第55話 静まり返る観客達①

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 ナキトに物心がついた頃にはもう、母親の姿がなかった。


 それはスプルース王国で生育する中では決して特殊な事例ではなく、ひた隠しにされるような出来事でもない。現に自我を認めた時より既に彼の中では納得していた事柄でもあった。


 しかし、父親や姉は自分にその詳細を頑なに語らなかった。


 無知な子どもである自分の母親が、十数年前の魔族の侵攻で命を落としたと正しく理解していたのだとしても。


 不憫だからなのか、残酷な世界を見せたくないと願ってなのか。どちらにせよ幼いナキトの反抗心を増長させるには十分な材料になり得た。


 どうして自分を蔑ろにする。


 子どもには関係ないから。大人の話だから。


 大人の勝手な裁量で線引きされ、その大人は自分のことを理解しようとさえもしない。


 だから、いつか自分が決定権を得られれば、必ず理解ある人になろうと――



 長い微睡の中にいたのか、瞼をゆっくりと持ち上げたナキトは違和感を感じられずにいた。


 無造作に放り出した足を落ちないように込めた手の力が伝わる。


 深く眠りやすいように気遣う歩調が、体を少し揺さぶる。


 目が覚めてナキトの目に飛び込んだのは、少し汚れた大きな背中であった。


 意識が芽生える前の時間。幼い頃に経験したはずの記憶が瞬時に蘇る。


 「……降ろしてくれ」


 懐かしさを覚える前に、ナキトの口がまるでそれを拒絶するように1人でに動いた。



 『始まりの森林』の中程。

 

 静かな夜に月が一つ浮かぶ。


 眠っていた少年が起きたことで、帰路に着く一行――オットーとホウリ、そして魔導騎士団団長、マレツグが足を止めた。


 「目が覚めたか」

 

 腰を屈める際、頬を僅かに緩めたマレツグをオットーはそれとなく眺めた。


 「……負けたのか」


 マレツグに一瞥もくれず、地に足をつけたナキトはただ俯いて事実の確認を行う。


 「ご丁寧に【結界】まで張られてね……惨敗よ」


 幾ら騎士団長といえども、王都からすぐに移動して彼らを助け出すことは不可能である。


 魔物が活動する夜にナキト達一行が無事であった理由がホウリの口唇より紡がれた。


 一方的に裏切り、嬲りに襲いかかって来たアドルファは、何故自分達を生かしたのか。


 それは疑問になるよりも早く、彼らに屈辱という癒えぬ傷を与えた。


 「すまなかった」


 深々と頭を下げるマレツグがずっと見窄らしく思える。


 「私の不手際で、君達を危険に曝したこと、こうして来るのが遅くなったこと……非常に申し訳ないと思って――」

 「うるせぇんだよ」


 怒りを湛えた目でナキトはマレツグを睨め付けた。


 「危険に曝した? 来るのが遅かった? 応援なんて頼んでねぇぞ」

 「ちょ――ナキト!」

 「勝手に逃げ道作って、オレらが弱えって決めつけて楽しいか? 自分のケツも拭けなかったヤツらを介抱して見下げてぇのかよ」

 「ナキト! 落ち着けって!」


 静かに憤怒するナキトを制止させるべく、オットーが割って入り軽く肩を小突いた。


 予期せぬ押し出しを受けたナキトであったが、後ろに1、2歩寄ろめいた程度で、威勢が一向に削がれる様子はない。怒りの矛先も依然としてマレツグに向けられたままだ。


 「被害妄想が過ぎるって。団長はそんなこと一言も言ってないだろ」

 「じゃあ王都の方がもっと大変な時に、態々ここまで何しに来たんだよ」

 「それは勿論ナキトを……」

 「オマエに聞いてねぇよ……なあ、アンタ、自分がしたことが分かってんのか?」


 理性的にそう吐き捨てるナキトにオットーは思わず気圧される。


 「相手に気遣われなきゃ死んでたオレらを『間に合わなかったけど全部捨てて助けに行きました』って、アンタを信じたヤツらに言えんのかよ!」


 命を懸けて仕事を為すのが冒険者だからこそ、当然彼らには危険が付き纏う。


 そんな冒険者達の業務を妨げる存在――己矜持を捨てさせるような施しを与える行為を、ナキトは嫌った。


 「なあ。もしここにオレがいなかったら、アンタは助けに来たのか」

 「……行かないだろう」

 「だろうな」


 マレツグはナキトから目を逸らし、自身の足元を見る。


 「ずっと無関係だったはずだろ。何でよりによって今……親みたいなことするんだよ」


 返す言葉もなくただ黙って我が子の主張を聞く中、ふと微かに震える声が耳に響いた。


 視線を戻せば、ナキトが目元に涙を溜めていた。


 情けないことに、たった今、マレツグはようやく息子の心情を察する。


 「そんなにオレが情けねえか……アンタの目がなかったら何もできねえって思ってんのかよ……」


 息子――ナキトが泣く姿を、もう10年見ていない。


 「悔しかった……のか」

 

 思えばナキトが誕生日に初めてねだったプレゼントは魔法の指南であった。


 ナキトは強くて聡い子。妻の最期を伝えれば、間違った方向に努力してしまうのではないか。


 自由になって欲しかった。


 家を出ていくと言った時も、マレツグと同じ魔導騎士団でなく冒険者になると言った時も、ナキトが自分の意志で選んだ道だからと何も言わなかった。


 それが縛り付けたが故の反抗だと、分からなかったのだ。


 「情けないのは、私の方だったな」


 マレツグは踵を返した。


 これ以上ナキトに負い目を感じさせるようなことはしたくなかった。


 「お前の母さん……シズホは冒険者だった。ナキト、お前が小さな頃にウィスタリアに魔族が侵攻したのは知っているな」

 「……なんだよ、急に」

 「シズホはその時に死んだ。魔族に腹を食い破られたそうだ」

 「……っ」

 「私はシズホを殺した魔族が憎くてな。この手で殺してやりたいと思った」


 マレツグはナキトに背を向けたまま、忌まわしい過去を語る。


 「だがシズホの仇……ダンタリオンは、私の実力では殺せなかったんだ。頭も力もなかった頃の私の汚点だ」

 「今更そんなこと言ったところで、アンタへの恨みは――」

 「ナキト。私……オレは、ここまで上り詰めたぞ」


 ナキトは自分と違って、妻に似たからか、口が上手いようだ。


 こんなに立派に、真っ直ぐに育った息子にだからこそ。


 家族の為になるのであれば、自らの行動理念を偽ることなど造作もない。


 「少しは成長しているかと見に来てみればこの体たらくとはな。こんなことなら国を守護していればと、心底思うぞ」

 「……クソ野郎がっ!」

 「時間の無駄だったようだ。……ではな」


 これがほんの少しでも贖罪になれば、歪めてしまった関係を正しくすることができるのだろうか。


 恐らくこの選択は間違ったものだとマレツグは理解している。


 しかし、際限のない魔族への復讐心を募らせるよりも余程良い。


 ナキトが。ナナが。


 終わりの見えない不幸を追いかけないように、健やかに育てるように――


 それがマレツグの願いであった。


 「――本当に、無事でよかった」


 押し隠したマレツグの本心は、ナキトの耳に届く前にそっと消えた。


 

 マレツグの背中が見えなくなると、黙って状況を見守っていたホウリが息を吐く。


 「……いいお父さんじゃないの」

 「喧嘩売ってんのか?」

 「これ以上傷を負ったらあんたも帰れないわよ」

 

 ナキトの低い声にホウリが毅然と言葉を返す。


 「それにあんたも分かってるでしょう。本当に見るべき相手は――」

 

 ホウリとオットーにとって、言ってしまえば親子喧嘩など関係のないことだ。


 魔物が襲って来る夜の中、この場に残り静観していたのには歴とした理由がある。


 それはナキトも重々自覚していた。


 「アドルファだろ」


 ナキトはマレツグと相対した時とは打って変わり、冷たい眼差しで森の奥を睨んだ。


 「ビビって武器を手放したよ」

 「あたしも似たようなものね。奥の手も全く効かなかったし」


 オットーが懺悔し、ホウリも倣って反省を口にした。


 「それで、あんたは? お父さんの見解と違ってなんの瑕疵もなかったのかしら?」

 「……っ」

 「金級冒険者のナキト。答えなさい」


 ホウリは敢えてナキトの傷口に塩を塗り込む。


 マレツグの口調に嘘があったとしても、文言に嘘はなかったと伝えなければならない。


 事実、ホウリ、オットー、そしてナキトはアドルファに手も足も出なかったのだ。


 「あんたはその失態を、どうやって返すの?」


 そうして今後のパーティの行く末をナキトに委ねる。


 今からのナキトの返答は、パーティの総意であると認識させた。


 ……。


 ややあって、ナキトがついに口を動かす。


 「――決まってんだろ。アドルファをぶっ潰す」

 「よし、のった」

 「オットー、次得物を落としたら容赦しねえからな」

 「お、おう。握力鍛えとく」


 オットーが喜びのあまり彼の肩を叩けば、直様辛辣な返しにたじろぐ。


 ホウリは自分の口角が自然と吊り上がったことに気づいた。


 「望むところよ。やってやろうじゃないの」


 無謀か、はたまた無理難題か。


 彼らと彼女の冒険は、まだ始まったばかりである。


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