第8話

 エリーシャの行動はほとんど無意識のうちに行われていた。

 手斧を抜き、構え、投げる。

 何十回、何百回、何千回、もしかすれば何万回と繰り返した動きだ。身体に染み付いていた。

 放たれた手斧は回転しながら飛翔し、馬の尻に深々と突き刺さった。

 エリーシャが手斧を投擲すると同時、犬たちは駆け出している。エリーシャが示した獲物──傷ついた馬に向かって。

 悲鳴に似た嘶きが響き渡る。襲歩の速度のまま馬は転倒し、騎乗していた警護兵もまた悲鳴を上げる。

 もうもうと立つ雪煙。

 エリーシャは既に二本目の手斧を構えている。構えながら斜面を滑り降りている。

 太い叫び。それは突然転倒した仲間へ向ける呼びかけだ。彼らは未だ、襲撃者の正体を見定められていない。

 斜面を滑りながら、エリーシャは手斧を投げた。滑り落ちる勢いに腕を振り抜く力が乗り、手斧は有り余る速度を持って投擲される。

 嘶き。手斧は二頭目の馬の腿を割った。

 動転した馬が暴れ、警護兵は振り落とされる。どう、と響き渡る転倒音。雪煙。男の太い叫び。

 一頭目の馬は既に事切れていた。その首には複数頭の噛み傷があり、体の下の雪は真っ赤に染め上げられている。

 犬たちは二頭目の馬へ向かっている。手斧の突き刺さった脚を庇うようにした馬は、犬たちに囲まれ逃げ場を無くしている。その足元では背から落ちた警護兵が仰向けに倒れていた。周囲の雪にはいくつもの蹄の跡があり、振り落とされてから踏みつけられたのだろうと推察できた。生死は不明だ。


 エリーシャの精神は不思議と凪いでいた。鼓動は痛いほどに跳ね、全身に血が巡り忙しなく思考は回っている。エリーシャを突き動かしていたのは恐怖心でも復讐心でもない。

「彼らを森から排除しなくては」という使命感だった。


 一頭目の馬から手斧を引き抜く。血を拭うことはせず、一度振ってある程度の血を飛ばしてからまた構える。犬たちに囲まれた二頭目へ。

 息を吸い、溜め、短く鋭く吐く。そのタイミングで腕を振り抜いた。

 空を切り真っ直ぐに飛んだ手斧は馬の首元に突き刺さる。一拍遅れ、逞しい顎が馬の喉へ喰らい付く。雪原の色。白狼だ。

 振り払おうとする馬の後肢──手斧が未だ突き刺さる脚へ、残る犬たちは齧り付く。傷ついた脚では振り払うことはできない。

 バランスを崩し、馬が倒れる。

 白狼は喉に喰いついたまま、その顎の力で気道を締め上げている。犬たちは晒された馬の腹を食い破る。きっと長くは持たないだろう。

 エリーシャは馬を看取ることはせず顔を巡らせる。油断なく、獣の解体に使う短刀を抜きながら。

 一頭目に乗っていた警護兵はどこへ。

 いた。凍りついたように立ち尽くし、エリーシャと犬たちを凝視している。

 エリーシャと目があった彼は弾かれたように走り出した。喚きながら、仲間に背を向け逃走する。来た方角ではなく、向かっていた方角──森の奥へと。

 犬たちに追わせるべきか、放っておくか。エリーシャは逡巡する。

 そこでエリーシャはもう一人の存在に気付いた。逃げる警護兵の先、人影がある。

 くすんだ色の防寒着。似た色の布を顔中に巻き付け、目元だけに僅かな隙間がある。男か女かもわからないその人は、道を塞ぐかのように立っている。

 手には曲刀が下げられている。緩やかに湾曲した薄い刃。王国では見かけない、砂の国伝統の剣だ。

 エリーシャが見守る中、その人は曲刀を振るった。一閃。ぱっと鮮烈な色が雪原に舞い、次いで逃げ出した警護兵が倒れる。腰の剣は抜かれることはなかった。そうして二度と動かなくなった。


 曇天の下、もはや悲鳴も叫びも消え失せた。残るのは新鮮な血と内臓から立ち上る湯気だけだ。


 彼か彼女か──曲刀を手にしたその人はエリーシャの方へと向かってくる。抜き身の刃はそのままだ。エリーシャは犬たちを呼び寄せる。

 その人はエリーシャではなく、今しがた事切れたばかりの馬へと歩んだ。正確には、その足元に倒れる警護兵の下へと。

 曲刀がまた振るわれる。暴れる馬に踏みつけられ、瀕死であった警護兵は息絶える。

 エリーシャは一連の行動をただ見ていた。周囲に集まった犬たちも、唸り声すら上げず血で染まった顔で注視している。その人にエリーシャへの害意は無い。

「────」

 くぐもった声。それは分厚く巻かれた襟巻きの向こうから発せられた声だ。エリーシャには聞き取れない。

 それを悟ったのだろう。その人は襟巻きを下ろした。

 現れたのは日に焼けた肌と濃く豊かな髭だ。どちらも王国では見かけない。王国では男性の髭は威厳の表れであるが、顎下や鼻の下に蓄えるのが主流だ。頬から顎、口元までもを覆うように生やすのは、砂の国のしきたりだ。

『狩人か?』

 彼はエリーシャに問いかけた。砂の国の言葉で。

 エリーシャにはそれがわかった。エリーシャは令嬢であった頃、砂の国の言葉を学んでいた。いつか嫁いだ後、外交の場にも立てるようにと。

 結局のところ使う機会のなかった言葉であるが、知識はエリーシャの中にしっかりと根付いていた。

 しかしエリーシャは彼の問いに答えられなかった。エリーシャは迷っていたのだ。

『言葉がわからないか? 参ったな、王国の言葉は話せないんだ』

 無言のエリーシャに対して、彼はそう解釈してくれたようだ。

「ファリード!」

 また別の声がした。

 彼は弾かれたように振り返った。エリーシャもそちらを見た。彼がやってきた方角。倒れたまま動かない警護兵のさらにその先。またひとつの人影がある。

 それは寒風に黒髪を靡かせた、やはり日に焼けた肌をした男性だった。今エリーシャの前にいる彼とは違い、髭を生やしてはいない。停止した馬橇へ寄りかかるようにして立っている。

『若様!』

 ファリード、というのが髭の男性の名前であるのだろう。エリーシャはそう判じる。

 髭のない男はファリードを呼ぶとその場に蹲った。雪を蹴立てファリードは駆け寄る。その後ろにエリーシャはついて行った。犬たちは少し離れてエリーシャを追う。

『若様、ご無理をなさらずに』

『追手は』

『斃しました』

 矢継ぎ早なやり取り。肩を支え、ファリードは男を馬橇に寝かせた。

 エリーシャはそこで初めてまじまじと男の顔を見た。髭が無いせいか、ファリードよりもだいぶ若いように思えた。エリーシャよりも年下かもしれない。男はきつく眉を寄せ、時折苦痛を堪えるように唇を歪めていた。それでもその相貌は整っており、おそらくは高貴な出自であろうと推測できた。

『貴様、名前は……そうだ言葉が。ええい面倒だな』

 ファリードの口調には焦りが多分に含まれていた。荒々しいそれは、もしエリーシャに言葉がわからなければ恐怖感を抱かせるのに十分であっただろう。

『どこか休めるところはないか? 隠れられるところ……若様は怪我をしているんだ。ええと、助けてほしい! わかるか? 助けがいるんだ!』

 捲し立てる声に驚いたか、犬たちが一斉に唸り出す。歯を剥き威嚇する彼らを手のひらで制し、エリーシャは錆びついた知識から言葉を絞り出す。

『少し、退いて』

『! 貴様、言葉が』

『待って』

 本来ならもう少し丁寧な言葉をかけるべきであろうが、今はその余裕がない。

 ファリードを押し退け、エリーシャは黒髪の男の額に触れた。じっとりと汗をかいた肌は燃えるように熱い。この寒さの中これだけ発熱しているのは異常だ。目を閉じ、男に触れた手に集中する。

 痛いの? とエリーシャは声に出さず問う。

 痛い。 と男が──正確には男の体が答えた。答えはやはり声ではなく、感覚としてエリーシャに伝わっている。

 どこが? 再びエリーシャが問う。

 腕が。

 びり、とした感覚がエリーシャの腕に走る。よく研がれた鋭利な刃物で切り裂かれた痛みだ。

 深い。が、治らない傷ではない。発熱はこの傷が適切に処理されていないことにより引き起こされている。傷さえ良くなればすぐにでも熱は引くだろう。

 だからエリーシャは念じる。

「治れ」と。

 ふ、と。男は息を吐いた。深いため息。それは長い旅の果て、ようやく安らげる場を見つけた時に似た、安堵のため息だ。

『若様?』

『寝てるだけ。寝かせてあげて。すぐ熱も下がる』

『貴様は……』

 ファリードは驚きと疑問が混ざり合う目をエリーシャに向けた。エリーシャは彼が発するであろう質問を予測できていたが、答えない。さっと身を翻し、警護兵の死体へと駆ける。

 警護兵と馬と、それぞれが持つ荷物から日持ちする食料と火石をありったけ奪う。死んだ者にはもう必要がない。そしてエリーシャにも。

 雪の上に並べたそれらを見下ろし、エリーシャは自らの荷物を検める。たとえ日が出ている間に帰るとしても、狩りに出る時には干し肉と火石を持ち歩く。いつ遭難するかなど誰にも予想できないからだ。

 警護兵から奪った食料と火石に自分のものを足し、ひとつの荷袋に纏める。それをエリーシャは馬橇の傍らで立ち尽くしていたファリードに押し付けた。

『これは』

『食べ物と火石』

 エリーシャと荷袋とをファリードの視線が往復する。困惑。浮かぶ表情は状況を把握しきれていない様子だ。

 人差し指を立て、エリーシャは馬橇が向く方角へ向ける。

『ずっと行って。森を抜ければ海に出る。今の時期、海は凍ってる。凍った海を渡れば、王国の領土を踏まずに帰れる。あなたたちの国へ』

『本当か!』

 ファリードの表情が輝いた。

『行って。追手はまだいる、かも』

『わかった。恩に着る』

 ファリードはエリーシャの手を両手で握り、ささげるように頭を下げた。これが砂の国での最上級の礼であるとエリーシャは知っている。

『礼は必ずする!』

『気にしないで。行って、早く』

『我々は受けた恩を忘れない!』

 馬橇に繋がれた馬へ一言二言囁き、ファリードは御者席に乗った。のろのろと走り出した馬橇はやがて勢いを得て、見る間に雪景色の向こうへ消えていった。

 エリーシャは犬たちと共に、しばらく砂の国の男たちが消えた方角を見ていた。

「……よし」

 彼らが戻ってくる気配はない。エリーシャは白く烟る吐息と共に頷いた。

「馬のお肉持って帰ろ」

 見上げてくる犬たちを促し、短刀を手にする。



 エリーシャが彼らを助けたのは、けして親切心などではなかった。

 単純にいなくなって欲しかったのだ。この森──ハンナとエリーシャの生活圏内から。

 砂の国の言葉を話し、北果ての監獄の警備兵に追われていた彼らの事情をエリーシャは知らない。

 王国と砂の国の間で争いが起き、その中で捕らえられたのだろう、と予測はできる。

 彼らを逃したことが王国の利になるのか、砂の国の利となるのか、エリーシャは知らない。興味もない。

 そもそも彼らが本当に生きて砂の国へ帰れるのか、エリーシャにはわからない。

「凍った海を渡れる」とエリーシャは言ったが、それはずっと昔に本で得た知識だ。エリーシャが実際に見たわけではない。

「森を抜ければ海に出る」と言うのもエリーシャの知識の上での話だ。やはり令嬢であった頃に見た地図では、北果ての森のずっと先に海は広がっていた。だがエリーシャはその海を見たことがない。そもそも、エリーシャは自分が地図上ではどのあたりに住んでいるのかを知らない。


 彼らの馬橇が果たして海へ辿り着くのか。本当に海が凍り渡れるようになっているのか。何もかもエリーシャにはわからない。


 仮に彼らが海へ辿り着けなくとも。海へ辿り着いたとして、海が凍っておらずとも。エリーシャには関係がない。

 どうせ彼らとはこれっきり会うことなど無いからだ。彼らがエリーシャの嘘──正確には嘘ではないのだが──に気付いた時は、彼らの命が尽きる時だ。エリーシャを恨めども、後の祭りだ。


 エリーシャは彼らをハンナに会わせたくなかった。

 かつてハンナは何の利益も齎さないエリーシャを助けた。もし今、砂の国の彼らを見つけたのがハンナであったのなら、ハンナはきっと彼らを助けただろう。

 黒髪の男の傷が癒えるまで家に置き、彼らのために狩りをして、彼らが望んだのならば彼らと共に暮らしただろう。

 それはいやだ。エリーシャは率直にそう感じた。

 今までもふとした瞬間に頭をよぎることがあった。エリーシャが生きてきた十数年で追放刑に処されたのはエリーシャひとりだけだ。だが、王国の情勢が不安定になれば重い刑を科される人間は増えるだろう。

 追放刑ではなくとも、北果ての監獄に送られ苦役を科される者はいる。そういった者たちが逃げ出さないとは限らない。そうして放浪の果て、この森へ迷い込むことだってあり得る。

 それをハンナが見つけたら。見つけた彼か彼女かを連れてきて、今日から家族だと言い出したら。

 思うたび、エリーシャは胸を掻きむしりたくなった。


 ハンナと共に起きて、食事をして、狩りに出て、その胸で眠るのはエリーシャだけの特権だ。他の誰にも譲りたくはない。他の誰も加えたくない。

 持てる者が持たない者に分け与えるのは義務であり美徳だ。令嬢であったエリーシャはそれを教え込まれ、自身の癒しの力でもってそれを実践していた。

 その結果は──。

 今のエリーシャは貴族でも王国の民でもない。義務も美徳も関係ない。むしろエリーシャは奪われた側だ。

 これ以上は望まない。だが今ある幸福はもう誰にも奪わせない。

 エリーシャの幸福はハンナだ。ハンナさえいれば、エリーシャは生きられる。



 エリーシャは持てるだけの馬の肉と馬の皮を背負う。警護兵が持っていた剣や装飾品には手をつけなかった。行商人に渡せば大量の塩と砂糖が得られそうではあったが、持ち帰ってハンナにどう説明すべきかわからなかったのだ。

 残りの馬の肉と、警護兵の死体は森の生き物たちが糧にする。その後に残っていれば回収しよう。それまでに言い訳を考えておかねば。

「さ、帰ろう」

 エリーシャが馬を解体する傍ら、犬たちは残った内臓や筋をたらふく腹に収めていた。その足取りは軽く、見るからにご機嫌だ。

 曇天は朝と変わらない。冷えた空気を肺いっぱいに吸い込み、エリーシャはハンナの顔を思い浮かべる。

「馬がいたの。鞍も何もつけていなかったから、逃げたか捨てられたかした子じゃないかな」

 言い訳を練習しながら、エリーシャは一歩一歩雪を踏み締め帰路に着く。

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