第26話 回想・最下層の傭兵

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 饐えた匂いが辺りに漂っていた。


 身包みを剥がされた裸の死体に虻が血を枯渇させんと群がる。


 石畳みの上を千鳥足の酔っぱらいや、骨の浮き出た少年が酒を担いで通り過ぎた。


 よくある下層の日常。


 唯一光沢を放つのは、地面に直に置かれたラヂオと呼ばれるもの。


 精巧な機械であるそれは、幾ら盗まれ、分解され、闇市に出されようとも、気づけば同じ場所に真新しい状態で置かれている。


 無数に空いた穴から、まるで洞窟で話すかのようなくぐもった音で独り言をただ延々と吐き出す。


 『本日のお知らせです。イースタシアは――の――に大打撃を与えました。敵国――は、戦線の後退を余儀なくされた模様。その全てが我が国最高の指導者、マザーの御慧眼によるものです』


 歩道を往来する通行人が満足そうな表情を浮かべる。誰もが皆、指導者が与える自由という名の幸福を噛み締めているのだ。


 「……兄ちゃん、人間じゃないだろ? だったら商品は売れねえな。他所へ行ってくれ」


 そんな中でも、俺は流れ者であった。


 返答に窮する事柄へは曖昧に頷くしかない。


 「そうか」と呟き、踵を返す間にもまた1人、名も知らぬ誰かが路上でバタリと斃れた。


 直様気づいた他の人間が数人駆け寄り、息を引き取った彼の全身を弄った。


 何も出ないことを確認すると、まず金銭的価値のある衣服を剥ぎ、次に髪を引き千切る。手に入れた金で酒やギャンブル、各々の娯楽の為に懐を潤すのだ。


 死体が腐ってゆくと別の誰かが賃金を得る目的で片付ける。


 鋭利な石で遺体を裂いた男が舌打ちを1つ。羨望と嫉妬が綯い交ぜになった感情が表出して見えた。


 「こんなヤツがオレより先にまほろばへ逝けるのか。くそッ! くそッ!」


 激情に駆られ、本来高価で売れるはずの心臓に石を叩きつける。


 ぐちゃ、ぐちゃり。


 何故だかそれが咀嚼音に聞こえた。


 俺は鳴り続ける腹の音を両手で押さえ、堪らずその場に蹲った。


 もう金が底を尽きた。数日食事も摂っていない。


 外より栄養を補給しなければ、体の機能が徐々に朽ちていく。


 俺も朽ち果てればああなるのだろうか。


 視界が霞む。一度座り込んでしまえば幾分か楽になれど、手足が痺れを訴えるようになった。


 そんな時であった。


 背後より、不意に肩を叩かれ、反射的に振り返る。


 俺がその男に会うのは2度目だった。


 ――やはり――の方でありましたか。


 ――先が見えぬならば、いい仕事があります。


 自身で吟味して未来を選べる程、今の俺に余裕はなかった。


 ラヂオから先刻と変わらない割れた音が途切れて聞こえる。


 『先の作戦で――がまほろばへと旅立ちました。民を憂い、苦痛に苛まれながらも現世に敢えて留まる超常の指導者、マザーが讃えています。「彼は我が国の為に心血を注いでくれた。故にまほろばへと至ることができた」』


 死への賛美。欽慕。瞻仰。あるいは、崇拝。


 「人の為に、自らを殺せ」


 死ぬ直前の父がかつて唱えた言葉がふと脳裏をよぎり、つい諳んじてしまった。


 自分の為に戦ってはならない。他人や国の為に、命を惜しむな。


 時に思想は行動理念を踏み躙る。


 正常な判断能力に勝る根源的な本能が俺の脳内を易々と蝕んだ。


 そうして半ば強引に大義を得た俺は、男につられ、戦場へと足を向けた。


 しかし、土を踏んだ俺の眼前に、思いもよらぬ光景が広がっていたのだ。


 国境線の向こうで、欠伸をして呑気にも談笑に興じる兵士達。


 まるでずっと、戦争すらなかったかのようだった。


 だが、ラヂオからは毎日ように戦況を聞かされてきた。ここは激戦地のはずである。


 この相反する事象にどういうことかと首を捻ると、ソレが笑って答えた。


 ――今は休んでいるだけです。さあ、自国の平和の為に剣を振りましょう。


 そうして踏み出した一歩が、引き金に他ならなかった訳だが。


 ここまで来ると嫌な夢も滑稽に見えてきた。


 俺の選択が間違えていようといまいと、国は既に滅びているのだ。


 馬鹿らしくなって失笑すると、やがて意識が戻った。


 目を開けると太陽が既に堕ちていた。


 テーブルの上には昨夜開けた酒瓶が5本放置されたままである。


 もう一度寝ようとも目を瞑ることすらできず、俺はただ更けていく夜を窓から眺めているばかりだった。

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