第5話
森に鮮やかな新芽の色が増え始めた頃、行商人はやってきた。
行商人の来訪に気付くのは犬たちだ。いつもであれば各々好き勝手に過ごす彼らが、同じ方向に耳と鼻先を向け、一番年嵩の犬がハンナの袖を引く。それが行商人が森を訪れた合図だった。
行商人は行商人で、商売の準備ができた時に煙の多い火を焚いて知らせてくれる。それよりも先に犬から教えられたハンナは、あらかじめ売るための毛皮を準備しておける。おかげで煙が見えた時すぐに出発できるのだ。
エリーシャはウサギの皮と引き換えに砂糖菓子を買った。幾度か前の春、エリーシャが破れた服で買ったものと同じ砂糖菓子だ。
ウサギの皮がエリーシャの初めての獲物だと聞いた行商人は、
「それはようございました」とくしゃくしゃの笑顔を見せた。
どうしてかハンナも胸を張り、エリーシャは面映くてはにかむばかりだった。
ハンナはこの日までに集めた毛皮で塩と砂糖を買った。冬の準備のためにほとんど使い切っていた分の補充だ。
小麦も欲しかったが、入荷がまだであるらしい。代わりに芋を少し買った。
「またいずれ」
「またね」
そう言い合って行商人と別れた。
帰りしな、エリーシャはハンナと一粒ずつ砂糖菓子を味わった。ただの砂糖の塊だが、どうしてだかハンナと分け合うと格別の美味しさを感じられる。以前買ったものは、雪が降り続き外に出られない冬の日や、大きな鹿を取れた日など、特別な日にやはり一粒ずつ食べ、そうしてだいぶ前に無くなったのだ。
今回のものも大切にしよう。舌の上に残るわずかな甘みに頬を緩め、エリーシャは砂糖菓子の瓶を大切にしまった。
それから数日はいつもと変わらず過ごした。春になり活発になった獣をハンナとエリーシャは追う。その合間、食べられる草や木の若芽を集める。
犬たちも、いつもと変わらないように見えていた。
朝食はほぼ毎日前夜の残りだ。
朝食の後片付けが済むと、エリーシャとハンナはそれぞれ外出の準備をする。外で食べられる干し肉や、怪我をした時に使える包帯、水を詰めた皮袋をそれぞれ鞄に詰める。初めて背負った時にはその重さに驚いたものだが、今ではエリーシャもその鞄を背負って一日中森を歩き回れる。
「ハンナは今日は南の平地に行くね。鹿が草を食べにくるかもしれないから」
「うん、私は森の西に行くね。あそこの木の新芽はまだ取ってないから。ウサギが取れたらいいんだけど……」
「無理はしない!」
「うん。ハンナもね」
そうしてお互い日が落ちる前には帰ってくる、と確認し合い、家を出た。
犬たちは四匹ずつハンナとエリーシャについて行く。ハンナもエリーシャもどの犬を連れて行くかを選んだことはない。犬たちが勝手に決めて、勝手にどちらかに従っていた。
エリーシャが連れているのは、エリーシャが森に来た年に生まれた三匹と、その母犬だ。いつかはころころとしたぬいぐるみに見えた彼らだが、今は立派な成犬だ。母犬は彼らと模様は違っているが、耳の形がよく似ている。
ハンナについているのは残りの四匹だ。ハンナ曰く、一番年上の雄犬と、その息子と娘、それから雄犬の兄弟の子であるのだそうだ。
犬たちはほとんど毎日、その組み合わせで二人について行っていた。
出かける寸前、エリーシャは気付いた。
「ハンナ、犬一匹足りないね?」
「うん。一番年上の子ね、今日は行かないって」
「そうなんだ」
犬たちは自由意志でエリーシャとハンナについている。もちろん、ついていかない日もある。
ハンナもエリーシャもそれを咎めないし、気にしていなかった。
だからこの日も「そういう気分の日なのだろう」と気にすることなく二人は出かけた。
ハンナは小さな雌鹿を一頭狩り、エリーシャは籠いっぱいの新芽を取り、日が暮れる前に家に帰り着いた。
そうして、一番年上の犬が動かなくなっているのを見つけた。
日の落ちた部屋の中、彼は一番日当たりの良い窓の前に横たわっていた。ただ眠っているだけにも見える、穏やかな顔をしている。
けれどどんなに揺すっても、撫でても、彼が目を開けることはなかった。
ハンナは彼を古いシーツに包んでやった。
翌朝早く、ハンナは彼を弔うと言って背負子に彼を乗せた。エリーシャはそれについて行った。ハンナが何をするのかわかっているのか、いないのかはわからないが、犬たちも皆ついてきた。
ハンナが向かったのは森の北西側だった。空気に新緑の青い匂いが濃く香る中、二人と七匹で黙々と歩く。
唐突に森が切れ、たどり着いたのは切り立った崖の端だった。そこからは、はるかに続く森の濃い緑と聳える山々がよく見えた。
背負子を下ろし、ハンナはシーツに包んだままの犬を抱き上げた。
崖の縁に立ち、ハンナは一度シーツをぎゅっと抱きしめた。それから崖下へと放った。
しばらくハンナはそのまま立ち尽くしていた。崖下から吹き上げる風が彼女の赤い髪を乱し、癖のある毛先は火のように踊っていた。
「今までいた犬も、こうしたの?」
ハンナの隣に並び、エリーシャは初めて崖の下を見下ろした。足が竦むのを忘れるほど遥かな先に、川の流れが見えた。雪解け水が山から注いでいるのだろう。太い流れの激しさは崖の上にまで水飛沫が飛ぶようだ。
「うん。おじさまが連れていた犬たちも、おじさまも、母さまも」
穴を掘るのも、再び埋めるのも、墓標を作るのも重労働だ。ここがお墓の代わりなのか。とエリーシャは察した。
「そっか」
エリーシャはハンナが見ている景色を見た。木々と、山と、空。猛禽の類だろうか。ゆったりと弧を描き飛ぶ大きな鳥がいる。群れを成して飛び立った小鳥たちがいる。どこかで鹿が鳴いた。
エリーシャは想像した。ハンナがシーツに包んだ自分を放る姿を。
エリーシャは想像した。自分がシーツに包んだハンナを放る姿を。
どちらも胸がきつく締め付けられる想像だった。
それから更に連想した。ハンナがシーツに包んだハンナの母親を放る姿を。
エリーシャはハンナの母親を知らない。どうして亡くなったのかも、どんな人だったのかも。だからこれは全て妄想だ。
それを行ったのは、今よりも少し若いハンナだ。今のエリーシャと同じか、少し年上くらいかもしれない。彼女は唇を噛み締め、泣き腫らした目で崖に立っている。犬たちは今と同じように、少し離れてその作業を見守っている。何が起きたのかは理解していなくとも、神妙にしていただろう。
エリーシャはひどく胸が痛むのを感じた。
「ハンナ、そろそろ寒い」
エリーシャが袖を引くとハンナはハッとした様子でエリーシャを見下ろした。
「ごめんね、ぼーっとしちゃってた」
「もう少しかかる?」
「ううん」
帰ろう、とハンナはエリーシャの手を取った。
「帰ったら鹿皮の処理をしないと。エリーシャ、手伝える?」
「うん、もちろん」
ハンナとエリーシャが歩むのに合わせ、それまで大人しく座っていた犬たちが立ち上がった。行きとは違い、さっさと帰ってしまう犬や近くの犬に戯れかかる犬など、またそれぞれが好きに過ごし始める。
去り際、エリーシャは少しだけ崖を見た。薄曇りの空に向かい、小さく手を振る。
「エリーシャ?」
「なんでもない」
春が来たとはいえ、北端の森の風はまだ冷たかった。
※
一番年上の犬が亡くなり、数日。犬たちの組み合わせに変化が起きていた。
エリーシャについてくる犬は三兄弟犬だけになり、それまでついてきていた彼らの母犬はハンナについていくようになった。
「ハンナ、頼りないのかなぁ」
首を捻るハンナだが、犬たちが決めたことに口出しはしないらしい。前日の狩りでは四匹の犬がついてくるのに任せていた。
この日は狩りには出ず、家の周りの細々とした補修や掃除をしていた。
家の裏の作業場は、獣の皮をなめしたり肉を料理したりするための場所だ。さまざまな道具類や大きな鍋、竈といったものがある。作業をする度に掃除や片付けはしているが、やはり細かなところはおざなりになりがちだ。時々は掃除だけを集中してやらなければならない。
あらかたの掃除は終わり、あとは道具類の整備を残すのみで今は休憩中だ。
並んで土間に座ってエリーシャとハンナは干し肉を齧っている。その傍らに、一口でも肉をもらえないかと犬たちが集まっていた。作業中は寄り付きもしなかったくせに現金なことだ。
「ハンナの方が大きい鹿とか狙うから、お手伝いしたいんだよ」
「そうかなぁ」
「それにきっと、この子たちももう大きいから。子供たちだけで頑張りなさい、ってことだよ」
エリーシャの手に残る一欠片の干し肉を、顔立ちのよく似た三兄弟犬が食い入るように見つめている。
一足先に干し肉を食べ終えたハンナの側に犬はいない。集まるのが早ければ解散も早い犬たちだ。ただ一匹、三兄弟の母犬だけがハンナに撫でられて残っている。
「そうなの?」
とハンナに毛深い両頬を揉まれながら尋ねられた母犬だが、ハンナの鼻先をペロリと舐めただけで返事はしなかった。
「私も頑張るからね、今におっきな鹿とか獲ってくるから」
「エリーシャ、無理は」
「しちゃだめ、ね。それはわかってるって!」
ハンナは母犬の頬を撫でたまま、不安げな瞳をエリーシャに向けていた。
いとも簡単に獣を狩ってみせるハンナだが、誰よりも獣たちの危険性を熟知している。狼や熊はもちろん、鹿やウサギといった草食動物でも、油断をすればこちらが怪我を負わされる。幼いハンナが傷を負った話をエリーシャはいくつも聞かされた。
「だめだなーって思ったら手出ししないから、安心して」
それでも若草色の瞳から不安の影は消えない。
エリーシャは一欠片残った干し肉を口に放り込んだ。三兄弟犬が同じように目を見開いて、心なしか尻尾を落としたまま去っていった。エリーシャはそれを気にしない。
手についたクズを払ってから、エリーシャはえいや、とハンナの柔らかな髪をかき混ぜる。ちょうど先ほどハンナが母犬にしてやったように。
「わ、ちょっと、エリーシャ!」
「あはは」
「もう!」
二人が戯れ合っている間に、母犬は自分の用事は済んだとばかりに他の犬たちのところへと去ってしまった。
エリーシャは足を投げ出し、ハンナは膝を抱えて座ったまま、二人はぼんやりと宙を見ていた。開け放した裏の戸口から風が吹き込み、埃っぽくなっていた室内の空気を浚っていった。
「そういえば、犬ってどこかから来たりするの?」
「うん?」
「ええと、私みたいに。誰かがここに捨てていった子とか、いる?」
「うーん、いないと思う。ずっとおじさまが飼ってた子たちだけで、たまに子供が産まれて増えることはあったけど」
「そっか」
エリーシャにはふと思い出した話があった。
「昔、猟犬をいっぱい飼っている人から聞いた話があって。
血筋の近い犬同士で子供を産ませ続けてると、血の病気になっちゃうって」
「血が病気になるの?」
「うん。産まれても長く生きられなかったり、どうしても怒りっぽかったり、体が弱かったり。
両親が丈夫でもそうなっちゃって、薬でもどうにもできないって。
だからどんなに優秀な猟犬同士でも、兄弟だったり従兄弟だったりしたら掛け合わせないんだって」
「ふーん?」
ハンナは抱えた膝の上で首を傾げる。
ハンナの犬──ハンナのおじさまが飼っていた犬たちは、おそらくはずっと同じ血筋同士で番ってきたはずだ。北端の森の奥では他に犬を飼う人はいない。新しい血筋を迎える方法はなかったはずだ。
「でもハンナの犬たちはみんな元気だね」
彼らはみな体格が良く、ハンナやエリーシャのお願いも聞いてくれる。時々喧嘩をするが、怪我を負ったことはない。過日亡くなった犬も、ハンナによれば十年近く生きたという。
体調も気質も、犬たちに問題はない。
「元気だね。ハンナも元気だよ」
「うーん……」
エリーシャは首を傾げた。
エリーシャは実際に猟犬の血の病を見たわけではない。ただ父親の友人があまりにも真剣に猟犬の血統を書き留め、どの犬を掛け合わせるかを吟味していたから記憶に残っていただけだ。
もしかすれば、それは歯の妖精や妖精の取り替え子のような迷信なのかもしれない。
「まあ、元気ならいっか」
「そうだね」
犬たちは元気なのだ。気にしすぎる必要はないだろう。
「掃除早く終わったら、手斧の練習見てもらえる?」
「いいよ!」
ぐん、とハンナは勢いよく立ち上がる。座っている時は同じくらいの視線の高さであるのに、立ち上がると途端に見上げる高さになる。エリーシャは視線が同じハンナも、見上げなければならないハンナも、どちらも好ましく思っている。
黙ってエリーシャが差し出した両手を、ハンナは微笑みと共に引っ張り上げる。
※
困ったことになった。
細かな枝葉を避けながら森を歩き、エリーシャは思う。
いつもであれば帰路は先に立って歩く犬たちも、困惑した足取りでエリーシャの後に続く。
ふと立ち止まり、エリーシャは耳を澄ませる。今日は風が弱く、木々の葉ずれはごく静かだ。時折どこかで鳥が鳴く以外、獣の鳴く声もない。
収穫した野草を詰めた鞄を背負い直しながら、ちらと振り向く。
「やっぱりついてきてるよね……」
呟きに同意するように、犬が「ヒン」と鼻を鳴らした。
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