第6話

 この日、エリーシャは狩りをするつもりで家を出た。狙うのはウサギだ。

 ハンナはいつも通り、鹿を探して別行動だ。四匹の犬と共に森の北へ向かった。

 エリーシャと三兄弟犬だけでの行動もだいぶ板についてきた頃合いだった。ハンナから教わった狩りの方法は、犬たちが獲物を探し、追い立て、エリーシャが手斧で仕留める。そういった手順を踏む。

 ハンナに狩りを習って独り立ちしてからのエリーシャは、ウサギやイタチ、狐を見つけたこともある。ただ、仕留めるには至っていない。見つけて、追い立てるまではよかったのだが、エリーシャが手斧を外したり、犬たちが途中で獲物を見失ったりして失敗してしまった。仕留められたのは、冬の終わりに狩ったウサギだけだ。

 同行するのが三兄弟犬だけになってからは、一度も狩りが成功していない。一日の成果が道中で見つけた野草だけ、という日々が続いている。

「草だって生きるのに必要だもの。エリーシャはちゃんとお仕事できてるよ」

 消沈するエリーシャの頭をハンナは撫でてくれるが、エリーシャはやはり自分で獲った肉が食べたかった。

「今日はいける気がする!」

 威勢よく森へ入り、エリーシャに同調したのかやはり元気いっぱいの犬たちと進んでいく。

 道中、食べられる新芽や野草を摘み、犬たちの鼻に任せて進んで行った。


 梢の合間から見える太陽が高くなったころ。


 突然犬が立ち止まった。三匹とも、同じ方向を向き、ピンと耳を立て集中している。

 なんだろう、とエリーシャも立ち止まり犬たちの視線の先を見据える。春も終わりを迎えた森は緑が濃く、先が見通せない。だが犬たちの様子を見るに、この先に獣がいるのは確実だ。

「行って」

 エリーシャが囁くと、三匹の犬たちは一斉に駆け出した。瞬きの合間に緑の波間に消えた犬たちを追い、エリーシャも進む。手斧で枝を払い、下草を踏み締め、断続的に響く吠え声を追い。

 たどり着いた先には犬がいた。

「え」

 否、よく見ればそれは犬ではない。確かに大きさはエリーシャが共に暮らす犬たちと同じくらいだが、顔つきと剥き出した牙は犬たちよりも鋭い。毛並みはエリーシャが羽織る毛皮と同じ。

 狼だ。白い狼がそこにいた。

 狼は牙を剥き出し、低い唸り声を上げている。相対する三兄弟犬も同じく、今にも飛びかからんばかりに唸る。

 手にした手斧を握りしめ、しかしエリーシャは逡巡する。

 その狼は手負いだった。白い毛皮の腹の辺りが真っ赤に染まり、出血は今も止まらずその足元に血溜まりを作り続けている。

 チャンスだ、と思うと同時、手負いの獣が最も恐ろしいと言う話をエリーシャは思い出していた。

 ハンナの太ももには大きな傷跡が残っている。それはハンナがエリーシャと知り合うずっと前、仕留めたはずの鹿の角に引っ掛けられてできたものだと聞かされた。

 狩りは、獲物が本当に息絶えるまで油断してはいけない。それがハンナの教訓だ。

 自分と犬たちだけで、この狼を狩れるだろうか。狼の気迫はエリーシャを威圧している。

 と、四匹の獣たちの唸り声の中に、場違いな鳴き声が混ざった。

「あ」とエリーシャは思わず声をあげていた。

 血に塗れ、それでも牙を剥く狼の背後。そこには太い木の根の奥に続く巣穴が掘られていた。その穴から今まさに顔を出したのは、二匹の仔狼だった。

 灰色と白色の二匹は無垢な瞳を狼に向けている。

 母親だ。とエリーシャは悟った。

 きっともうすぐ死ぬであろう怪我を負い、それでも逃げも隠れもせず犬たちを威嚇する。

 それはきっと子を守るため。母性からくる必死の抵抗だ。

「みんな、下がって」

 エリーシャは手斧を下ろし、犬たちの背に触れる。困惑が毛皮越しに伝わる。が、不服そうな視線を向けつつも、犬たちは唸りを収め、エリーシャよりも後ろに下がった。

 この狼は狩ってはいけない。どうしてかエリーシャはそう感じていた。

 犬たちが下がっても狼は牙を剥いたままだ。武器を収めたとはいえ、エリーシャは狼にとって未知の相手。警戒するのも無理はない。

 ほぼ四つ這いになるほどに姿勢を下げ、エリーシャは荷物を下ろした。あくまでも動きはゆっくりと。二本の手斧も、獣の解体や調理に使うナイフも手放す。

 エリーシャは姿勢を低く保ったまま歩みを進めた。

「お願い、怒らないで。少し触るだけだから」

 エリーシャはじりじりと狼に近付く。真正面からは見据えず、狼の足元に向けた視線の隅で様子を見ながら、一歩ずつ。

 犬たちはエリーシャの行動に戸惑っているようだった。「下がって」の指示は守られているが、おろおろと狼狽えている気配が背後にある。

 それは狼も同様の様子だ。言葉が話せれば「この人間は何がしたいのだ」とでも呟いていただろう。ただ唸り声は段々と小さくなっている。

 エリーシャの伏せられた視界に狼の前足が入る。

「こんにちは、ご機嫌いかが?」

 耳元に囁く声音でエリーシャは言う。そうして握った拳の背を狼の前にそっと差し出した。


 これはハンナから教わった、犬への「初めまして」の挨拶だった。

 ハンナの犬たちのほとんどは、ハンナが保護し手厚く看護したエリーシャへ好意的だった。当時はころころの子犬だった三兄弟犬は特にそうで、エリーシャを遊び相手か同じ兄弟と見ているかのように懐いていた。

 だが犬にも個性がある。ハンナが大事にするのなら、と無条件で信用してくれる犬もいれば、それでも不信感が抜けきらない犬もいる。

 そういった犬たちへ対して、ハンナが指導しエリーシャにさせた挨拶。それがこの行動だ。これでようやくエリーシャはハンナの犬たちに家族として認められた。

 もちろんそれはハンナに懐いた、人間と暮らすことに慣れた犬だから通じた挨拶だとも言える。野生の狼に通じるかはわからない。

 それでもエリーシャは試した。


 この狼を殺してまで毛皮や肉を得なければならないほど、エリーシャは飢えていない。

 この狼は母親で、狼の子たちは一人で生きられないほどに小さい。

 確かにむやみに獣を殺してはいけないが、かといってむやみに助けてもいけない。「かわいそうだから」といってその場をやり過ごさせたとして、それからずっと生きていけるかはわからない。

 最善なのは、この場を黙って離れ、狼が生きるか死ぬかは自然に任せることだ。それはエリーシャも知っている。


 でも。

 この狼を助けたい。助けなければならない。


 エリーシャにはその力がある。

 追放刑が言い渡されてから使うこともなく、自分ですら忘れていた癒しの力。

 もしかすれば、父が死に母に見捨てられ、いつか助けた貴族たちにすら糾弾の目を向けられたショックがエリーシャに忘れさせていたのかもしれない。

 今のエリーシャは。この力で狼を助けたい、という思いが体の奥底から湧き上がっていた。

 子を見捨てず立ち向かう母親、と言う姿に抱いた憧憬。羨みながらもそんな母親に応えてやりたい、と言う思い。

 それがエリーシャを突き動かしていた。


 噛まれても構わない。エリーシャは痛みに対する恐怖を抑えつけ、じっと狼の行動を待った。

 狼の唸り声はほとんど聞こえない。鼻筋に皺を寄せてはいるが、歯を見せてはいない。

 エリーシャの差し出した拳の背に、ゆっくりと狼の鼻先が寄せられる。黒く乾いた鼻。狼が疲弊しているであろうことをエリーシャは悟る。

「ごめんなさいね、怖いことはしないから」

 エリーシャは静かに語りかける。そうして指の一本ずつを慎重に開き、狼へ手のひらを見せる。

 狼は牙を剥かなかった。黒々とした瞳で、じっとエリーシャの一挙手一投足を観察している。

 エリーシャは手のひらを狼の頬へ寄せた。今度こそ噛まれるかもしれない。そう覚悟しながら。

 狼の毛皮は硬かった。だが、その奥に密度の高い毛の柔らかさと、生きた獣独特の命の温度を感じさせた。

 自分の羽織る毛皮と似ているが、根本的なしなやかさが違う。そんなことを思いながら、エリーシャは目を閉じる。狼に触れたまま、自分の体と狼の体の形を思い描く。


 エリーシャの手があり、足があり、頭があり、胴がある。

 狼の前足があり、後ろ足があり、尾があり、頭があり、胴がある。

 今、エリーシャの右手は狼の顔に触れている。そこでエリーシャと狼は繋がっている。

 繋がっている、とエリーシャは確信した。

 確信すると同時、エリーシャは自分の中に灯っていた熱を狼へと流し込む。それはエリーシャが「狼を助けたい」と思ったその時に灯った、エリーシャの命の火だ。


 びくっ、と狼は全身を震わせ、飛び退った。未知の感覚への驚きで、だろう。再び牙を剥き、エリーシャへ一声吠えた。

 下がらせていた犬たちが応戦するかのように吠える。

「大丈夫、大丈夫だから」

 エリーシャは額に浮いた汗を拭い、三兄弟犬へ手を振る。狼は既に吠えるのを止めていた。

 狼はキョロキョロと辺りを見回していた。その腹からの出血は既に止まっている。毛皮が一部禿げてはいるが、そこから見えるのは肉の色ではなく健康的な皮膚だ。

 それまで自身を苛んでいた痛みが消えた。狼はおそらくそのことに戸惑っていた。

「よかった」

 これできっと狼は助かる。

 自分は癒しの力を失ってはいなかった。

 二つの意味でエリーシャはつぶやいた。


「お暇するね。もうここには来ないから、安心して」

 膝についた土と草を払い、エリーシャは犬たちの下へと戻った。尾を振りエリーシャの手を舐める犬たちをそれぞれ撫でてやる。

 犬たちは鼻を鳴らしている。まだ狩りも下手なエリーシャが突然一人で、それも武器も何も持たずに獣の前へ体を晒したのだ。本当に心配だったのだろう。

「ごめんね、今日はもう帰ろ」

 日はまだ高いが中天を過ぎている。暗くなる前に森を出るにはもう行かなければ。

 荷物を背負い直し、エリーシャは三兄弟犬を促した。

 最後に振り返った時、狼は二匹の仔狼にまとわりつかれていた。ただその瞳だけは、真っ直ぐにエリーシャへ向けられていた。



 そうしてエリーシャは犬たちと共に帰途へついたのだ。



 始めに気付いたのは犬たちだった。

「どうしたの?」

 いつもであれば、エリーシャの先を行く犬たちが何度も後ろを振り向き、帰ろうとしない。数歩進んでは振り向き、数歩進んではエリーシャを仰ぐ。

 獲物を見つけた反応ではない。であれば、まずはそちらを注視してエリーシャに気付かせるはずだ。

 犬たちは背後を気にしている。気にしながら、それをどう扱って良いものか判断しかねている。

 一体何を気にしているのだろう。

 エリーシャは犬たちが気にする方向を何気なく見て──そして気付いた。


 小さな立ち耳に白い毛皮。逞しい体躯と太い尾。黒く艶のある瞳。


 見間違いようもない。先ほど癒した狼が、そこにいた。

 二匹の小さな狼も一緒だ。


 エリーシャは思わず視線を前に戻していた。狼に対して何の反応もしていない。存在に気付かなかった、とも取られる速度だった。

 どうするんですか? とでも言いたげな、三匹の犬たちの視線が向けられる。

「どうしよう……」

 とりあえず歩みを進めながらエリーシャはつぶやく。止まらず進まなければ、森の中で日が暮れてしまう。

 歩きながらエリーシャは思案する。

 もしかしたら、狼たちはこっちに用事があるのかもしれない。子ども連れだから、狩りではない。水場があるわけでもない。

 そうだ。さっきあった巣穴はエリーシャに見つかってしまったから、引っ越すのだろう。

 うん、きっとそうだ。

 エリーシャは自分自身へ言い聞かせながら、ざくざくと下草を踏み分け森を進む。三兄弟犬は今もエリーシャの少し後ろを歩いている。

 今振り向けば、もう狼の白い影はないだろう。大分森を進んだから。

 エリーシャは思い、そうして振り向いて──

「…………やっぱりついてきてる」

 思わずこぼしていた。エリーシャを見上げた犬が鼻を鳴らす。


 エリーシャは立ち止まったまま頭を捻った。

 狼はエリーシャについて来ている。この際それは認めよう。認めなければ話が進まない。

 このままでは狼を家に連れ帰ってしまう。家まで入ってくるのか、それとも家の近くに営巣するのかはわからないが、どちらにせよ同じだ。

 狼の目的は何なのだろうか。獣の目的は人間とは違い単純だ。「生き抜くこと」。それだけに尽きるだろう。

 ただ彼女は子どもを連れている。であれば、それに加え「子どもを独り立ちするまで育てること」も目的にあるはずだ。


 そこでふとエリーシャは気付いた。

 どうして彼女は一人なのだろうか。

 狼は群れで暮らす生き物だ。一匹狼と言う存在もあるが、子どもは一匹では産めない。父親にあたる狼がいるはずだ。彼はどこへ行ったのだろうか。

 狼は情に厚い生き物だとエリーシャは聞いたことがある。特に夫婦になった狼は、片割れを亡くしても別の狼と番うことがないほど愛情深いらしいとも。

 そんな生き物が、小さな子どもを捨てて出奔するなどあり得るのだろうか。


 そしてまたエリーシャは気付いた。

 どうして彼女はあんなにひどい怪我を負っていたのだろうか。

 あの時は癒すのに夢中で気に留めていなかったが、あの怪我は何か大きな獣の爪か牙でつけられたもののように思えた。


 エリーシャは推測する。

 彼女たちの群れは、何か大きな獣の襲撃にあったか、狩りに失敗し返り討ちにあったのではないだろうか。

 彼女は仲間も夫も亡くし、自身も大怪我を負いながら、それでも子どもを守ろうとしていたのではないか。

 そこに現れたのがエリーシャだった。

 この森に住む狼たちが、どの程度人間との交流があるのはわからない。しかし、初対面のあの顔を思えば、狼にとって人間は敵でしかなかっただろう。

 エリーシャはそうではなかった。傷を癒やし、そのまま立ち去った。


 彼女は──群れも夫も亡くし、それでも子どもを育てねばならない母狼は、エリーシャに助けを請うているのではないだろうか。

 エリーシャは犬を連れている。狼と見間違うほどに大きい犬だ。

 エリーシャはその犬たちに「下がって」と命令していた。狼からすれば、この群れのリーダーはエリーシャであるように見えただろう。

 癒やしの力を持つ者がリーダーである群れが、野生の狼にとって魅力的であることは想像に難くない。


 エリーシャは捩じ切れるほどに頭を捻った。

 先に手を出したのはエリーシャだ。本来であれば死に至るはずの怪我を治した。そこから先、彼女が一匹で子どもを守っていかなくてはならないと知りながら。

 彼女はエリーシャの「群れ」に加わることを望んでいる。それが彼女自身、何よりも小さな子どもたちが生き延びる最善策だと知っている。

 なぜそうだと思ったのか。

 エリーシャが彼女に情けをかけたからだ。

「手を出したのならば、最後まで面倒を見なさい」

 とは、エリーシャがいつか読んだ物語の一節にあった言葉だ。それも確か、野生の獣を助けた子どもにかけられた言葉だったはずだ。

 エリーシャは彼女を、子どもを守ろうとする母親を助けたいと願った。だから癒やした。

 ならば、援助を請われたのであれば面倒を見るべきだろう。


 懸念事項はある。

 狼は犬たちと共存できるのか。

 狼の親子三匹が加わった分の食べ物は賄えるのか。

 本当にこの狼はエリーシャ──そしてハンナへ牙を向けないのか。


 うん。とエリーシャは大きく頷いた。

 それは自分自身へ向けての決意であり、彼女へ向けての受諾であった。


 エリーシャが大股で歩み寄るのを見ても、狼は動かなかった。それどころかエリーシャを待ち構えるかのように悠然と座り、エリーシャを見上げていた。

「私はエリーシャ。この子たちは三匹とも兄弟で、私の狩りに協力してくれてます」

 エリーシャは自身の胸を示し、次いで恐る恐るついてきていた三兄弟犬を指し示した。

「これから家に帰るところで、家にはハンナがいます。私よりも大きくて強くて優しい人です。

 あと犬ももっといます。この子たちのお母さんもいます。

 ええとそれで……」

 狼はじっとエリーシャを見つめている。黒く澄んだ瞳は理知的で、エリーシャには彼女がエリーシャの言葉をきちんと理解しているように見えた。

 エリーシャは地面に膝をつき、手を差し出す。

「一緒に来ますか? お子さんも一緒に。余裕があるわけではないので、狩りを手伝ってもらえると助かります」

 狼は吠えも唸りもせず、エリーシャの手を舐めた。滑らかで温かい舌だった。

 くすぐったく、そしてどうしてか胸が温かくなり、エリーシャは微笑んだ。

 もやもやと頭の中で燻っていた不安が溶けていく。

「子ども、まだいっぱい歩くの大変だよね? よければ私が抱いて行くけど」

 狼の腹の下には二組のつぶらな瞳があった。好奇心の隠し切れないやんちゃな目だ。

 狼がエリーシャへ差し出すようにその鼻面で二匹を押しやる。すると「許しは得た」とばかりに短い尻尾を振り、エリーシャの手にじゃれついた。

「よしよし、いい子にしててね」

 ふわふわで、ころころで、温かく獣くさい毛玉を二つ、エリーシャは腕に収める。

 エリーシャが狼と話す間、三兄弟犬は精いっぱい首を伸ばすようにして狼の匂いを嗅いでいた。やはり野生の獣は怖いのだろう。ただ、狼が避けるでもなく泰然としているのを見ると、途端に尾をふりふり近付いた。

 犬たちは狼が彼女の鼻先──鋭い牙を隠した口元を近付けても、喜んで匂いを嗅がせていた。むしろ「遊ぼう」とでも言うかのように、体を低くして尾を振っている。

 エリーシャはそれが彼らの挨拶だと知っている。この分であれば、他の犬たちとも打ち解けられそうだ。

「よし、じゃあ帰ろっか」

 エリーシャが歩き出せば、犬たちも歩き出す。もちろん狼もそれに続いた。

 ハンナには何と説明しようか。腕の中で鼻を鳴らす小さな狼を見下ろし、エリーシャは思案する。

 とはいえ、エリーシャは何の心配もしていなかった。ハンナなら、エリーシャが正直に事情を話せば「いいよ」と言ってくれる。そんな確信があった。

 狼を家に入れるのには難色を示すかも知れないが、その時はエリーシャが廃屋を直して狼たちに使わせてやるつもりだ。家を直すなど初めてのことではあるが、なんとかして見せよう。

「あとは私が頑張って、みんなのごはんを狩ればいいんだもんね」

 エリーシャは犬たち、そして狼の母子を見下ろし自身を奮い立たせる。

 子を守る母親を見捨てなかった。その行動は、エリーシャの心の深いところにある古傷をじんわりと温めた。





「わあ、犬だ!」

 ハンナはエリーシャが連れ帰った白い狼を見てそう言った。

「犬なの?」

「犬でしょ? だって、そっくりだよ?」

 しゃがみ込んで視線を下げたハンナの前に狼は伏せた。ハンナよりも先に、ハンナへついて行っていた犬たちが集まって彼女を嗅ぐが、狼はやはりおとなしかった。

「こんにちは。初めまして。よろしくね」

 ハンナの柔らかな声音と拳に、狼はその濡れた鼻先で触れることで答えた。

「……ハンナ、狼って見たことある?」

「あるよ! これ」

 挨拶を済ませてからは遠慮なく狼を撫でるハンナは、自身の羽織る毛皮を指差した。黒に近い褐色の毛皮。それは大柄なハンナの背を丸ごと覆い隠せるほど大きい。

「じゃあ私のは?」

「それも狼だよ」

 ひとしきり狼を撫で回したハンナは手についた抜け毛を払い立ち上がる。その足元を二匹の毛玉が倒けつ転びつ駆けていく。跳ね回る子狼を追うのは三兄弟犬だ。とは言っても本気ではなく、加減をしながら追い立て噛み付くふりで遊んでやっている。

「ハンナ、生きてる狼を見たことある?」

「ないよ? 毛皮はハンナがちいちゃい頃におじさまが狩ったんだって

 あっ でも犬よりも大きくて、怖い獣だってことはちゃんと知ってるからね」

「そっか……」


 この森で二十年以上も暮らしていて、生きた狼を見たことがない。そんなことがあるのだろうか。

 あったのだろう。

 ハンナによれば、ここはハンナの母親とおじさま以外にも人が暮らしていたことがある場所だ。犬も十匹近くいる。それにハンナのおじさまが狼の毛皮を二枚もこしらえていたのを鑑みれば、狼たちがこの場所と人間を脅威だと断じていてもおかしくはない。


 そこでふと、エリーシャは思いついた。

「おじさまが飼っていた時の犬って、ハンナは全部覚えている?」

「うん? うーん……」

 ハンナの視線が宙に浮き、その意思の強そうな眉がぎゅうと寄る。

 無言の間があった。

「い……っぱい……?」

「ハンナ、ごめんね。もう大丈夫」

 そのまま後ろへひっくり返ってしまうのではないか、と言うほどに記憶を掘り返し始めたハンナをエリーシャは宥める。ハンナはエリーシャへ誠実であろうとするあまり、時折「思い出せない」といえなくなってしまうのだ。

「ごめんね、大切なことだった?」

「ううん、なんとなく気になっただけ。気にしないで。それよりごはんの支度しよ」

 エリーシャは作業場へとハンナの背を押す。今夜はハンナが狩った子鹿を食べることにした。


 ハンナの犬たちが「血の病」にかからなかったのはなぜか。

 エリーシャが知る猟犬よりもハンナの犬たちが大柄で力強いのはなぜか。


 ハンナのおじさまは、どこかで犬たちの血統に狼を混ぜたのではないだろうか。

 今日のエリーシャのように、群れからはぐれた一匹狼を迎え入れたのかもしれない。

 巣穴を見つけて子狼を攫ったのかもしれない。

 手段はエリーシャにはわからない。ただ、ハンナの犬たちと狼を見比べると、そうであると確信できてしまうのだ。


 だから犬たちは、狼の母子を歓迎したのかもしれない。


 その日の夕食は、白い狼がエリーシャとハンナどちらへついてくるのか、大きくなった子狼はどうなのか、という話でひとしきり盛り上がった。

 話題の元である狼はというと、まるで知らん顔をして犬たちと共に室内で寝そべっていた。

 その小さな立ち耳はエリーシャたちへ向けられているように見えた。

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