番外 知恵を得た蛇

+++

 そこは薄暗い部屋だった。


 明かりや窓さえなく備え付けられた設備といえば小汚い便器のみである。


 所々剥がれて土が露出した石畳に座り込んでいると、鉄格子の向こう側に立つ2人の人間が視界の端に入った。


 「良かったなァ。勇者が来れば釈放だとよ」

 「……もう疑いが晴れているんだ。そっとしておいてやれ」

 「でもよぉ、こんな気持ち悪ぃ異常者を逃すなんて許されねえよな?」


 檻の中で退屈そうに座る囚人の男に、若い憲兵が嗜虐的な笑みを浮かべながら詰め寄り胸倉を掴む。

 

 「汚ねえな、オレの手が汚れたじゃねえか!」

 

 もう何日も服を取り替えていないと知った上で、憲兵は彼の服に触った瞬間に顔を顰めた。


 「来た時の威勢はどうしたよ。ペラペラ喋ってたじゃねえか、おらッ!」


 空いた方の手で拳を握り、囚人の頬を勢いよく殴りつける。


 抵抗する様子もまるでなく、男は衝撃を受けた反動で仰向けに倒れ込んだ。


 ――勇者の干渉を避ける為、わざわざ王都から離れた場所にアモンを送った。しかし、待てど暮らせど連絡が来ない。


 「なんだこいつ……死んでんのか?」


 ――次の手。

   

   勇者が同士討ちできるのであれば容易に事が進められたが、そんな目に見えた危険性を放置する可能性はかなり低い。


   それ故、彼らには互いを殺せないといった制限を設けていると考えるのが妥当だろうか。だからこそ利用価値が大いにあった。


   間者を使って王を嗾け、民衆を煽り、城に籠りきりだという聖杯の勇者・ハイルを動かした。


 「……解せないですね」


 数秒が経ち、何事もなかったように囚人が体を起こした。

 

 ――勇者が凶行に走れば、少なからずこの場所にも被害が及ぶはずだ。


   観衆が温かく見守る公で、若しくはその場での処刑か。どちらにせよに終わったはずなのに。


 「お、お前ッ……なに睨んでんだよ」


 実際のところ、グリンプスであった。


 だが若い憲兵はグレアーと感じ取った。


 本来灯すはずのない不気味な、粘着性のある無機質の目が彼の身体を濡らした。


 「こっちに来いよッ! 殺してやるッ!」


 ――吉報が訪れない。不思議だ。何か引っ掛かる。


 「クソ野郎がッ! 早くこっちにッ――」

 「……あぁ。もう茶番ゲネラスプローべは終わっています」


 囚人が罅割れた唇を動かすのと、若い憲兵の首が飛ぶのはその前後が分からない程に僅差であった。


 「――え」


 瞳孔を目一杯開いた憲兵が最後に見た景色。それは表情なく右隣に立っていた中年の憲兵だった。


 左手の爪が不自然に伸びており、何故か人の血液が付着している。


 「それ、オレの血だ」


 声帯が切り離されたので、彼の辞世の句は言葉として世に出ることなく頭の中で反響しただけであった。


 「こちらに滞在する必要がなくなりました。出ましょうか、イプシロン」

 「はい」


 今し方目の前で起こった惨状を気にも留めず、囚人の男は徐に立ち上がった。


 男の提案に中年の憲兵が頷くと、懐から鍵を取り出し牢屋の錠を外した。


 囚人と憲兵を隔てる鉄格子が軋む音を立てて、いとも容易く開く。


 「しかし、よかったのですかな」

 「何か気になることでも?」

 「……もう少し待てば、こうして痕跡を残さずとも出られたでしょうに」


 中年の憲兵――イプシロンは転がった残骸について問う。


 しかし囚人は首を傾げたのも幾ばくかで、すぐに元あった位置に戻し、代わりに顔に喜色を浮かべた。


 「ふふ、私に賛同してもらえたようで何よりです」


 狭い通路を歩く最中、突然意味の分からない文言を唱えられてイプシロンは困惑せざるを得ない。


 これには流石の彼でも思い当たる節があったのか、堪えきれないとばかりに失笑を漏らして意図を説明した。


 「アナタは私が罰を受けるのを憂い、しかし彼を救済したことに疑問を抱いているのでしょう? でしたら問題ありません」


 それが何の説明にもなっていないと、囚人は気づいていない。


 依然として饒舌に、溌剌とした表情で彼が続けた。


 「善行を為すのに人数制限が必要でしょうか。1人も2人も変わりませんよ。多いほど善いに決まっています」


 彼らが進む通路の両端には雑居房がある。そこには1部屋につき3人、アドルファ派の元魔導騎士団員達が収監されていた。


 「嗚呼……全知神様、御慈悲を」

 「我らに救いの手を……」

 「敬虔な祈りを捧げ続けていれば、いつか全知神様が応えて下さるでしょう」

 

 青褪めた表情で嘱する元魔導騎士団員達に男が声を掛ける。


 「そうでなければ、自ら天上に行ってみるというのも一つの手でしょう」

 「……我々がそこへ行けるはずがないだろう」

 「案ずることはありません。アナタ方が大義の為に沢山の血を流したことを全知神様はご承知のはずです。『万物を識り、全能に非ず。狡知識りこそすれ其れを咎めず』でしょう?」

 

 男がそう諭すと、檻の中の彼らは涙を流した。


 「ああ……そうだ。きっとそうだ……」

 「ありがとう……ありがとう……」

 「とんでもない。さあ、今こそ天へ向かう時が来ました! 祖国のへいわの為、愚かな侵略者からのれいじゅうを斥ける為、ちからを結集し、アナタ方が使者として神をお迎えするのです!」


 男が発した直後、どこからともなく歓声が上がった。それはまるで水面に広がる波紋のように次々と伝播し、ついには檻を揺らす。


 「……」

 「ふふ、不満げにされても困ります。これはアドルファへの正当な報酬なのですから」

 「……まさか。感心しているのです。貴殿は実に素晴らしい考えをお持ちのようだ」


 イプシロンは努めて平静を装い、男を讃えた。


 鳴り止まない狂喜に後を押されて囚人と憲兵が進む。


 やがて石畳の床に、同じ石材を用いて作られた大きな円形の支柱が等間隔に並ぶ広間に出た。


 ここを抜けると出口の階段へと繋がる。


 「おや、どうしたのですかな」


 しかし、広間に足を踏み入れた途端に男の足が止まった。


 見兼ねてイプシロンが声を掛けると、彼は顔をぐしゃりと歪める。


 「臭い……臭いですね」


 男の言葉を聞き、イプシロンは理解する。


 「姦淫の臭いだ。悍ましい。悍ましい。悍ましい」

 

 呪文のように繰り返す囚人の男。切れ長の眼が殊更大きく吊り上がった。


 そして、血相を変えて広間の一角を睨んだ。


 「粛清しなくては」


 

 +++

 一難去ってまた一難。オーキッドの街で魔族の撃退に成功した杖の勇者・ホノカに待っていたのは、空想した甘い生活とは余りにもかけ離れたものであった。


 スプルース王が崩御し、国がまだ混乱している故にまともな報酬も貰えず、押し寄せる異形を1匹たりとも相手取っていないのにも拘わらず精神病を抱えた剣の勇者・レイヤを介抱する毎日。


 自身も元いた世界で同じような症状を患ったことがある為、その気持ちが痛いほど分かる。だからこそ強くは言えない。


 しかし彼の前で気丈に振る舞えば振る舞う程、彼がいない時に苛立ちが山積してゆく。


 そんな不安定な時期に舞い込んできたのが1ヶ月以上も前に捕縛した者が誤りであったという報せだった。


 レイヤは今外出できる状態でない。


 仕方なくホノカは1人で元犯人の顔を確認しに向かった。


 幸いここは何かと自分に都合の良い異世界だ。失態を犯したのは間違いないが、国が後で有耶無耶にしてくれるだろう。


 犯人が逆上すれば尚良い。杖の勇者としての力を遺憾なく発揮し、暴行犯だと再逮捕すれば万々歳だ。


 そう自分に言い聞かせてホノカは階段を降りた。


 (何なのよ……普通迎えに来るでしょ。現地集合とかありえなくない?)


 冤罪を報せに家まで来た憲兵との会話を思い出し、また腹が立つ。


 (ま、てきとーにやって帰ろっと)


 沸々と込み上げる怒りをどうにか抑え、広間に出たホノカ。


 (……え。寒っ)


 不意に強烈な寒気を感じた。外で吹いた冷風が地下まで送り届けられているのだろうか。


 だが。


 それが錯謬だと気づくのにそう時間は要さなかった。


 身体に纏わりつくようなこの冷たい感覚を、ホノカは久しく感じていなかった。


 直後、広間の奥で異常な雄叫びが連鎖する。


 賛美を受けた軽やかな足音が聞こえる。


 (やばいやばいやばいっ!)

 

 ホノカは咄嗟に円柱の裏に隠れた。


 額から冷や汗が引っ切りなしに流れる。


 肩甲骨辺りまで伸びた、碌に手入れもしていない小汚い白髪。痩せこけた頬に色白の肌。


 囚人服を着たその男からは嫌悪感や不快感よりも先立って感じるものがあった。


 ――恐怖。


 この感覚、身体の芯が凍る寒さをホノカは知っている。


 元いた世界で浮気だか不倫だかを理由に激昂して、自分を執拗に切り刻んだ彼氏。それと同質のものであった。


 アレに関わってはいけない。


 本能から来る直感を得て、ホノカは男が通り過ぎるのを待った。


 しかし、あろうことか男は突然立ち止まった。


 「臭い……臭いですね」


 聞こえる。


 「姦淫の臭いだ」


 直感よりも優先される。


 「悍ましい悍ましい悍ましい」


 彼女の存在理由を根本から否定する呪文が。


 「ふざけんな……こっちは生きる為にやってたんだよ……」


 世間から忌避される金の稼ぎ方。だが同時にいつの時代も必要とされてきた仕事だ。

 

 彼女は生活を続ける為に、周りと合わせる為に、自分という存在を認めてもらう為に必死だったのだ。


 「わたしだけじゃない。みんなもやってた」


 なんでわたしだけが否定されるの?


 泣いた日もあったのに。ここではもうやってないのに。終わったのに。


 それを見ず知らずの醜悪な男が否定する。


 堪らずホノカは、柱の影から飛び出した。


 「消えろ!」


 携えた杖を男に向ける。


 昔の搾取される自分とは違う。


 思い描くだけで世界を簡単に覆せる夢のような力を手に入れた。


 魔力を集め、拳大の炎を造り出す。


 そうして放った魔法は、男の目の前で消えてなくなった。




 魔導騎士団員は当然ながら魔法の扱いに於いて一級品である。


 更に魔法を高い水準で使役できるのが魔導の分野を担うアドルファだ。


 そんな彼女を筆頭に結成された師団であるからして、やはり他の団員も一線を画す能力がある。


 だからこそアドルファ派の魔導騎士団員を収監する際には魔法の規制が必須事項だ。


 今、この広間や奥の雑居房には夥しい数の防御魔法【結界】が施されていた。


 【結界】とは、外部から加わる一定以上の魔力を遮断する魔法だ。


 それが何百にも重なれば、必然、ホノカの放った魔法は機能しない。


 「……え。何で」

 「さて」


 たじろぐ杖の勇者とは対照的に、男には未だ焦る様子が見られなかった。


 「性別ですか。種族ですか。生まれですか。それとも世間へですか。どれでしょう?」


 悠長にも指折り数え、彼女に問うた。


 「どれの所為なのでしょうか」


 そして先程にも増して、男の表情が歪められる。


 先述した【結界】の術式構造であるが、男にとってはもう興味のないことであった。


 魔族に分類される者達は、本来ならば保有する魔力量の多さにより通ることすらできない。


 しかし魔力を使い、人を魔族に変えられる能力を持ったイプシロンであれば抜け道が存在した。


 外で魔力を、保有魔力を普通の人間の水準まで減らせる。


 あくまでも【結界】はその為に知識として身につけた。


 仮にホノカの魔法で男自身が焼死しようが何ら構う必要性がなかった。


 だが、過程はどうあれ男は生きてしまったのだから、それは善くないことだ。


 「個性。自分らしさ。多様性……」


 男が両手で顔を覆う。


 「あぁ……神はなんて残酷なことを仰るのでしょう」


 冷たい手のひらに埋めて、彼は思った。


 何だかな、と。


 またぶり返してしまったな、と。


 「マザーの為に生きましょう! さすればまほろばに逝け……あぁ。今は全知神でしたか。魔王様の為に逝きましょう! ……それは……誰でしたっけ、あの彼は」


 悲観が先行し、上手く言葉を出せないな、と。男は心の内で悟る。


 「まあ、いいでしょう。善行を積み直せるならば」


 一変、男の表情が無くなる。


 「イプシロン」


 彼は何度も杖を振るホノカを見た。


 一度の瞬き。


 次に目に映ったのは、ホノカの胸に大きな穴が空いている場面。


 開けたところより、尖った爪がにゅっと這い出た。


 「……ぁ」

 

 イプシロンが突き出した腕を引っ込めると、彼女の胸から大量の血が噴き出る。


 斯くしてホノカの身体を支えるものがなくなり、自重によって石畳の上に膝をついた。


 「何でわたしだけが……」

 「おや。それは悲しいです」


 前のめりに倒れ込む寸前の彼女の瞳に映ったのは、自明のことだが男である。


 ただしその顔は無表情でなく、満面の笑みであった。


 「煩わしさから解放されるのですよ。とても羨ましいです。ですが私には寸毫も悔しさもありません。……ああ、いえね。本当は少しばかり嫉妬しています。ですけれども私は不当に生きてしまっているので、例え罪を背負う身だとしても、こうしてアナタを救って差し上げました」


 


 動かなくなった杖の勇者・ホノカを眺めて男は言う。


 「……私も甘くなったのでしょうか」

 「救済を成し遂げたのですぞ。それも魔王様の怨敵である勇者をです。反省なぞ野暮でございます」


 イプシロンは相変わらずの平静を装って男を賛辞した。


 しかし、実のところ彼もホノカと同様に名状し難い悪寒に曝されていた。


 男と会うのはまだ片手で済む程度であるが、その異常性には既に気づいている。否、気づかない方がおかしい。


 だがこんなにも簡単に勇者を殺した存在。魔王様の崇高な思考の結果この男を選んだというのなら問題ないことだ。


 一方で、選択一つ誤れば自身もきっとこうなるに違いない。


 イプシロンはそんな本音を一瞬たりとも表に出さないよう奥歯を噛み締めた。


 「しかしながら、解せませんね」

 「……お聞きしてもよろしいでしょうかな?」


 斃れたホノカに興味をなくしたようで、男は視線を外して目を瞑る。


 次いでイプシロンが真意を尋ねた。


 「何だかどうにも上手くいかない。拙い策ではありますが、丹精に手を打ったのです」

 「いやはや、立派な功績を挙げられたと思いますが」

 「いえ、私の見立てでは今頃国を献上できたはずなのですよ」


 首を傾げる男の見立てとやらがただの虚勢や戯言に留まらないことをイプシロンは知っている。


 彼がそう発言するならば、事実このスプルース王国を蹂躙できていたはずなのであろう。


 「浅はかな人間どもに謀を巡らせている余裕があると?」

 「種の全体というよりは……今の有様を見るに一個人に手を焼いていると考えます」

 「ほうほう、なるほど。勇者の中に1人だけ小賢しい者がいるのですな」

 「勇者……確かに。そのようですね……」


 男は煮え切らない様子で頷き、目を開けた。


 「まあ、いずれ分かるでしょう。とにかく善行を為さねばなりません」

 「承知しました。して、次は誰をお救いになられるのですかな?」


 長らく立ち止まっていた男がようやく歩を進める。


 イプシロンはそんな彼に恭しく頭を下げた。


 「――金貨の勇者です。さあ、行きましょうか」


 凛冽たる風を迎え入れるかの如く、男は自ずから暗澹へと続く階段を上る。


 「是非とも私を滅して頂きますよ、魔王様」


 そう独りごちた男の名はナレッジ。


 魔王が擁する幹部。その参謀にして――人間である。

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冒険者ギルド職員はいそがしい 日野玄冬 @sux

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