役になれば、いい目を見させてやるというようなことを言ったに違いない。遠縁の者達にとっては、最初から可能性がなかった望外の利だ。成就するなら恩の字、成就しなくても元々。失うものはないのだ。

 頷いた中の一人の男が、上体をのめらせて、賛意を述べ始めた。清二は満足そうに聴いている。

 今年、清二は作戦を変えてきたのだろうか? 昨年の轍は踏まないというわけか?


 昨年――

 四十九日後に、同じ場所で、同じような顔ぶれを前に、清二は傲岸に言い放ったものだった。

「ご苦労さんだったな、しをりさん。兄貴が脳梗塞で倒れてから半年、よく看病した。だが、歳も歳だったし、それが兄貴の寿命だったんだろう。諦めるしかないさ。あんたも随分疲れただろう。この辺で一度休んだらどうだろう? 会社のことも、あんたはよくやってきたが、正直言って、若い女の身空では荷が重すぎただろう? ここは俺に任せなさい。悪いことは言わない。その方があんたのためだし、ひいては会社のためだ。心配しなさんな。俺が兄貴の後を継いで、もっと繁栄させてやるよ。どうだね?」

 座の視線が一斉にしをりに集まった。

 しをりの白い顔に朱が差してきた。端麗に着こなした喪服に映えて、匂うような女ぶりだった。その様子を舐めるように見回し、清二は好色な笑みを浮かべた。

「何なら、あんたを専務あたりで残してもいいよ。俺が色々教えてやろう」

 傍らに座した妻のつねが、穏やかならざる目で夫を見、ついで猜疑に満ちた目でしをりを睨んだ。

 座に、しをりを軽んずる空気が流れた。話しは決まったと見たのだ。無理もなかった。洸一郎が、彼らを軽んじて近寄らせなかったから、彼らは本家の内情をよく知らなかった。しをりは、容姿だけで選ばれた後妻だ、ぐらいの認識でいたのだ。

 すうーと、しをりが息を吸う気配があった。背筋が伸びた。

「ご心配頂きまして、有り難うございます」

 よく通る声だった。艶のある美しい声。

「うん」

 笑みを絶やさず、清二は鷹揚に相槌をうった。

「わが社に全く関係のない方にまで、こんなに思って頂けるなんて、経営者冥利につきます。これを励みに一層経営に邁進して参りますので、陰ながら、変わらぬご贔屓をお願い致します」

 そこで、にこりとした。

「な、なにい?」清二の顔色が変わった。

「今、何と言った?」

「ご理解頂けませんでしたか?」しをりは小首を傾げてみせた。

「全く関係ないとは、俺に言ってるのか!?」

「今話しているのは、叔父様にですよ?」

「俺の兄貴が興した、榊の会社だ。兄貴がいない今、俺が一番関係あるだろう」

「洸一郎が興した会社だということは確かです。しかし、彼個人の所有物ではありません。またご入社のご意向と理解しましたが、会社は今のところ、新卒以外新たに雇用する予定はありません。叔父様だと、新卒の年齢制限にひっかかりますね」

「な、何だと!」清二の顔が、憤怒で青くなった。

「口のききかたに気を付けろ! それは、お前一人の個人的意見だろう!」

 しをりへの呼び掛けが、お前、に変わっていた。

 清二の逆上を尻目に、しをりはますます落ち着き払った。余裕の笑みすら浮かべていた。

「個人的意見ではありません。代表取締役副社長として、会社を代表した見解です。また筆頭株主としての見解でもあります」

 清二はもぐもぐと口元を震わせた。しをりの話しは筋が通っていた。痛いところを突かれていた。清二は会社の株を一株も所有していないのだ。洸一郎の意向だった。

「清二には、絶対に株を持たせてはいかん。俺が死んでも、これだけは守れ」――それが生前の洸一郎の口癖だった。

 株は大半を洸一郎が握り、残りをしをりと由香里で持ちあっていた。

 厳密に言えば、しをりはまだ筆頭株主ではない。相続が済んでいないからだ。だが、今の法のもと、すぐに筆頭株主になることは明らかだったから、清二も流石に揚げ足をとるようなことはしなかった。

「そんなことで、本当にいいのか!? 由香里はどうなんだ?」

 清二は、もう一人の経営トップにして大株主の、血を分けた姪の情に血路を開こうとした。

 しかし答えは全く期待外れなものだった。

「代表取締役専務として申しあげます。社としての見解は、今副社長の申し上げた通りです。株主としても、お義母かあ様の意見に全く賛成よ。叔父様、諦めた方がいいわ」

 権限のある二人にいなされ、清二は進退に窮した。

「全く、どいつもこいつも! こんな馬鹿共、これ以上相手にできんわ。こんな会社、潰れればいいんだ。浅はかな女共め、しくじって従業員諸共路頭に迷うがいい!」

 清二は足音荒く部屋を出ていった。ぶつくさ言いながら、つねが後を追った。


 それから一年。

 社の前途を呪ったくせに、清二は厚顔にもまた話しを蒸し返していた。

 遠縁の一人が話し終わると、待っていたように別の者が話し出した。その話しが済むと、またすぐに別の者が後を引き継いだ。話しの内容はどれも同じで、清二に追従した内容だった。

 しをりは途中一度口を挟もうとしたが、すぐに諦めてしまって、由香里と顔を見合わせた。その態度には余裕があった。二人はすっかり呆れかえっていた。

 ようやく茶番がすんだ。

 清二がしをりに向き直った。

「しをりさん。聞いての通りだ。皆はこの一年、黙って会社を見守ってきたが、やはり心配になって、意見を言う気になったんだな。そして、どうやら皆の意見は、俺と変わらないようだ。俺を取締役にすべきだということだ。有難いことに、こんな俺がいいと言ってくれるんだ。俺もここにいる皆も、社員でもなけりゃ、株主でもない。謂わばサポーターだ。榊の一族の会社を皆で盛り立てていこうっていう気持ちなんだよ。どうだろう、しをりさん。社員だ、株主だなんて堅苦しいことは、もういいっこなしだ。ここは一つ、一族皆の気持ちに報いてやる気にならないかね?」

 視線がしをりに集まった。

 彼女は、全く懲りない人達だと言わんばかりの目つきで皆を一瞥してから、言った。

「皆様のお気持ち、有難く受け止めます。ご期待に沿うよう、より一層真摯に経営に取り組んで参ります」

 頭を一つ下げた。

「が、お気持ちはお気持ちとして、このご意見は経営として受けられません。わが社は今経費削減に取り組んでいます。新卒の新入社員一人採用するにも、喧々諤々です。高い人件費はもっての他。幸い経常利益は前年を上回っています。今の経営陣がきちんと仕事をしている証拠です。ですから、今経営陣をいじる気は全くありません」

 と言い切った。

「ほお……」

 清二の目付きが鋭くなった。

「皆の善意を踏みにじる気なんだな。危なくなってからじゃ遅いんだぞ?」

「そうならないようにするばかりです」

「ふん。どこにそんな保証がある?」

「叔父様。サポーターはあくまでサポーター。プロじゃないのよ?」

 由香里が口を出した。

「サポーターが好きなチームのことを色々言うのは自由よ。でも、だからって、選手に替わってピッチに立てるわけないでしょ?」

「お前達は経営のプロだというのか?」

「はっきりそう言えるわ」

「身の程知らずめ! 後で吐いた唾を飲まねえようにしろよ」

 清二が本性を剥き出しにして吼えた。席をたつかと皆が見ていると、その気配がない。どうする積りなのかと思っていると、

「ところで幸雄さん。あんたなんかどう思うんだ?」

 清二の矛先が、いきなり幸雄に向けられた。

「私ですか?」

 自分に見解を求められたこと自体が幸雄は驚きだった。昨年の折には、清二は幸雄など全く眼中になかったのだ。

「私は社員ですが、役員ではないので、お答えできる立場にありませんよ」

 当たり障りのないことを言った。事実、幸雄は目下平社員だ。

「今はそうだろう。だが婿とはいえ、あんたも息子だ。いづれ偉くなり、役員になるよな? あんたには、あんたなりの考えもあるだろう。それを聞かせてほしい」

 なるほど、と幸雄は内心思った。ここまでの清二の攻勢には、昨年同様、全く決め手がなかった。性懲りもなく、一体どういう積りなのかと訝しかったが、そうか、揺さぶりをかけて、こちらの結束を乱す積りなのだ。用心しなければ。

「私は二年前に入社したばかりの、謂わば新入社員みたいなものです。今は一人前に仕事をこなせるようになることだけを考えていますよ」

「男の仲間が欲しくないか? 会社とは普通能力ある男がトップに立つべきもんだろうが。雌鳥に鬨をつくらせといて満足か?」

 清二は随分古めかしい考えを開陳した。

「雄でも雌でも、鬨をつくる力のある人がつくればいいんじゃないでしょうか?」

「本当にそう思っているかい?」

 清二の目が狡猾そうな光を帯びた。

「人に聞いた話しじゃ、あんたは待遇に不満なそうじゃないか?」

「えっ?」

「その気持ち、分かるよ。同じ男だからな」

「そんなことはありません。一体誰がそう言っているんですか?」

「それは言わないよ。言った人の会社生命に拘わるだろ?」

 暗に、ニュースソースは社内だと言っていた。

 ここに至って、幸雄は結局、清二の罠にはまったことを自覚した。

 清二は、若い経営者一族の結束に楔を打ち込もうというのだ。互いが信用できなくなれば、少人数の悲しさで、力を互いに殺しあい、結果共倒れする危険性が出てくる。疑われた幸雄は潔白を証明できぬまま、やむなく清二側につくかもしれない。幸雄が変節すれば、妻の由香里だって、考えを変えるかもしれない。そうなれば、孤立したしをりは会社を投げ出すかもしれない……。

 清二の狡猾なところは、幸雄の不満を人づてに知ったと言った点だ。発言内容が誤りだったと判明しても、嘘をついたことにはならない。伝聞ならそもそもニュースソースをうやむやにできる。

 確かに幸雄の立場は微妙だった。例えばこの席にしても、法事とは私人的側面が強いから、故人に最も近い親族として参席しているが、一歩会社に足を踏み入れれば、平社員として、山田、と呼び捨てにされるのだ。

 幸雄の旧姓は山田といった。幸雄は社内では旧姓を使用している。新米の若造が特別扱いされて増長し、半端者にならないようにという洸一郎の考えからだったが、男の旧姓使用は珍しい。洸一郎の死後一年経っても、幸雄の扱いは変わらなかった。そういう待遇を不満に思うだろうことは、傍目からは当然視されているだろう。清二の披露した伝聞は、皆を首肯させる現実味があった。

「全く根も葉もないことです。その人は多分企業小説の読みすぎでしょう。あなたにお話しする義務もないが、私自身が望んだことです。なぜなら私にはまだ修行が必要だ」

 幸雄は清二を睨み付けた。身内の二人の女性の方は一切見なかった。

 この時、しをりも由香里も幸雄の顔色を全く窺っていないだろうことは、確信できた。しをりも由香里も不快なものを見る目で、清二の顔を見ていることだろう。三人の間の固い信頼関係を彼は疑わなかった。

 清二はいやらしい笑いを浮かべた。

「ああ……まずかったかな。あんたにも世間体があるよな」

 その笑いが、丁度入室してきた人物を見て凍りついた。

 入ってきたのは、膳場だった。

「おや、清二さん。久し振りじゃないですか。元気そうだね」

「……うむ。洋平さんも変わらぬようだね」

 清二は口元を歪めて笑いをつくり、渋面を繕おうとしたが、成功していなかった。

「清二さん。あんた、まっとうに生きてる人達にちょっかいだしちゃあいけませんよ。あたしやあんたみたいなはみだし者は、邪魔にならないように、隅っこの方で大人しくしてなきゃいけねえんだ」

 けして大きくない声だったが、よく通った。鉈のような迫力を感じさせた。

「何を……」

 と、清二は言い返しかけたが、言葉に力がなかった。

 それで、皆の目が今度は清二に集まった。

 清二は吊り上げかけた眦を和らげると、苦笑いをつくりながら、ポリポリと頬を掻いた。

「あんたにはかなわないな……洋平さん。俺は心配しただけだよ。決めるのは、しをりさん達だよ。今すぐ結論がでるなんて思っちゃいないしな」

 清二はしをりを向いた。

「さてと――そういうわけだ。そろそろ失礼しよう。今の話しは、時間がある時に考えといてくれ」

 清二が立つと、提灯持ちをした人達も立ち上がった。かなり纏まった数が一度に帰ることになり、清二は最低限の体面を保つことができた。

「迎えに参りました」

 膳場はしをりに話し掛けた。周りを意識して、しをりに殊更丁寧な言葉を使った。

 膳場は受付に控えていたが、元々先に退出するしをりを家に送ることになっていた。幸雄夫婦は最後まで残り、後始末をすることになっていた。

 しをりが立ち上がると、大方が退席の支度を始めた。挨拶を交わす声が方々であがった。

「幸雄さん、またすぐ戻りますよ」

 出際に、膳場が幸雄にそう声をかけた。

「はい。お願いします」

 その後、由香里はここで着替えて、取引先へ向かう手筈になっていた。一人家に戻る幸雄のために、また膳場が来るのである。

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