第4話
「おーい! 戻っておいで!」
子犬はすぐに見つかった。森の中、下草が薄くなった獣道を巻き尾は揚々と進んでいく。エリーシャの声など届いていないかのようだ。
エリーシャは朽葉と若草を踏み走った。時折飛び出す枝に難儀しながら、少しずつ距離を詰め。
「捕まえた!」
飛びつくようにして子犬を確保すると同時。エリーシャは開けた場所に転がり出ていた。
「おやおや。まあまあ」
聞き覚えの無い声。エリーシャは子犬を抱きかかえたままパッと顔を上げた。
「これまた可愛らしいお客さまですな」
「エリーシャ!?」
森の切れ目に居たのは一人の老人とハンナだった。二人は荷馬車を前に向かい合っている。
エリーシャはハンナを見て、ようやく「ひとりで森に入ってはいけない」と言い聞かされていたのを思い出した。子犬を捕まえるのに夢中で忘れていたが、あれだけ毎日言われていた約束を破ってしまった。きっとハンナは怒るだろう。頭が冷え、背筋が凍りつく。
ハンナは大股でエリーシャに歩み寄る。あ、と思う間に目の前に迫り。
「大丈夫? どうしてここがわかったの?」
「えと、子犬が逃げちゃって、それで追いかけてたらここに……」
慌てた様子でしゃがみ込み、エリーシャの髪や肩を払ってくれた。気付かぬ間にまとわりついていた木の葉や蜘蛛の巣が落ちる。
エリーシャに捕まっていた子犬は身を捩り、エリーシャの腕から逃げ出した。そうしてハンナについて行った犬に駆け寄る。激しく尾を振る子犬の顔を、その犬は優しく舐めてやっていた。
「そちらが例のおひい様ですかな」
ハンナに腕を添えられ立ち上がり、エリーシャは声の方へ向き直った。
背が低く、杖を手にしているが老婆とも老爺とも言い難い。そして老人だと思っていたが、声に比べると顔つきは若いような気がする。そんな不思議な空気を纏った人物がそこにいた。
「エリーシャ、と申します」
エリーシャは裾をつまもうとして空振り、記憶の中の父の真似をして不恰好ではあるが挨拶した。
「ふぇふぇふぇ、あたくしのことは商人とでもお呼びくださいな」
空気の抜けるような笑いだった。ただ敵意や悪意は感じられない。
「あたくしはそちらの狼のおひい様から毛皮を買っとります。お代金の代わりにこちらの中の品物を差し上げて、ね」
商人は馬車の幌を上げ、大仰な仕草で中を示した。
瓶詰めにされた何がしかの野菜や果物、ナイフや鉈といった刃物、袋詰めにされた穀物、それから衣類。馬車の中には所狭しと様々な物品が並んでいた。
「すごい、なんでもあるのね」
「なんでもはございやせん。きっとここで必要だろうと思うものを持ち込ませていただいとります」
ふとエリーシャの頭によぎったのは、今自分が纏う服とブーツだ。ハンナは自分のお下がりだと主張したが、それにしては綺麗だったこれらの品。
きっとその全ては、ハンナが狩り、そして加工した毛皮と交換でこの商人から買ったのだ。
「ハンナ、これ商人さんから買ってくれたの?」
「……うん」
見上げたハンナはどうしてか、怒っているような、緊張しているような強張った表情をしていた。この商人には何度も会っているはずだ。緊張するような間柄には思えないが、それとも毎回こんなにも緊張しているのだろうか。
「ハンナ?」
「あたくしが狼のおひい様からいただいた毛皮は、王都でも評判がよろしいのです。
ここ、北の果ての獣はみんな毛がみっしり生えておりますし、狼のおひい様の腕がよろしくてね」
ハンナの様子を気にすることなく商人は話続ける。
「王都まで運んでるの?」
「いいえ、あたくしはここから一番近い村に運ぶだけです。村に買い付けに来る別の商人が、王都まで毛皮を運び色々なものを作るのです。
そこは監獄を除けば王国の一番北の村でごぜえます」
ハンナの腕が強張った。ハンナの腕に触れていたエリーシャは一番にそれに気付いた。俯いた頬も緊張し、何か叫びたいのを堪えているようだ。
どうしてだろうか。エリーシャは商人の話を聞きながら、ハンナが気がかりで仕方なかった。
「なにぶん北の端っこでごぜえますから作物も良くは育ちません。でも皆が協力しあって暮らしとります。
おひい様。あなた様が望むなら、あたくしの馬車でその村までお連れしても良いですよ」
「……っだめ!」
「どうして?」
エリーシャの返事とハンナの叫びは重なっていた。
エリーシャは初めて耳にしたハンナの感情に驚き、ハンナを見上げた。
ハンナはその若草色の瞳に当惑を浮かべ、エリーシャを見下ろしていた。
「……エリーシャ?」
「だって、私追放されたのよ? 王国の領土には戻れないわ」
「村にいるのはみんな訳ありでごぜえますだ。お役人も滅多に来やしません。おひい様を知る者は誰ひとりいやしませんで、安全に暮らせますでしょう」
「そうなの」
エリーシャは改めて商人に向き直り、首を振った。
「……でも行かないわ。私ハンナの家族だもの。
ハンナが森で暮らすなら、私も森で暮らす。
もしハンナが村で暮らしたいなら、私もそうするけど」
どうかしら、と尋ねようとして、エリーシャは言葉を詰まらせた。
見上げたハンナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。一つ二つとこぼれた涙は見る間に数を増し、止まることなく雨のように流れた。
「ハンナ、どうしたの? 私、嫌なこと言った?」
黙ったままハンナは首を振る。その勢いに、若草色の瞳から落ちた涙が四方に散った。
「ハンナ……」
エリーシャは年上の女性がここまで泣くのを見たことが無かった。人前で激しい感情を見せるのはみっともないとされていたからだ。怒りも悲しみも、人に見せるのは最小限に。気分を害したのであれば言葉で説明するべきだ。「大人」とはそういうものだとエリーシャは躾けられた。
理由も話さずただ涙を流すハンナを前に、エリーシャはどうして良いのかわからない。
どうしたら良いのだろう。どう声をかけたら良いのか。どう接してやれば良いのか。考えて、考えた末、エリーシャはハンナをそっと抱きしめた。
最後に声を上げて泣いた幼い頃、乳母にそうされたのを思い出したのだ。どうして泣いたのかは思い出せない。ただ乳母の胸に顔を埋め、気が済むまでわんわん泣いてスッキリしたことは覚えている。
エリーシャはハンナよりも背が低い。慰めようとしたエリーシャの方がハンナの胸に顔を押し付ける格好になってしまう。
それでもハンナはエリーシャを抱きしめ返した。エリーシャの肩に額を寄せ、しゃくり上げている。エリーシャはその背中をさすってやった。
大きくて逞しい背中は小さく震えていた。
「……狼の女王様が身罷られて三年でしたかね」
独り言のように商人は言った。
「孤独は毒ですだ。数滴ならば薬にもなりましょうが、過ぎればどんな巨漢も倒れる猛毒たり得ます。
人は群れで暮らしとります。群れで暮らす生き物は一匹では弱るものですだ。
兎のおひい様。ゆめゆめお忘れになりませぬよう、お願い致します」
ハンナは集めた毛皮と引き換えに新しいエリーシャの服を買い求めていた。
「それ一組だけだと、濡れたり汚れたりしたら困るでしょ?」
まだ潤んだままの赤い瞳で照れたようにハンナは笑った。ハンナはエリーシャの着替えのために狩りをして、一生懸命に毛皮を作っていたのだ。あれだけ肉を保存していたのは毛皮のおまけだ。
エリーシャは胸の辺りがくすぐったくなるのを感じた。
「これはお返ししますだ」
商人が差し出したのは、破れたエリーシャの服だった。この服の大きさに合わせて新しい服を見繕っていたのだろう。
破れた部分を縫い合わせ、穴の空いた部分には飾りや当て布をすればまだ着られそうな服。でもエリーシャには必要のないものだ。
「ハンナ。この服、ハンナはどうしたい?」
「え? エリーシャが決めていいよ。ハンナは着られないし、元々エリーシャのものだし」
エリーシャの考えは既に決まっていた。
「商人さん、この服を買い取っていただけませんか?」
「ええ、ええ。構いませんとも」
商人は恭しくエリーシャから破れた服を受け取った。
「繕えばまだ着られます。良い生地ですから、端切れにしても値がつきますでしょう。
兎のおひい様、この服と引き換えに何をお求めで?」
「ええっと……」
そうすると決めてはいたものの、エリーシャは金銭に疎い。破れた服にどれだけの値がつくのか検討もつかない。そして北端の森という環境で今買うべき物は何であるのかもわからない。
「ハンナ、欲しいものある?」
「ううん。エリーシャの欲しいものを買って」
ハンナは優しく、それでいて強固にエリーシャの背を押した。助けてもらったお礼に、と言えばきっと「家族だから当然のことしたんだよ。お礼はいらない」と答えるだろう。
困り果てるエリーシャを、商人は泰然と待っている。
「ええと……あ」
物で溢れかえった馬車の中。細々とした物が収められた箱にエリーシャは目を留めた。
「これをいただけますか?」
「ええ。よござんすよ」
エリーシャが指したのは小さな瓶だ。片手で包めるほどの小瓶にはコルクで栓がされており、中には淡い色をした粒が入っている。
色をつけただけの砂糖玉だ。エリーシャはそれよりも珍しく、美味しいお菓子を知っている。
その砂糖玉は、幼い頃のエリーシャが泣く度に乳母が与えてくれた思い出の品だ。
『泣き止んだ良い子にはご褒美ですよ。奥さまには秘密ですからね』
という柔らかな囁きが耳の奥に蘇る。彼女は元気にしているだろうか。
「さあ兎のおひい様、これはあなた様のものですだ」
皺だらけだが艶のある指先が、エリーシャの手に小瓶を乗せる。
「これ、なあに?」
「お菓子だよ。甘いの」
ハンナはエリーシャの肩越しに瓶を覗き込んでいる。エリーシャはその場で瓶を開け、中身を一粒摘んでハンナへ差し出した。
「食べてみて」
何の抵抗もなく、ハンナは雛鳥のようにその一粒を口にした。
「ん。……あまい!」
若草色の瞳が見開かれ、ぱっと表情が華やいだ。エリーシャもつられて頬を緩める。
ただ甘いだけで腹も膨れない。同じ値で買うべき物はもっとあったはずだ。
だが今のエリーシャには、これが最善の買い物だと思えた。
「エリーシャ、ごめんね」
「何が?」
「商人さんのこと。ナイショにしてた」
帰り道、エリーシャはハンナと手を繋いで歩いた。犬と子犬はさっさと先に行ってしまった。
足元の悪い獣道をハンナはすいすいと進んでいく。それについて行くと不思議と歩きやすい。
「……ハンナね、エリーシャは帰りたいのかなって。商人さんに連れて行ってって頼むんじゃないかなって。そう思ったら怖くて」
「そうね。帰りたい」
ぎゅ、と強くエリーシャの手が握られる。その手をエリーシャはしっかりと握り返した。
「ハンナと。早くおうちに帰ろ。犬たちもきっと待ちくたびれてるよ」
「もう!」
柳眉を吊り上げハンナはエリーシャを睨んだ。子供のような膨れっ面も一緒であるため、全く怖くはない。
エリーシャは別に怒っていない。ふとイタズラをしてみたくなったのだ。エリーシャは歯を見せて笑った。
「ハンナ、しばらく狩りには行かない?」
「そうだね。お肉はいっぱいあるし、足りない物はもうないと思うし」
「それなら私に斧の投げ方を教えて欲しいの」
「ええ? エリーシャが狩りに行かなくても、ハンナがいるよ」
「もしハンナが怪我をしたり、病気になったりした時に、私が狩りに行ってハンナを助けたいの」
「んん……森、危ないし、斧も難しいよ」
「森の歩き方もハンナが教えて。ハンナは誰に斧を習ったの?」
「おじさまが教えてくれたよ」
「それじゃ、ハンナが私のおじさまになって」
「ハンナ、髭もじゃじゃないよ」
おじさまの姿と自分の姿とを重ねたのだろう。ハンナはひとしきり笑った。子供が跳ね回るような、高く通るひどく楽しげな声だった。
「うん、いいよ。家族だもんね。一緒にがんばろ」
ハンナの若草色の瞳は柔らかく細められ、エリーシャを見下ろしている。慈しみと安堵と、明日への期待と。過酷な環境で生きるために必要であろう感情のほとんどが含まれた視線だ。
エリーシャはしっかりとハンナを見つめ返し、強く頷いた。
森へ来てからというもの、エリーシャは全く守られてばかりだ。森での暮らしの長さには差がある。それが埋められることは無い。きっとこれからも守られることが多いだろう。
それでもエリーシャはハンナを守りたいと思った。
エリーシャのために危険な狩りを繰り返し、エリーシャを失うかもしれないとなれば慣れない嘘もつく。エリーシャがそこにいる、というだけで喜ぶ。
そんな見返りもない愛情は初めてだった。
ハンナの笑顔を絶やしたくない。全てを失ったエリーシャが初めて抱いた願いだった。
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