我が文学部の無縁な葛藤
その風景は、この世のものとは思えないほど、情緒的で、神秘的で、幻想的なものだった。白と灰と青。それだけ。
学校から歩いて20分、引っ張られるようにして来た光村と引っ張った私は満開の真っ白なクチナシが咲く、小高い丘の公園にいる。
灰色の雨の中、灰色のベンチに真っ青な傘をさした部長の背中が見える。真っ白に囲まれた公園の中、灰色の降る中私たちだけがそこに立っている。
私たちのほうを振り向きもせずに、部長が独り言のようにつぶやく。雨の音にかき消されてほとんど消えてしまいそうな、微かな音で部長が話す。
「分かってくれると思ってたよ」
「部長の、後輩ですから」
部長が教えてくれたことだ。だから、ここに居る。
「まだ、なんですか」
「ああ、まだだ。これまでも見られなかったし、今日も見られないかもしれない。見られても、何の意味もないかもしれない」
私の隣に光村がいることを察したのだろう。そしておそらく、彼が何も聞かされずにここに居ることを察している。部長は、背中で微かに笑って続ける。
「海翔君には説明をしていないのかい」
「はい。思いついて、行かなきゃって思って。すぐに来たので。」
「さやか君らしいね。それが君の美徳の一つでもある。どれ。待っている間に、クエスチョンマークをその顔面に張り付けているであろう海翔君にネタ晴らしをしようか。さやか君にも、話していないことがたくさんあるしね」
光村は、何か言いたげだが我慢して黙ってくれている。その心配りが嬉しかった。
部長が口を開くのを待つ。雨が、地面を叩く音だけが聞こえる。
私たちは待っている。
犯人の告白を。
探偵の推理パートでも、トリックの種明かしでもなく、全てを知っている、いや、最初から全てを知っていた人間の告白を。
「さて、どこから話すべきなんだろうね。まずは、私たちがここに居る理由から話そうか。
理由は単純だ。
詩の中に描かれている風景が、つまり私の母が金の雨をみたのがここだからだ」
「一から九まで言うことはない」
あの時、企画書と一緒に贈られてきた部長の言葉。
あの詩の、第1連と第2連には、全ての行に数字が隠されていた。
数字といっても数字の音だ。いち、に、さん、し。
一生会えぬ君なれど、から、君は凍った息を吐く、まで、1から9までの数字を含んだ、数字で韻を踏むような技法を伴った詩。そして、言うことはないのなら、ここはおそらく重要ではない。
大事なのは、次の文章だ。九の後の次の文。
【止むな春雨 紅い雨 遠い君まで喜び運べ】
【喜びを運ぶ】
文学部に入部した後、10か国語の花言葉を調べたうちの一つだ。
それは、クチナシの花言葉。他の言葉は、【洗練】、【とても幸せです】。
この公園が、梅雨の時期にクチナシが見ごろになることも、入部当初に部長に命じられて、訳も分からずやった学校付近の植生調査で知っていた。
この公園のクチナシが梅雨のせいで殆ど花が落ちてしまうことも、知っていた。花を散らす雨が降ることも、それを紅雨と呼ぶことも知っていた。
すべて、文学部の活動が、部長が教えてくれたことだった。春先、息を切らしながら調査のために公園まで走り、くたくたのまま部室に着いた私に対して、ペットボトルの水を差しだしながら、優しく微笑みながら教えてくれたことだった。
「クチナシの花言葉を知っているかい?」と。
「母は高3の春、母親、私から見たら祖母にあたるね、そういう人を亡くした。後で父から聞いた話だが、それまで母は父親とうまくいっていなかった。母だけが、自分の家族だった。結婚した後、父にそう表現するほど、母にとって母親は大きな存在だった。だから、私は母方の親族に会ったことがないんだ。今まで、母が死んでからもずっとね。
話が逸れたね。母はふさぎ込んで、クチナシが咲くこの公園に入り浸った。何も言いたくなかったし、何も聞きたくなかったのだろう。進路も、父親も、部活も、全てがどうでもよくなったのかもしれない。それこそ、死んだ母親と同じ存在になりたかったのかもしれないね。なぜなら」
「死人に口無し、だからですか?」
「先輩の渾身のギャグを潰さないでくれよ。まあ、そういうことだ。
そして、うっとうしい雨が体を打つ公園で、その時、母は見たんだ、金の雨を。それがなんだかは分からない。それの何が母を動かしたのかも分からない。でも、母はどうしてもそれを詩で表現したくなって、そして誰かに伝えたくなった。凝った謎かけまでしたその詩は、こうして今まで残っている」
笑ったように話す部長。ここからはその顔は見えない。多分、あの時と同じ顔をしているのだろう。全てを知っている、全てが自分の中で完結している、人間の顔を。
「なんで」
それまで、黙っていた光村が口を開く。
「なんで部長は、この詩がお母さまが作ったって知ってるんですか」
「いい質問だね。次に私が話そうと思っている部分でもある。
それは、母が遺した形見の一つだからだ。しかし、ここで見た景色を、苦労して詩にしたこの風景を、母のなぞ解きを説いた人物は誰もいなかった。父もそうだ」
君たちを除いてね。また笑う。ただ、喉と表情筋を震わすだけの、機械的な運動。それから生じる機械的な音。
部長が出す音は、日本語だったが音だった。けっして、声と呼べるような人間味のある、感情の伴ったものではなかった。
「父は文学部の後輩でね。とても一途だったし、母の事も理解しようとした。でも、親族を失った他人の気持ちなど理解できるはずもない。それでも父は理解しようとした。わざわざ、手書きで詩集を書き写してその意味を理解しようとしたし、学生時代は時間があれば常に母の詩を広げては、その景色を探してあちらこちらを歩き回っていたらしい。そりゃ、あそこまでページが痛むわけだよ」
部室で見つけた詩集と、豊橋先生の詩集。最も大きな点は、記録の方法だった。私たちが見つけたものは万年筆のようなインクで、先生のものは印刷機のインクで、その文字が形作られていた。思えば、その頃には印刷機はある程度普及しているのだ。わざわざ、手書きで詩集を作るなんてことはしない。
つまり、私たちが見つけた詩集は、先輩のお父様が書き写したコピーだったわけだ。奥付やあとがきは、書き忘れたのかもしれない。必要ないと思ったのかもしれない。お母さまの詩だけがあればよいと。たぶん、後者だろう。
「結局思いを告げれぬまま母は卒業し、失意のままその写本は本棚の奥に封印したらしいが、地震はそれすら掘り起こしてしまうものだね。いや、それすら運命なのかもしれない。その運命は、大学時代に父と母を引き合わせて、私をこうしてここに在らせる」
「まあ、とにかく、父はそれをとても悔いていた。この詩の意味が理解できなかったことに対して苦しんでいた。一人娘を一人で養っていかなくてはいけない重圧に耐えながら、接待でボロボロに酔って玄関に寝転んでは、うわごとのように繰り返していた。心配して父の顔を覗き込む一人娘に、これはお母さんが作った詩なんだよと、涙ながらに聞かせながら、父はそれだけを悔いていた。その癖、私にはろくに詩の説明をしなかったんだから始末に負えない。私はそれが、母がいつ、どんな時に作った詩なのかすら知らなかったんだ。本当に、独占欲の強い父だと、我が親ながら感心せざるを得ないね。
だからこそだ。それが、自分の高校の部室の段ボールの中から出てきたときには、驚きを通り越して運命だと思ったね」
「じゃあ」
「そうだね。私は先生に詩集を見せてもらう前から、詩の全文を知っていた。知っているどころか、そらんじることすらできたよ。でもね」
そこまで言って、ようやく部長は私たちのほうを振り返った。真っ赤に腫らした目が痛々しい。だがその目は、私たちに何を語るわけでもない。多分、私たちを見てもいなかった。
どれくらい、ここにいたのだろうか。ひとりで、ここでいたのだろうか。
「この詩を理解することはできていない。自分が見た景色を、誰かに理解してほしかったのに、わざわざ謎かけを用意した母の気持ちが、ただの五月雨が金の雨に見えた母の気持ちがこれっぽっちも理解できていないんだ。
さやか君。この前話した相対的言語論を憶えているかい?」
「…言語が思考に影響を与える、ですよね」
「そう。私は、母の言語にも、思考にも至ることができなかった。だとしたら、どうすれば母を理解できる?母が見たこの五月雨も、私にとってはただの雨だ。日本語が持つ300の雨の表現のうちの一つすら、用いようとも思えない。ただの一つの自然現象だ」
「だから、せめて、母が謎かけをした時の気持ちだけでも、理解しようと思った。
謎かけをするには、それを解く人が必要だ。探偵だけでは、推理小説が成立しないように。
母の謎かけを説いた人間がいないように、私の謎かけも誰も解けないと思っていた」
部長は、改めて私たちの目を見る。私が向き合っているのは、部長なのかも確信が持てない。部長の目からは、何の気持ちも、言いたいことも伝わってこない。
「だからこうして、君たちが私の前に顕れてくれたことがこんなにも嬉しい。私がいなくなっても、文学部は安泰だね」
ここまで黙って聞いていた光村が、唐突に口を開く。
「それで部長は、お母さまの気持ちを理解できそうですか?」
「ここまで聞いて、それを問うとは海翔君も人が悪いな」
自嘲的に呟いた部長は、私たちから視線を外す。公園の側の、クチナシの植え込みを眺めながら一人ごちる。
「他人の気持ちを理解することなどできない。恋人であっても、家族であっても。自分だけの表現によって、自分の世界が作られて、それに対してどう感じるか。頭の中の電気信号は、それによってしか世界を知覚してはくれないんだ。他人の電気信号が入り込む隙間なんて、1.5㎏の脳内にも、80年の人生にも残っちゃいないのさ」
詭弁だ。
我慢ならなかった。それは、今までこの世の不平を、不思議を鮮やかに暴き続けた部長の姿ではなかった。この世に残る疑念の全てを洗い出し、日の下に曝さなければ気が済まない部長の姿ではなかった。私が憧れ、焦がれた部長の姿ではなかった。
ただ一つの不理解につまずき、挫折し、そして諦めた人間の姿しか、そこにはなかった。過去にとらわれ、自分で何かを感じることもしない。共感も理解も放棄した、一つの弱い人の姿しか、そこにはなかった。
そう思うと、居てもたってもいられなかった。自然と口が動いていた。目は真っすぐに部長を捉え、手足は今にも動き出しそうだった。
「でも、理解しようとすることはできます」
「光村だって、私や部長を心配してこうして文学部の活動を続けてくれている。
部長だって、お母さまの気持ちを理解しようと思って、こうして私たちと話している。
それだけで、十分じゃないんですか」
何を言えばいいのだろう。なにを伝えれば、もとの部長に戻ってくれるだろう。
「それはエゴだよ」
いいや違う。エゴじゃない。
「筆者が意図した読み方しか期待しないような詩のほうがよっぽどエゴスティックです。
豊橋先生も、部長も、部長のお父様も、お母さまの詩に対してそれぞれ意味を与えている。
自分の言葉で、自分の人生の中で、必死に理解しようとしている」
「相手を理解しようとするからこそ、新しく言葉を紡ごうと思うんじゃないですか。自分が持ってないものに苦しみながら、それでも何かを生み出そうとする」
「私には、部長を表す言葉が足りません。雄弁、自分勝手、思慮深い、尊大、理知的、きれい。可愛い。どんなに言葉を憶えても、新しい部長の一面を知るたびに、足りないって思うんです。だから、知りたいって思えるんです」
私は先輩を知りたいって思ってたんだ。言葉にしてようやく気付く。
言語が思考に影響を与える。なかなか悪くないじゃないか。これまで私が言ったことすべてが、私が今まで考えていたことだったんだ。
私が部長に伝えたいことだったんだ。そう思うと、言葉が溢れて止まらなかった。
「豊橋先生、部長の事を心配してました。なんだか、あの時の部長さんと雰囲気が似てるって。一人で抱え込んで、一人で考えて、一人で詩を作ってるって」
公園に来る前、豊橋先生を訊ねて知ったことだった。先輩のお母さまは、いつも部室の端の、ちょうどいつも先輩が座っている椅子に座って、一人で詩を書いていたそうだ。完成した詩しか発表をしない。それについて誰かが意見を言っても、絶対に書き換えることはない。あの子の世界は、きっと完結してたのね。先生はそう言っていた。
「イヌイットも日本人も、最初から何十何百のことばを持っていたわけじゃない。そうじゃなくて、誰かと雪とか、雨について語り合う中で、少しずつことばを増やしていったとおもんです。だから、部長も一人で抱え込まないでください。みえてるもの、みたいもの、興味を持てるもの、少しでもいいから、私たちに教えてください。
それが、文学じゃないんですか」
言い切った私は、微かに息を荒げながら、部長の言葉を待った。
驚いたように私の話を聞いていた部長は、私の荒い息を聞いて、ほんのすこしだけその頬を緩めたように見えた。それが、私のせいなのか、部長のなかで何かが変わってくれたおかげなのかは分からない。分かるはずもない。分からなくていい。
「一人で、か。その通りだな」
「さやか君にここまで言われてしまうとは、まったくもって部長失格だ。
失格ついでに、二人に頼みがあるんだが」
部長の目には、以前のような光が戻りかけていた。その光は、部長が新しいことを思い付いた時に生まれるもので、私はその光が好きだったから、ただただそれが嬉しかった。その眼もとに微かに残る水滴が、私にそう見せたのかもしれない。
「「なんですか?」」
声が重なる。光村と顔を見合わせて、苦笑する。多分、傘の向こうの部長も、笑ってくれてたと思う。照れるように深く傘を差しなおした部長は、聞こえるか聞こえないかくらいの微かな声で、すがるように私たちに話しかける。
「今から、見えるものの感想を教えてほしい。今度は、私もちゃんと話すから」
そう言って、部長は持っていた藍色の傘を地面に落とした。それを合図としたみたいに、じとじととした雨が弱くなっていく。それと共に、雲間から、オレンジの光が差し込んでくる。
すげえ。隣でそう呟くのが聞こえる。
なに、気象衛星とTVのニュースのなせる業さ。少しだけ雨に濡れながら部長は微笑んで、私たちを見つめる。その微笑は、息をのむほど美しかった。
何かが変わったかもしれないし、なにもかわっていないかもしれない。
部長のお母さまの詩の謎は、金の雨の謎は解けていないままだし、死んだ人が戻ってくることもない。
梅雨は変わらずそこに在るし、私はまだまだ生きている。部長もこれから生きていく。分かり合えぬまま生きていく。
それでも。
雨がとうとう弱くなる。3人がたたずむ夕暮れの丘に、微かに残った雨が落ちている。雲の端に引っかかった雨と夕日の光が、一緒にここまで落ちてくる。そうして私たちを柔らかく包む。先ほどまで淀んでいたクチナシの白色が、夕焼けの空よりも眩しく感じる。
「さあ、どうだい」
少し涙ぐんだような声だった。私たちは互いに顔を見合わせながら、誤魔化すように笑いあった。見えてるものが同じかなんて分からない。感じてることも、きっと違う。
でも、この瞬間、私たち3人はきっと同じことを思ってたんだと思う。
高城、合図してくれよ。なんの。感想に決まってるだろう。え、みんな一緒に言うんですか。そのほうが、なんか青春ぽいじゃん。部長、青春ってガラでもないんじゃないですか。失敬な、これでも花の18歳だぞ。表現が古いっすよ。古いとか、冗談がきついぞ海翔君、え、冗談だよな…?
何事もなかったようにふざけ合いながら、私たちはなんとはなしに、そろって夕日に向かい合う。薄い五月雨越しに見える、温かい金色に向かいあう。その眩しさに、目を細め合う。
じゃあ。行きますよ。せーの。
ああ。そうだ。
この景色は。五月雨は。夕焼けは。茜色に染まった空は。クチナシの白は。
部長の苦悩は。あの詩で歌った風景は。微かに滲んだ私の視界は。
「「「 」」」
すべて、文学だったに違いない。
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