第7話

 狼の母子を連れ帰った日の夜、エリーシャはハンナに自身の癒しの力についてを話した。

 夜の室内を照らすのは火石のわずかな灯りだ。テーブルの上、陶器の皿に盛られた火石は既にその勢いを無くし、もうすぐにでも消えてしまいそうだった。窓の外では少し欠けた月が暗い森を静かに照らしていた。

「そうなの? すごいねぇ」

 ハンナはエリーシャの話に感心しきりだった。

 ひとつきりの寝台に並んで腰掛け、その日の終わりに他愛もない話をする。それがエリーシャとハンナの習慣だ。

「ハンナはどう?」

「どう?」

「こういう……怪我とか病気とか、治したことある?」

「ないよぉ」

 ハンナが首を振るのに合わせ、眩しい夕日色の髪がふわふわと揺れた。

「エリーシャは特別なんでしょ?」

「一応、そうらしいんだけど……」

 癒しの力は王国の女性に発現する。とはいえ全員ではない。貴族階級に発現することが多い、というのも必ずではない。癒しの力を持たない貴族女性も多い。

 ハンナが元貴族だというのはエリーシャの妄想であるし、ハンナが癒しの力を持っていなくとも不思議ではない。

 エリーシャはハンナの肩に頭を預ける。丈夫な骨と筋肉で作られた肩は逞しく、しかしその稜線はたおやかだ。

「変なの。私、ハンナといると元気になるのに」

「えー?」

 ハンナはくすぐったそうな潜めた笑いを上げた。

 同時、エリーシャの頭にずしりとした重みが乗る。ハンナが頭を預け返してきたのだ。

 しばらくの沈黙があった。くつろぎきった犬たちの寝息が屋内に満ちている。

 夏も盛りの北の森は夜でも少し騒がしい。虫の声や木々のざわめき、聞こえないのに感じられる獣たちの息吹き。


 話してみようと思った。あの日のことを。


 ハンナはなぜエリーシャが北の果てのこの森に来たのかを知らない。ハンナは一度もエリーシャに事情を尋ねなかった。だからエリーシャも話さなかった。

 聞かれたくない、とエリーシャは思っていなかった。もし聞かれれば素直に話していただろう。

 話したところで何が変わるわけでもない。過去は過去でどうしようもないことであるし、この森に来てからの毎日はその日その日を生きるのに必死だった。

 乱暴な論ではあるが、無駄な話だ。エリーシャの過去については。

 そんな無駄話だが、今夜は話しても良い夜だ。そうエリーシャは感じていた。

「あのねハンナ。私、ここに来る前は──」


 できるだけ言葉を選び、エリーシャは森でしか暮らしたことのないハンナにもわかるように話した。

 ハンナはエリーシャの話を一言も遮らず聞いていた。


「──その時に助けてくれたのが、ハンナだったの。

 だからね、私ハンナには感謝してもしきれないの」

 エリーシャはそう締めくくった。昔話をしたせいで、またエリーシャが王国へ帰りたがっているとハンナに思われたくはなかったからだ。

「エリーシャは、」

 言葉と共に、ハンナの手はエリーシャの手のひらを撫でた。狩りや獣の解体作業に慣れた硬い指先が、触れるか触れないかの繊細な手つきでエリーシャの手を取る。

「どうしたい?」

「どう、って?」

「ふくしゅうしたい?」

 ハンナの口から出たのがあまりにも物騒な単語であったため、エリーシャは一瞬その意味を理解できなかった。

 復讐。ハンナはそう言った。

 エリーシャは子爵令嬢の嘘により罪に問われ、母親に擁護されるどころか見捨てられ、冬の追放刑に処された。

 ハンナはその報復を提案している。

 エリーシャはハンナを見た。ハンナはエリーシャの肩に頭を預けており、エリーシャから見えるのはその夕日にも似た赤い髪だけだ。

 火にも似た、苛烈な色。

「ハンナ」

 エリーシャの囁くような呼びかけに応え、ハンナは顔を上げる。

「ハンナはエリーシャが望むなら、エリーシャを貶めた人たちみんなに罰を与えるよ」

 緑の目が火石の灯りに照らされ淡く光っている。

 復讐を司る女神が存在していたとしたら、こんな姿をしているだろう。薄暗闇に浮かび上がるハンナの相貌には、そう思わせる神々しさがあった。

 エリーシャが頷けば、ハンナは明日にでも犬たちを引き連れ王都に乗り込んでみせるだろう。そしてきっと子爵令嬢の、エリーシャの母親の首を獲る。

 あの日エリーシャの目の前で監獄長の首を撥ね飛ばしたように。

 エリーシャは、自身の左手に絡んだハンナの右手を握る。太い骨と硬い皮膚の感触。それでもハンナの指はどこか優雅なシルエットをしている。

 獣を狩り、解体し、皮をなめし、犬を撫で、エリーシャの髪を梳く。

 エリーシャはそんなハンナの手が好きだ。

 ハンナの手を柔らかく握り返しながら、エリーシャはかぶりを振った。

「私、ハンナと居られたらそれでいい。

 前のことはどうだっていいの」

「怒ってないの?」

「怒っては、いたと思う。けどもういい」

「もういいの?」

「うん。もういい」

 繰り返し、エリーシャはハンナの指に自身の指を絡めた。北の森で暮らすうち、ハンナの指と同じように荒れ、皮膚が硬く変わった指だ。

 そのことをエリーシャは嘆いてはいない。爪が割れても、ささくれができても、ハンナと同じように仕事をできることの方がエリーシャには嬉しい。

「エリーシャが嘘つきだって言われてるの、嫌じゃない?」

「ハンナが信じてくれてるならいい」

「いいの?」

「いいよ」

 改めて口に出してエリーシャは納得した。どうせ王都には戻れない上に、戻りたいとも思っていない。偽物の聖女であった、と思われていても痛くも痒くもない。

 共に暮らす、これからも共に暮らしたいと思えているハンナが信じている。それだけでエリーシャには十分だ。

「もう寝よう、ハンナ」

 ハンナの手を取ったままエリーシャは毛布に潜り込む。引っ張り込まれるようにしてハンナも寝台に寝転がった。

「おやすみハンナ」

「おやすみ、エリーシャ」

 胸元に頬を寄せ見上げたハンナは、いつものように柔らかくエリーシャへ笑いかけてくれた。大きな手のひらに髪を撫でられ目を閉じる。


 一日の疲れと鹿肉で満たされた腹が心地よい眠気を誘う。


 豊かなハンナの胸を枕にして、エリーシャはうつらうつらと船を漕ぐ。もうずっと長い間、夜をこうして過ごしていたように思える。

 貴族の令嬢として夜会や晩餐会に参じていた夜が夢か幻であったようだ。そうだったのかもしれない。とエリーシャは思い始めている。エリーシャは生まれた時からハンナと一緒で、この北の森で育ってきたのだ。

 眠りに落ちる寸前の思考が空想と記憶の間をゆらゆらと漂う。


 もし。仮に。あの日、あの弾劾の場にハンナがいたら。

 ハンナはきっとエリーシャを助けただろう。

 ハンナはエリーシャと同格か、格上の貴族家の令嬢だ。王家と繋がりのある家に違いない。

 豊かに波打つ赤毛を腰まで伸ばして、気品のある顔立ちは美しく化粧され、煌びやかに着飾ったハンナ。

「王姉殿下のお言葉とはいえ一方の言い分だけを認めるのは公正ではありません。

 彼女の言葉も聞くべきです」

 背が高く、姿勢も良いハンナの声はきっとあの場に朗々と響いただろう。

「聖女であることの証明は癒しの力を持って成されます。

 今ここで、彼女とそちらの令嬢二人の癒しの力を試せば真実は明らかになるでしょう」

 若草色の瞳に知性を宿し、居並ぶ貴族を見据える。誰よりも強く、誰よりも勇敢な彼女に反抗できる者はきっと居やしない。


 そんなハンナと友達になれただろうか。

 ハンナ、とは呼べなかっただろう。貴族社会は上下関係に厳しい。どんなに仲良く慣れたとしても、年下のエリーシャは「ハンナマルタ様」と呼ぶので精一杯だ。

 年齢差のせいで、もしかすれば出会う場すら無かったかもしれない。ハンナはおそらく五つ以上は年上だ。出会えた時にはすでに婚約しているか、結婚しているかもしれない。

 それは嫌だな、とエリーシャは思う。

 ハンナの隣に並ぶ男性を想像するのですら、エリーシャには無理だ。エリーシャの知る貴族男性の中で、ハンナよりも強く逞しい者はいない。財力も体力もない、そんな男にハンナを任せたくない。

 それに、ハンナが嫁いでしまっていたらハンナの胸で眠れない。それはだめだ。

 エリーシャはもうハンナと一緒でないと安眠できない。試したことはないが、きっとそうに違いない。どんな上等な羽根枕も、絹のシーツもいらない。

 ハンナでなければ。

 ハンナ。

 明日は何を狩ってくるだろう。


 纏まりも脈絡もないエリーシャの思考は、巡り巡って気付かぬうちに夜の底へ溶け落ちていた。





 群れに加わった次の日、支度の終わったハンナとエリーシャを見比べた狼はハンナへついて行った。エリーシャはそのことを少し残念に思ったが、特に何を言うこともなくいつも通り出かけた。

 帰ってきたハンナ曰く、狼は犬たちの後をついて走ったが狩りに加わっているようでは無かったらしい。

 その次の日、狼はエリーシャについて行った。一応助けられた恩を感じているのか、はたまた狩りがまだ上手くないのを見抜かれているのか。狼はしゃべらないのでわからない。エリーシャはいつも通り森を歩いた。

 途中、犬たちが何かを見つけたようであるので追わせたが、狩ることはできなかった。狼はやはり、狩りには加わらず後をついて見ているだけだった。

 そのまた次の日。狼は出かけようとするエリーシャの裾を噛み、引いた。

「どうしたの?」

 狼はハンナの方へエリーシャを引っ張って行った。

 ハンナは狼とエリーシャを交互に見遣った。

「一緒に行こう、って言ってるの?」

 狼は黒々とした瞳でハンナを見上げ、またエリーシャを見上げた。「そうだ」と言っているようにも見えた。

「うん、じゃあ久しぶりに行こうか!」

 その日の狩りは、ハンナとエリーシャ、それから全ての犬たちの大勢で出かけることになった。

 もちろん、二匹の仔狼は留守番だ。

 エリーシャがまだハンナに手斧の投げ方を教わっていた頃、やはりこうしてハンナと狩りへ出かけていた。そこで狩りの仕方を学んだのだ。

 手斧を投げる係が二人いては危ない。犬たちに当たるかもしれない。

 エリーシャは白い狼と共に、ハンナの狩りを見学することにした。


 そしてエリーシャは気付いた。

 ハンナはあまり歩かない。もちろん獲物を探して森を歩き回っているのだが、駆け回る犬たちの足音や気配をうまく聞き取り、先回りするように移動していくのだ。

 犬たちは獲物見つけると吠え立てる。犬に驚いた獲物はもちろん逃げていく。犬たちは獲物を追いかけ、疲弊させ、最後にハンナやエリーシャの手斧で狩る。

 二人の狩りはおおむねそういった手順を踏んでいた。

 ハンナは犬たちの吠え声を聞きながら素早く森の中を移動する。

 最初の頃に比べれば、エリーシャも森を歩くのはうまくなった方だ。それでもやはりハンナには叶わない。どんな歩き方をしているのか、下草を喧しく鳴らさず、しかし飛ぶような速度で進んでいく。

 複数の吠え声のちょうど中心。密集した木々がふつりと途切れ、開けた場所にハンナは陣取った。

 そうして手斧を構えた。新緑の瞳は森の全てを見通すように遠くを見ている。構える姿は全く揺るがず、しかし力んで硬直しているわけではない。むしろ少し離れて見ているエリーシャの方が緊張しているくらいだ。

 まるで最初からそうであったかのように、ハンナは自然に構えていた。


 吠え声が近付く。ガサガサと下草や枝が揺れる音が遠くからやってくる。


 鹿が姿を見せると同時、ハンナはごく自然な動きで手斧を投げた。流れるような動作。その時彼女の全身は、ただ手斧を投げるためにあるひとつの装置として存在していた。

 その鋭い刃先は過たず若い鹿の額を割った。鹿は悲鳴すら上げられない。

 頭骨を深々と割られても鹿の駆ける勢いは衰えず、ハンナに正面から突っ込んだ。あっ、とエリーシャが声を上げるが、ハンナは危なげなく避けていた。

 鹿は茂みに足を取られ転倒した。まだ起きあがろうとしているのか、それとも末期の痙攣か、四本の細い足がてんでバラバラに跳ねている。

 腰から抜いた短刀を手に、ハンナは茂みに向かう。少しして鹿の痙攣は弱まり、やがて動かなくなった。その頃には犬たちもみんな集まっていた。

「みんなお疲れさま!」

 鹿を引き摺りハンナは茂みから戻った。短刀と手斧は既に腰のベルトへ収められている。

 刃物がハンナの手元から離れているのを目視し、エリーシャはハンナに抱き着いた。

 いきなりエリーシャが体当たりしてもハンナの体幹は揺るがない。いつもであれば髪や背を撫でてくれる手が宙に浮いたままなのは、獲物の血で汚れているからだとエリーシャは知っている。ゆえに寂しくは思わない。

 甘酸っぱいような汗の匂いはベリーを煮詰めた時に似ている。

「どしたの?」

「……やっぱりハンナはすごいなって、思ったの」

 胸の段差に顎を乗せ、エリーシャはハンナを見上げる。眩しい太陽が中天に輝き、豊かな赤毛を煌めかせている。


 エリーシャは、自分の狩りの仕方が根本から間違っていたのだと悟った。

 一人で森に入るようになってからずっと、エリーシャは犬たちと一緒に走り回っていた。それでは意味がなかったのだ。

 手斧は獲物を仕留めるためにある。その投げ手であるエリーシャが犬たちの後ろにいては、当たる物も当たらない。


 ハンナは狩りが上手だ。毎日と言っていいほど獲物を仕留めてくる。

 けれど教えるのは下手だ。そもそも、物事を言葉で説明するのが苦手なのだろう。


 思えば、ハンナは手斧の投げ方も「見て覚えて」と言ったきりだった。飽きもせずエリーシャに請われるがまま投げ続けてはくれたが、腕の伸ばし方や手首の捻り方などについての助言は一言も無かった。

 狩りについてもそうだった。犬たちと森へ入り、犬が見つけてくれた獲物に手斧を投げる。その行程を見せてくれただけだ。

 手斧の投げ方すらおぼつかなかったエリーシャだ。その頃はハンナの後をついていくので精一杯だった。だからそんな根本的なことに気付けなかったのだ。

 ハンナは意地悪をして教えてくれなかったわけでは無い。きっとハンナもそうやって教わったのだ。ハンナの説明下手は「おじさま」由来なのかもしれない。

 狩りのコツに気付けなかった自分への苛立ちと、またひとつハンナのことを知れた喜びとがエリーシャの胸の内でぐるぐる渦巻く。言い表せないマーブル模様の感情を、エリーシャはきつくハンナに抱きつくことで発散した。

 ハンナは困惑を浮かべながらも、しばらくエリーシャの好きにさせてくれていた。



 その翌日から白い狼はエリーシャへついて回るようになった。



 エリーシャの狩りは格段に上達した。

 初めこそ獲物と犬たちの位置を把握するのに手間取ったが、もう数年は歩き回っている森だ。「ここに追い込もう」という位置をいくつか決めておき、そこへ来てくれるよう誘導する練習をした。

 白い狼はエリーシャの意図を汲むのが上手だ。彼女が三兄弟犬をうまく先導してくれ、また三兄弟犬も彼女に従ってくれた。エリーシャの狩りが上達したのは彼女のおかげだ。

 そもそも彼女が誘ってくれなければ、エリーシャは改めてハンナの狩りを見学しようとは思わなかっただろう。久しぶりに取れたウサギをエリーシャは多めに彼女へ献上した。

 それからは一日にウサギを複数狩れた日が続いた。そしてついには小柄ながらも鹿を仕留めるに至った。

 ハンナは我がことのように喜んだ。子供のように何度も「すごい」と繰り返し、エリーシャを抱き上げてぐるぐると回った。そんなハンナの様子に犬たちまで興奮し、ちょっとしたお祭り騒ぎになってしまったほどだ。

 エリーシャが初めて仕留めた鹿の皮は売りに出さず、二人分のポーチを作ることにした。肉はもちろん犬たちも含め全員で食べた。



 夏が終わりを迎え、冬支度の季節が来た。



 ハンナだけではなくエリーシャも獣を狩れるようになったため、この年の冬支度は格段に早く済んだ。

 毛皮もたくさん集まり、訪れた行商人を驚かせた。

 エリーシャの狩りの上達を聞いた行商人は、

「それはそれは、ようございました」

 とやはり自分のことのように喜んでくれた。

 砂糖に塩、それから粉にした小麦。それらがぎっしりと詰まった鞄を背負い帰る道は、不思議と足が軽く会話も弾んだ。

 肉を加工し、山菜を干し、ベリー類は砂糖で煮詰める。

 干した毛布を寝台に重ね、火石を山ほど拾い集め、家の屋根に脆い部分ができていないか点検する。

 一日一日、夕暮れが早まり朝が遅くなる。吹く風は冷たく、朝晩の冷え込みが続いたある日。空から白く冷たい欠片が落ちた。

 長い長い冬。

 エリーシャにとっては、この森で暮らし始めてから四度目の冬が来た。


 雪の日は出歩かないことに決めている。森で迷ってしまえば命に関わるからだ。外に出るにしても家のすぐそばだけ。犬たちもどうやらそうしているようだ。

 雪の日のハンナとエリーシャは日がな一日おしゃべりをしていた。最低限の生活だけをこなし、あとは火石を入れた暖炉の前で二人毛布に包まっている。おしゃべりに疲れれば二人黙って犬を撫で、うつらうつらと居眠りもした。時々外へ行きたがる犬を外に出してやったり、帰ってきた犬を中に入れてやったりはするが、本当に動かずに一日を終える。

 雪が止めば外に出て雪かきをした。雪はうんざりするほど降り積り、家も森も何もかもが埋まってしまいそうだった。

 おそらく冬中家に篭っていても暮らせる程度の蓄えはあった。とはいえ、何が起こるのかわからないのが生活だ。雪が降らない日には狩りにも出た。あまり成果はよくないが、エリーシャもハンナも蓄えがあるので気楽なものだった。犬たちは走れることそれ自体が楽しい様子で、飽きもせず雪原を走り回っていた。


「おはよう」と「おやすみ」、「寒いね」と「雪すごいね」を繰り返し、「春になったら何をしようか」を飽きもせず話し合う日々が続いた。



 寒さにも慣れ、むしろ「最近あんまり寒くないかも」と思い始めた頃だった。

 その日は三日間の曇りが続き、積雪もそれほどであったので、ハンナとエリーシャはそれぞれで狩りに出かけることにした。

 エリーシャは三兄弟犬と白狼を連れ家を出た。白狼の子は留守番だ。この二匹は冬の間にどんどん身体が大きくなり、顔つきだけが未だあどけないだけでほとんど子供とはいえなくなっている。きっと春になれば母である白狼が狩りを教えてやるだろう。

 空気は切るように冷たく、吐く息は白く立ち上る。積もった雪は柔らかで、かんじきを履いていなければ歩くことすらままならない。

 エリーシャも犬たちも雪には慣れきっている。斜面だろうがずんずん進み、獲物になりそうな獣を探した。

 途中二度ほど小休止を挟み、森を歩いた。低い位置をのろのろと進む太陽は中天に差し掛かろうかとしていた。

 ふと、先頭を歩いていた狼が止まった。ピンと耳を立て、立ち並ぶ常緑樹の先を見通すように見つめている。三兄弟犬もそれに倣うかのように立ち止まった。

 常であれば獲物の気配には犬たちが真っ先に気付く。エリーシャの耳では拾えない僅かな物音や匂いが彼らにはわかる。

 今は違った。犬たちと同時、エリーシャもその気配に気付いていた。

 狩りの獲物──野生の獣は己の気配を消すものだ。ほんの僅かな足音や吐息ですら、仲間以外に知られては命取りになる。森で生きるものとしては当然だ。

 つまりこの騒々しく荒々しい気配は森に生きるものではない。

「見に行こう」

 エリーシャは潜めた声で犬たちに促した。指示があれば放たれた矢のように駆けて行く彼らだが、今はエリーシャに歩幅を合わせている。

 足早に、しかし最大限気配を殺しながらエリーシャは森を進む。

 たどり着いた先で森は切れていた。そこは急な斜面になっており、あまり深くはないが谷のようになっている。街道のようだ、とエリーシャは思った。

 エリーシャはそこを駆ける二つの影を見た。

 力強く駆けるそれは予想通り森の獣ではない。正確には獣であるが、飼い慣らされた獣だ。

 馬だ。二頭の馬が雪を蹴立て、猛然と走っている。

 野生の馬ではないその二頭には、当然騎手が乗っている。

 彼らは防寒用だろう外套を羽織っている。寒風を受け靡く布には彼らの身分を証明するものであろう紋章が縫われている。

 エリーシャはそれを知っている。嫌というほど見ていた。

 忘れたはずの『寒さ』がエリーシャの背を走る。


 王国の最北端。そこに存在する監獄を警護する者。


 北の果ての森にいるはずのない警護兵がそこにいた。


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