榊物語

凩 光夫

第1話 プロローグ

 プロローグ


 霧が深くなってきた。

 先程まで濁った空に、洩らした血尿のように見えていた痩せた赭い月も今は見えない。

 榊老人は車の後部座席に背筋を伸ばし、うむ、と唸り、ステッキの柄を握りしめた。もう十年来愛用のものだ。老人の掌にすっかり馴染んでいる。

 三月半ばの空気は潤いを帯て生暖かく、そのせいか、榊老人はもっと弾力のあるものを手にしたくなったようだ。老人は辺りの景色を見遣った。

「停めろ」と老人は運転手に言った。

「はい 」

 運転をしている若い女の張りのある声が返ってきて、ゆっくりと車が停まった。人気のない、枯草の茂る崖に面した山道だった。

 サイドブレーキを引くと、女は、何も言わずに車の外へ出た。

 制帽を座席へ投げ、黒いミニのワンピースの背に手を回すと、いっきにファスナーを引き下ろした。服の下には何も着けていない。落としたワンピースからローヒールを履いた足を抜きとると、後部ドアを開けて、老人の横に乗り込んできた。

 ヘッドライトの灯りが霧に反射する薄明かりの中で、女の身体は幽霊のように青白かったが、 膚は生々しく息づいていた。

 老人は薄い恥毛の下へ指を差し入れた。

 女体がぴくっと跳ねた。老人の想像通り、滴る程に潤んでいた。女はとっくにこのことを予想していたのだ

 女は前部座席の背もたれの間に上半身を斜めに差し入れ、片手を座席につき、片手で背もたれを握り、後部座席に残した尻を高く持ち上げた。

 榊老人は着物の前をはだけ、越中褌を緩めると、何の前戯もなくいきなりそそりたったものを挿入した。

「あああ!」垂れていた女の首が反り返った。

 この女には前戯が必要ない。こいつはいつもそうだ――と榊老人は思った。三度の飯よりセックスが好きな女――いつも布一枚を纏わせただけで、運転をさせている。

 榊老人自らが〝乗る〟以外に、 大事な取引先の幹部に車ごと使用させてやることもあった。客には事前にそれとなく匂わせておく。ビジネスの済んだ後は客次第ということだ。車に乗ったついでに女にも乗りたがる男はそれなりにいた。中には車を使わせてくれとリクエストしてくる者すらいた。無論取引先皆がそんなである訳ではない。むしろそうでないケースの方が一般的だ。そして当然そちらの方が交渉相手としては手強かった。そういう取引先のためにもう一台、男の運転手付きの車が用意してあった。

 榊老人はむっちりした尻の肉を両手で乱暴に握りしめた。小柄だが、唇が厚く、乳房と尻が大きい肉感的な体だ。逆に胴はきゅっと締っている。体を折り曲げているせいで更に膨れあがった尻を老人は叩いた。叩きながら果てた。

 最後の排出がゆっくりと尿道を出ていった感触を確かめると、榊老人はペニスをさっさと引き抜いた。自分でドアを開いて外へ出た。

 萎え始めたペニスを掴むと、崖下へ向けて放尿した。女運転手との行為の後放尿するのは常のことだった。消毒の意味がある。好色な女が、運転している以外の時、何をしているか分かったものではなかった。

 尿は闇と霧の中へすぐ姿を消し、時雨が降り出したような音だけが耳に届いた。

 いつの間にか前に回ってきた女が老人の傍らにしゃがんだ。老人がペニスを振って滴をきると、それを奪い取って口に含んだ。そうして精液と尿の滴と自分自身の愛液を舐めとるのが彼女の習いになっていた。

 だが、今夜の彼女の奉仕は過剰にすぎた。唇と舌、喉による本格的な刺激となり、老人は再び勃起した。

 女の髪を掴み、引き寄せ、反対に自身は腰を強く突き出し、最後は口中で果てた。

「ありがとうございました」

 老人のものを嚥下して、女は殊勝に言った。

 互いに身づくろいをし、車に乗り込んだ。

「発車します」と女が言った。

「うむ」と老人は唸っただけだった。

 後部座席に深く腰掛けて、体を弛緩させながら、榊老人は満足だった。

 まだまだ身体は元気だ。その証拠に、今だって二回放出できた。老人の密かな自慢は、毎日放出できることだった。昨夜も半世紀以上も遅く生まれた後妻相手に二度放出したのだ。妾だって二人いる。一人はこの女運転手だ。それぞれに満足させている筈だ。

 会社の業績も順調だ。後妻のしをりには商才がある。一人娘の由香里もそうだ。これで由香里に後継ぎが生まれれば、いうことはない。

 娘の亭主は――あの男なら、一日三回ぐらいは放出できそうだ。男の精力の源は性欲にあるのだから、それはまあいい。そのうえ男としての器量があれば更にいいのだが、そこはあまり期待していない。あいつは所詮種牡馬なのだ。そんな奴に事業を任すことは危険だ。なまっちろいくせに人あたりだけはいい。社内政治力だけで頭角を現しそうになったら放逐してやろう。そもそも由香里が最初に連れてきた時から、気にくわない奴だったのだ。

「旦那様、母屋に着けますか?」

 女の問いに、老人は我に返った。本宅へ帰るのか、それとももう一人の妾、小百合を囲ってある妾宅へ行くのかと訊いているのだ。

「自宅だ」

「はい」

 考えてみれば、榊老人を取り巻く女達は、皆名前に〝り〟の字が付いた。しをり、由香里、小百合、この運転手も麻里だ。初めて名前を聞いた時は、えっ、アサリ? と貝を連想して、訊き直してしまった。変わった名だ。亡くなった先妻の名は、〝り〟では終らなかったが、桐子という名で、やはり〝り〟を含んでいた。更に想い起こせば、老人の母は、リツといい、やはり〝り〟の字があった。

 ふん、当家は潤沢な〝利〟に恵まれているのだ――と榊老人は心中うそぶいた。


 それにしても逞しい老人だ――

 麻里は口中にまだ残る精液を舌で粘らせながら、バックミラーの中の榊老人を一瞥した。老人は目を瞑っていた。

 もしこの老人が亡くなったら、自分は居場所がなくなる――

 麻里はこれ迄幾度となく反復して考えてきたことを、また考えた。

 本妻のしをりなら、こんな心配はないだろう。困るのは自分と小百合だ。老人が亡くなれば、しをりは直ちに自分に暇を出すだろう。そうなれば、職を探さねばならない。小百合は社員ではないので、馘になることはないが、職のない彼女はすぐに生活に窮するだろう。今囲われている宅は、彼女の名義になっているのだろうか?

 自分は馘になること自体は別に怖くはない。麻里は女ながら自動車の国際A級ライセンスを持っている。取敢えず何処かへ潜り込むことはできるだろう。ちゃんとした職はそれからじっくり探せばいい。

 問題は性欲だ。

 麻里は自分が男なしでは一日もいられない女だということを自覚している。 しかしこればかりは、都合よくおいそれと好ましい相手が見つけられるわけではない。過去の経験から言うと、男が絡むと途端に話がややこしくなる。絶対にいなくてはならないが、剣呑なのも男だ。

 とにかく今は危ういバランスの上にあるが、不安定さは常に意識させられている。

 他ならぬ自分の存在こそが、勤務先の経営者の家庭の不安定要素になっているということは棚に上げて、麻里はそんな被害意識を持っていた。

 小百合には麻里のような特技はない。麻里は、小百合の卵形の顔を思い浮かべた。額の生え際のもやっとした産毛まで思い描くことができた。

 小百合と自分と、どちらが好色かといったら、きっとどっちもどっちだ。だが、小百合には男を骨抜きにして、のめりこませる魔力がある。男に寄生しなければ生きられないくせに、自分から寄生してほしいと寄ってくる男が後を絶たないのだ。

 それなら、あまり小百合は心配いらないのかもしれない。それにひきかえ、自分は厄介だ。どうしたって、老人には長生きしてもらわなくては!

 それに、自分は老人に情が移っているし、尊敬もしている。小百合なら、人間として男として、老人を尊敬してはいないだろう……。

 ふいに霧を抜けた。

 上向きのヘッドライトに、夜道が白々と浮かんでいた。全く唐突だった。風向きや地形など複雑な要素が絡むのだろう。

 いいぞ――と麻里は内心で呟いた。

 目前にヘアピンカーブが迫っていた。車どうし擦れ違うことも出来ないような道幅――通い慣れたルート上の一番の難所だ。だが、何も特別なことはない。霧は霽れた。対向車もない。半ば無意識に、流れるような動作でギヤを落としていく。いつものように平常心で彼女はそこへ侵入していった。

 タイヤが砂利を弾いたようだ。床に当たるガツンという音がした。

 その音に被さって、その時麻里は呻き声を聞いたような気がした。車は丁度急な弧を描く動きの最中にあった。バックミラーを見て後を確かめるのは後回しになった。

 ドサッと音がして、車内で荷が崩れたような振動があった

 麻里はようやくバックミラーを見た。

 老人の姿が消えていた。

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