第9話

 北端にまで雪解けが行き届いた頃、春と共に行商人がやってきた。

 例年通り、ハンナとエリーシャは冬の間に狩った獣の皮を担いで会いに行った。鹿や兎、イタチ。また春を迎えられた喜びを交わす中、毛皮の中に熊ものを見つけ行商人は目を見張った。

「大変珍しいものでございますね。傷はございますが良い毛です。それに大きい。

 これはここにあるもののどれとも交換することができます。

 それにしても、よくこんなに大きな熊を倒すことができましたね」

 行商人は感心しきりだ。

 エリーシャはハンナと顔を見合わせ、微笑んだ。


 その熊は冬の終わり際に狩ったものだった。

 エリーシャにはまだ難しい大きな雄鹿でもハンナは狩る。逞しい体躯と立派な角をものともしない。

 そんなハンナでも熊には手を出さなかった。そもそも熊が生息するのは森のずっと奥であり、わざわざ狩りに行っても毛皮や肉を持ち帰るのが手間だ。それに狩るのが非常に難しいらしく、ハンナの叔父さまですら手を焼いたのだそうだ。ハンナは狩りを教えられた際、熊には手を出さないようにと言われていたらしい。

 そんな熊をどうして狩れたのか。

 あの熊は森で出会ったのではなかった。エリーシャたちが住む平地にまで降りてきたのを、退治したのだ。

 古傷だらけの巨大な熊だった。ハンナとエリーシャ、犬たちとみんなで戦った。簡単ではない狩りだった。

 犬たちもハンナもエリーシャも浅くない傷を負った。その全てをエリーシャは治した。

 ハンナ一人ではきっと狩れなかった。エリーシャがいてもきっと難しかった。犬たちと白狼と、みんながいたから成せた狩りだった。

 熊を倒した夜はその肉を食べ、貴重な砂糖を使った貴重なベリーのジャムも食べ、お祝いした。それから昼までぐっすり眠った。

 翌日、白い狼は姿を消した。

 犬たちと一緒に外へ出て、それっきり戻ってこなかったのだ。まるでもう用事は済んだ、とでも言うかのような別れだった。

 三兄弟犬の一匹も、白狼と一緒に姿を消した。彼は何度邪険にされても白狼の後ろを着いて回っていた犬だった。

 白狼の二匹の子はハンナとエリーシャの下に残された。

 白色と灰色の仔狼。二匹はもう大人と遜色ない大きさにまで育っていた。犬たちとも仲がよく、特にエリーシャが連れる三兄弟犬といつも戯れあっていた。

 育った二匹の狼の仔は、残された三兄弟犬の二匹と仲睦まじく過ごしている。母を恋しく思う様子はない。

 狼と犬、この二組の番の子どもはいずれ見られるだろう。


 熊との戦いの様子をハンナが身振り手振りを交え行商人に話した。足りない部分をエリーシャは補足する。

 行商人は何度も頷き、皺の深い顔をもっと皺くちゃにして聞いてくれた。

「よくぞ狩られましたね。本当に立派でございます」

「エリーシャも犬たちもいたから」

「ええ。ええ。皆さんで成された偉業でございます」

 行商人が讃え、ハンナは胸を張る。今までどんなに大きな鹿を獲ってもハンナはここまで誇らなかった。犬たちと、エリーシャと、全員で成したことであるからこそ、ハンナは誇っているのだろう。

 ハンナの隣でエリーシャは面映く、またとても嬉しく思っていた。

 そんな熊の毛皮で何を換えようか。長い冬で使い切った塩か砂糖か、それとも小麦か。もしくはなかなか買えない服や小物か。大きな毛布にするのも良いかもしれない。

 エリーシャはハンナと二人、馬車を覗き込みながら相談していた。なんでも換えられる、となるとあれやこれやと目移りばかりしてしまう。

 いっそ次の機会に持ち越して、しばらく考える時間をもらおうか。とハンナへ提案した時だった。

 エリーシャは行商人が咳をしているのに気付いた。きっとハンナとの会話を邪魔しないためにだろう。二人から少し離れ、口元を外套の袖でしっかりと押さえ咳き込んでいた。

「大丈夫?」

「ええ、ええ。申し訳ごぜえません」

 行商人はエリーシャに何度も頭を下げた。エリーシャはその手を両の手で掬い取った。顔と同じく深い皺の刻まれた、硬い指先の冷たい手だった。

 エリーシャは自分の体温を分け与えるように行商人の指先を、手のひらを摩る。──事実、エリーシャはそうして自身の持つ癒しの力を行使していた。

 眉を寄せ、ハンナも心配そうに行商人の背や肩を撫でる。

「ああ、ありがとうごぜえます。だいぶと楽になりました」

「長く引き留めてごめんなさい」

「熊の皮と替えるのは次の機会にするね。帰って休んだ方がいいよ」

「申し訳ごぜえません」

 何度も何度も頭を下げる行商人を促し、エリーシャはハンナ並んで馬車を見送った。古びた馬車がゆっくりと森の中を進む姿に行商人の小さな背中を重ねてしまう。

「治してあげたの?」

「……うん」

「じゃあ、きっと大丈夫だよね」

 エリーシャは行商人の手を包んでいた自分の手を見下ろしていた。春のまだ温もりきらない空気の中、それ以上にエリーシャの手は冷えている。

 行商人に対してエリーシャは癒しの力を使った。どんな病も怪我も治せる強い力だ。エリーシャはこの力で何人も救ってきた。


 それでも治せぬものがある。それは老いだ。


 生き物はいつか老いて死ぬ。それが自然のことわりだ。例え大地母神から賜った力であろうとも、それを曲げることはできない。

 癒しの力は病や怪我を治すための生命力を一時的に分け与える力だ。エリーシャは瓶に水を注ぐようなものだと思っている。

 人が持つ瓶の大きさはそれぞれ違う。体が丈夫であれば大きく、体が弱ければ小さい。エリーシャが持つ瓶は非常に大きく、それゆえ沢山の人に水──生命力を分け与えることができる。

 老いは、その瓶にヒビが入るようなものだ。病や怪我を負っておらずとも水が少しずつ漏れ出し、必要な時に必要なだけの水を使えなくなる。そうして小さな病や怪我を治せなくなるのだ。

 ヒビの入った瓶にいくら水を注いでも無駄だ。ヒビが大きければ注ぐ端から流れてしまう。

 エリーシャにはそれがわかった。エリーシャの癒しの力は注いでも注いでも漏れ出てしまった。行商人の持つ瓶には、どうしようもないヒビが入ってしまっている。

 瓶に入ったヒビを直すことは、誰にもできない。





 緩やかに訪れた春が盛りを過ぎた日のことだった。

「今日でお別れでごぜえます」

 いつものように森を訪れた行商人は、ハンナとエリーシャの顔を見るなりそう切り出した。

「どうしたの?」

「あたくしは今日を限りでお暇させていただきやす。この森へお邪魔させていただくことは金輪際ありません」

「そんな」

 ハンナは行商人へ駆け寄った。エリーシャはハンナに少し遅れて傍へ寄る。

「もう来ないの?」

「ええ」

「どうして?」

「馬車に長いこと揺られるのが堪えるのですよ」

「体、痛いの」

「……ええ」

 ハンナがエリーシャを見た。聞かずともエリーシャはハンナの望みがわかった。

 エリーシャは行商人の手を取る。以前よりも骨が目立つ、乾いて冷たい手だ。

 行商人の手はどれだけエリーシャが握っても冷たいままだった。

 エリーシャは黙ったまま、ハンナへ向かい小さく首を振った。

「仕方のないことなのですよ、狼のおひい様」

 行商人の言葉は穏やかで、皺だらけの顔は木漏れ日の中静かな笑みを湛えていた。

「みんないつかは行く道でごぜえます。あたくしは少し先に行くだけ。ただそれだけですだ」

「いや。寂しい」

 ハンナは行商人の手を取り、幾度も首を振った。幼い子が駄々をこねるかのような──事実、ハンナは覆せない事実を前に拒否だけを繰り返している。ハンナがここでいくら言ったところで、行商人は若返らない。

「あなた様には兎のおひい様がいらっしゃりますだ。寂しいことなど一つもありやしません」

 行商人はそんなハンナを柔らかな声で慰めた。我が子へかけるかのような、慰めと労わりに満ちた声音だった。

「大丈夫。いつかまた、ここではない遠い場所で合間見えることでしょう」

 今を盛りと茂る青葉。その色によく似た瞳からハンナはひとつふたつと雫を零した。

 エリーシャはただ肩を震わせるハンナの傍らに寄り添った。

 ハンナが行商人と過ごした時間はきっと長くは無い。エリーシャと出会い、暮らした時間の方が長い。それでもエリーシャが知らない時間が二人の間には確かにあった。

 その欠落を埋められるのは、行商人その人でしか無いのだろう。エリーシャはただ、ハンナと寂しさを分かち合うことしかできない。

「兎のおひい様。あなた様がいてくれて、あたくしは本当に安心しておりますだ。

 心残りはこれだけだったのです。

 あなた様にとって幸運ではなかったやもしれませぬが……あたくしは、本当に本当に、良かったと思っとるのです」


 行商人はハンナとエリーシャが持ち込んだ毛皮を受け取った。その量や質には拘らず、馬車の中身をなんでも好きなだけ渡してくれた。

「あたくしにはもう必要の無いものですだ。本当は馬車ごと置いて行きたかったのですが……」

「それじゃあ帰れないじゃない」

「そうなんです」

 ふぁふぁふぁ、と空気が抜けるような笑い声を上げ、行商人は少しだけ咳をした。

「ここで暮らしたらどう?」そうエリーシャは提案しようとしたが、結局それは飲み込んだ。

 行商人には行商人の家族があるのかもしれない。いないのかもしれない。どちらにせよ、行商を続けひと所に暮らさないのにはそれなりの理由があるのだろう。今更詮索するのも野暮だ、とエリーシャは思ったのだ。

 家と馬車とを数度往復し、欲しいものを欲しいだけ譲ってもらった。

 最後に行商人は一番近くの村への行き方を教えてくれた。行商人がこれまでハンナとエリーシャから引き取った毛皮を卸していた店があるらしい。

「徒歩では丸一日かかるでしょうから、しっかりと準備なされてから出立してくだされ」

「そこが、商人さんが昔言っていた……訳がある人ばかりの村なの?」

「ええ。ですから安心してくだされ」

「もしエリーシャのこと連れてこうとする人がいたら、ハンナが追い払うからね!」

 ハンナは腕を振り、手斧を投げる真似をした。目元は赤いが頼もしい姿だ。

「おひい様方。どうか狼のように、兎のように、何にも縛られず自由に生きてくだされ。

 それだけがあたくし唯一の願いですだ」

 ハンナとエリーシャはそれぞれ行商人を抱きしめた。その乾いた髪からは甘い煙の匂いがした。

 行商人の馬車はいつものようにゆっくりと走り出し、わずかに軋み揺れながら森の中を進んでいった。

 木々の間に消えていく馬車を、ハンナとエリーシャは手を繋ぎ見送っていた。





 初めて村へ行ったのは夏の盛りの頃だった。

 北果ての夏は短く、盛りと言えども穏やかだ。夜を外で過ごすのに向いている。売り物になる毛皮は多くなかったが、寒くなる前に一度道程を確認しておきたかったのだ。

 幾らかの毛皮と持ち歩ける食料、暖を取るための毛布と火石を背負い、ハンナとエリーシャは家を出た。

 犬たちは全員が着いてくるものかと思われたが、森を出たところで半数が戻った。着いてきたのは白狼と灰狼、その番の計四匹だった。

 森はまるで切り取ったかのように途切れる。エリーシャが連れられて来た時には一面が雪に覆われていた平原は、短く青い草に覆われていた。

 遠くで鹿らしき獣が草を食んでいる。上空では鷹か鷲かが弧を描き飛ぶ。青く抜ける空の下、エリーシャはハンナと四匹の犬と歩き続けた。

 夜になると火石を焚き、毛布にくるまり寄り添って過ごした。犬たちもハンナとエリーシャを囲み丸くなる。

「楽しみだね」

 ハンナは生まれて初めて森の外へ出たのだと言った。

「怖くはない?」

「ううん。エリーシャがいるから、むしろ楽しい」

 火石が放つぼんやりとした光に照らされ、ハンナはいつもと同じ寛いだ笑みを浮かべていた。


 日が昇ってからまた歩き続け、太陽が中天に差し掛かる前に村へ辿り着いた。

 細い木や枝を編んだ柵に囲まれた畑。木と石とで作られた家。どこかで鶏が鳴き、何かを煮炊きする匂いが微かな風に乗る。

 のどかで小さな村だ。

 畑の手入れをしていた男が、犬を引き連れたハンナとエリーシャに気付くとギョッとしたような表情を見せた。

「こんにちは!」

 エリーシャは威圧的にならぬよう努め、声を張る。

「何の用事だ?」

 怪訝な表情ではあるが、男に攻撃の意思は無いようだ。逃げる様子も無いことにエリーシャは安堵する。

「毛皮を売りに来たんです」

 そう告げると男は「ああ」と頷いた。

「行商人の紹介なんだろ? 聞いてるぜ」

 案内する、と男が手招く。

「ありがとう」と軽く頭を下げ、エリーシャはハンナを促した。

 犬たちはエリーシャが男に対して友好的であるのをしっかり見ていたようだ。吠えも唸りもせず後を追ってくる。

 村の中には男と同じくらいの年恰好の男女がいた。子供の姿もある。興味深そうにエリーシャとハンナ、その後ろを着いて歩く犬たちを見ている。質素ではあるが見窄らしくはない。北の果てに近くとも、それなりの暮らしができている様子だ。

 男が案内してくれたのは、村の真ん中にある建物だった。他の家と同じような作りであるが、ひと回り大きい。

 村のまとめ役が住んでいる家だ、と男は言った。

「おやじさん、噂の猟師だ」

 服や靴、農具や壺、樽や瓶。ある物は壁に作られた棚に収められ、ある物は壁から壁へ渡された竿に吊るされ。家の中には所狭しと様々な物が溢れていた。

 商店だ、とエリーシャは思った。

「これはこれは。行商人から聞いていましたよ」

 溢れかえる物の中、丸椅子に濃い髭を蓄えた男が腰掛けていた。彼は立ち上がってもエリーシャの肩ぐらいまでしか身長がなかった。いつか見た絵物語に登場したドワーフを思わせる風貌だ。

「村のまとめ役兼、商人の真似事をしとります。ドリーとお呼びください」

「エリーシャです。こちらはハンナ。ええと、行商人さんから……」

「ええ、腕の良い猟師が北の森に住んどると。まさか女性であるとは」

 感じの良い笑みを浮かべ、ドリーは丸椅子と白湯を勧めてくれた。


 エリーシャが見せた毛皮をドリーは高く評価してくれた。

 これからは季節ごとに一度は毛皮を持ち込むこと。その際金銭ではなく品物と交換で毛皮を売ること。冬の間は来られないこと。

 そういったことをエリーシャはドリーと取り決めた。


 その間、ハンナはずっとエリーシャの裾を掴み、口を固くつぐんだままでいた。


 村に泊まっていくと良い。とドリーは勧めてくれたが、エリーシャは断った。ドリーも無理強いはせず、今回持ち込んだ毛皮分の芋と砥石に固焼きのパンをおまけして送り出してくれた。

 ドリーの家の前に村人が集まっていた。恐々、と言った様子で玄関先に寝そべる犬たちを眺めている。

 エリーシャとハンナが出てくるとなんでもなかったかのように散って行った。挨拶に回るべきか、とエリーシャは思ったが、追いかけるのも怖がられそうであるので止めにした。

 太陽が傾きかける中、エリーシャはハンナと共に村を出た。

「人がいたね」

 村が豆粒ほどになった頃、ようやくハンナは口を開いた。

「いたね」

「びっくりした」

「びっくりしたの?」

「うん。本当に人がいた」

 降り仰いだハンナは頬を上気させていた。

「人、いるんだねぇ」

 興奮のまま、ハンナはエリーシャの上着の裾をぶんぶん振り回した。村に入ってから今までずっと掴まれたままだったそこは、くしゃくしゃになってしまっている。エリーシャはそれを指摘しない。

「嫌じゃなかった?」

「うん! あのね、なんて話していいかわかんなかった」

「そっか」

 ハンナが無言であったのは恐怖からではなかった。それが知れただけでエリーシャには十分だった。

 立派な角の雄鹿も、巨大な熊も、ハンナは恐れることなく立ち向かう。そんなハンナが「見知らぬ他人」に戸惑い、エリーシャの後ろに控えていた。

 エリーシャが臆せず話し、応対するのに任せてくれていた。「エリーシャなら大丈夫」だと信頼してくれていたのかはわからない。とはいえ、エリーシャを頼っていたことは事実だ。

 ハンナの役に立てた。突き詰めれば自分のためではあるものの、その事実はエリーシャに自信と喜びを与えてくれた。

「次はお話できたらいいな」

「そうだね。鹿いっぱい獲って、また行こう」

「ね!」

 ようやくハンナはエリーシャの裾を放し、「早く帰ろ!」とエリーシャの手を取った。

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