第3話


 北果ての冬の朝は石と丸太で作られた堅牢な屋内であっても吐く息が白く烟る。

 夜明け前の窓の外は薄明るい。毛布の中で目覚めたエリーシャは一瞬の逡巡の後、えいやと寝台から飛び降りた。薄いシャツ一枚の寝巻きの上に毛皮を羽織り、両腕で自身を抱き締めるようにして暖炉の前へ急ぐ。

 傍らのバケツから火石を一掴み出し、金槌で荒く割る。前夜の燃え残りに構わず放り入れると、見る間に赤く発熱し始めた。それを見てエリーシャは寝台へと駆け戻った。


 火石は王国の重要な産出品だ。国内で消費するだけではなく、国外への輸出も行われている。

 火石は割れると発熱する石だ。割れる前の大きさにより発熱量が変わり、水をかけられても熱は消えない。その性質を利用して、王国では給湯設備や蒸気機関に利用される。火石の熱を鎮めたいのであれば水ではなく砂を掛けなければならない。割れた火石は完全に砂をかぶると鎮火する。

 王国では木を燃やすことは少ない。火石の取れない、取る技術も労働力もない本当に辺境の田舎で使われているくらいだ。それほど王国では火石がよく取れる。火石の取れる鉱山は王国の各地に点在している。尽きることのない大地からの恵みだと思われているが、いくら掘っても火石が取れなくなった山がある、という噂をエリーシャは聞いたことがある。

 ハンナとエリーシャの暮らす北果ての森では、崖下や洞窟で火石が拾える。おそらく火石の鉱脈があるのだろうが、雪深い果ての地に鉱山を拓こうとは誰も思わないだろう。


 エリーシャは室内用の平たい履物を揃えることなく脱ぎ捨て、寝台に潜り込んだ。藁の上に幾重も重ねた毛皮の寝台はエリーシャ自身のぬくもりが僅かに残っていた。冷えたエリーシャの体はその温度をすぐに吸い取ってしまう。

 寒い。エリーシャは頭まで毛布の中に潜り込み、どうにか自分の体温で暖を取ろうと手足を折り畳んだ。

「えりーしゃ?」

 もぞり、と毛布が動き、温もった腕がエリーシャを抱き寄せる。逞しく、しかし肌触りは滑らかな腕は春の日差しのように暖かい。

 かつてのエリーシャであれば、冷えた己の身体に遠慮して身を引いていただろう。今は、遠慮も躊躇もなくその腕の中に収まる。

 雄の鹿だろうが仕留めて見せる剛腕は、力が抜けていると想像したよりずっと柔らかい。頑丈な腕から肩、鎖骨に続く胸はエリーシャが知るどんな物よりも滑らかで温かい。

 それは厚着していようが変わらないが、着古した薄いシャツ一枚の寝巻きだとより一層感じ取れる。抱きしめられるまま頬を埋め、その体温と甘酸っぱい汗の匂いに包まれる。このままゆっくりとどこまでも沈み込んでいけそうな、安心感と多幸感。

「さむかったでしょ? 火、ありがとねぇ」

 ずっしりとした胸の柔らかさと共に、片足どころか両足を夢に突っ込んだままの声音がエリーシャを包んだ。剥き出しの冷えた足に脹脛(ふくらはぎ)が擦り寄せられ、肌で体温を分け与えられる。


 この家に寝台はひとつきりしかない。ハンナがずっと使っていた物だ。ハンナはエリーシャのための寝台を作ろうか、と提案してくれたが、エリーシャは断った。北の果ての森では暑い夜など一日もなく、真夏であろうと夜は冷える。お互いで暖を取るのが一番効率が良いはずだ。

 事実、犬たちはいつだって寄り添いあって眠っている。


 エリーシャが寝坊すればハンナが暖炉に火を入れる。毎朝部屋を暖めるのはエリーシャの仕事と決まっているわけではない。いつ頃からか、エリーシャは自主的にこの役割を自分の物と決めていた。

 それはひとえに、ハンナがどんなにエリーシャの身体が冷えようと邪険にしないからであった。むしろ冷えれば冷えるほど「寒かったねぇ」と労ってくれる。

 だからこそエリーシャは冬の真っ只中でも暖炉へ火を入れられるのだ。


「エリーシャ、ウサギの皮で作りたいものある?」

「うーん……」

 ハンナはエリーシャの髪を撫でながら尋ねた。その声音は先ほどよりも芯がある。二度寝はせずに部屋が温まったら起きるつもりなのだろう。エリーシャはそれを少し惜しく思う。

 とは言えいつまでもハンナの胸に埋まっているわけにもいかない。生きるために、やらねばいけないことは沢山ある。

 エリーシャが狩ったウサギは大きくない。両手分のミトンを作れるか作れないかだろうか。

 初めて自分で捕らえた獲物だ。記念に何か作っておきたい気持ちはある。ただ、エリーシャに今必要な物はない。この森で必要な物はハンナが全て揃えてくれた。それを捨ててまであのウサギの皮を使いたいとは思えなかった。

 ハンナはエリーシャの答えを急かさない。仮にこのままエリーシャが悩み続けても、きっと答えが出るまでウサギの皮を大切に取っておいてくれるだろう。そんな気遣いと優しさは、髪を梳く指先やつむじに落とされるキスから十分に伝わってくる。

 エリーシャの答えは決まった。

「ハンナ、あの皮売ってもいいかな」

「もちろん! エリーシャのものだからね」

 目に見えて雪が降る日が少なくなっていた。降っても体ごと埋まってしまうほどは降らず、太陽が見えている時間も伸びている。

 北の森に、そろそろ行商人が来るはずだ。





 追放刑は地位の剥奪と共に財産の没収も行われる。追放された者は拘束された時の格好で生きねばならない。親族や友人から施しを受けることは可能だが、追放されるほどの重罪人に進んで関わろうとする貴族はまずいない。

 エリーシャも同じだった。父親の死を知った日の普段着のまま拘束され、北の最果てに送られた。そうしてそのまま追放された。


 エリーシャがハンナの家で目覚めた時、着ていたのは見知らぬシャツだった。

「服、汚れてたから変えちゃった」

 シャツについてを尋ねるとハンナはそう答えた。

 監獄に着替えが用意されているはずもなく、追放を言い渡されてからエリーシャはずっと同じ服を着続けていた。最果ての寒さに震えるうちどうでもよくなっていたが、相当に汚れていただろう。

 今エリーシャが着るシャツは、エリーシャの普段着と比べても上等とは言えない生地で作られ、着古されている。だが清潔であるだけで、エリーシャにはありがたかった。

「エリーシャの服ね、洗って干してあるから。乾いたらまた着たらいいよ」

「ありがとう」

 これも使って、とハンナは履きやすそうな平たい履物を寝台の足元に置いてくれた。おそらくは革で作られたそれは、ハンナが手づから作ってくれたのだろうか。

 そんなことをエリーシャが思うと、ハンナの後ろを一匹の子犬が駆けていった。彼か彼女かはエリーシャにはわからないが、その子犬は嬉しそうに何かを咥え、大人の犬たちの一団に加わった。

 犬たちは室内で各々寝そべり、木の棒を齧ったりうたた寝したりしている。おそらく子犬はその真似をしたかったのだろう。どこからか持ち出した靴を齧り出した。

 エリーシャには見覚えのある、控えめなリボン飾りのついた低いヒールの──

「ああっ!?」

 エリーシャの視線に気付き振り向いたハンナは声を上げた。飛び上がる勢いで子犬に手を伸ばす。

 ハンナの勢いに驚いたか、それとも悪いことをしている自覚があったのか。子犬は即座に逃げ出した。短い足に丸い体でコロコロと駆けるが、やはり子犬は子犬だ。すぐハンナに捕らえられた。

「それ、ダメだって言ったじゃない!」

 子犬が咥えていたのは、エリーシャの靴だった。それもやはり追放された時に履いていたもので、普段使いの短いヒールのものだ。歩きやすく気に入ってはいたが、やはりずっと履き続けていたためかなり汚れていた。

 ハンナは靴を離さない子犬を抱えたまま室内を横切り、エリーシャの視界から消えた。音から察するに、エリーシャからは見えない位置に扉があるらしい。

「あーっ!」

 奥の部屋からハンナの悲鳴が響いた。


「ごめんなさい……」

 ハンナはぼろぼろになった靴と服を手に戻ってきた。その足もとでは三匹の子犬が悪びれもせず跳ね回っている。

 ひらひらとした生地は子犬の好奇心を刺激したのだろう。小さな牙の痕は裾や袖に集中し、ハンナが取り返そうとした時に出来たのか、肩のあたりに大きな裂け目が出来ている。靴に至っては靴底が半分以上剥がれてしまっている。

「気に入って、たよね……本当にごめんなさい」

 ハンナはいっそかわいそうになるほど消沈していた。エリーシャよりもエリーシャの服と靴を大切に思っていたようだ。

 エリーシャを助けてくれた勇猛な姿とは真逆。今にも泣き出してしまいそうな表情と、相変わらず呑気に足もとで転げる子犬の姿。どうしてか、エリーシャは声を出して笑ってしまった。16歳の誕生日を迎えたあの日以来、初めての笑いだ。

「エリーシャ?」

「違うの。ごめんなさい。なんだかおかしくって」

 確かにエリーシャはその服と靴を気に入っていた。気に入っていたはずなのに、ハンナの姿を見ていると全てどうでもよく思えてしまった。

 きっと、あの服も靴もこの森で生きるのには必要ないものだ。

「怒ってる?」

「ううん。本当にいいの。どうせいつかはダメになっていたと思うから、それはその子たちにあげる」

 エリーシャは靴を自ら子犬たちへくれてやった。小さな尻尾をちぎれんばかりに振り、子犬は靴に食いついた。

「ごめんね」

「いいの。でも、代わりにこの服をいただいてもいいかしら」

「うん!」

 破れたエリーシャの服の処遇はハンナに任せることにした。


 それからエリーシャはハンナのお下がりのシャツとズボンを着て過ごした。裾も袖もエリーシャには長く、服の中で体が泳ぐようだったが、贅沢は言っていられない。腰は紐で縛り、袖と裾は捲り上げた。

 起き上がっていられるようにはなったものの、北の監獄で落ちた体力はすぐには戻らない。

「森は危険だから」と言うハンナに甘え、エリーシャはしばらく家の中で過ごしていた。

 狩りへ出るハンナに五匹の犬はいつもついて行った。三匹の子犬はエリーシャと家で待った。子犬たちが家の中でイタズラしないように見張り、エリーシャのものだった靴を投げてやり遊ぶ。

 そんな生活が続くうち、雪が降らない日が何日もあった。気がつけば、子犬たちは大人の犬の大きさに近付いていた。


「エリーシャ、これあげる」

 ある夕暮れ、外から帰ってきたハンナがエリーシャへ見せたのはひと揃いの服だった。

 シンプルだが動きやすそうなシャツとズボンにベスト。それからブーツだ。新品ではないようだが、どれも十分綺麗だ。

「着てみて」と急かされるがまま袖を通してみれば大きくも小さくもなく、まるで測ったかのようにエリーシャにぴったりだった。

「あとこれも!」

 最後にハンナがエリーシャに羽織らせたのは毛皮の外套だ。手触りの良い、雪のような白い毛皮には狼のものらしき頭がついている。頭からかぶれば狼人間のような格好になるだろう。──狩りへ行く時のハンナのように。

「これ、ハンナが昔使ってたの。エリーシャにちょうどいいかなって」

「この服もそうなの?」

「え? ……うん! そう!」

 不自然な間があったがハンナは頷いた。なんでも捨てずに取っておいたのを思い出して探してきたのだそうだ。

「ありがとうハンナ」

「いいの!」

 その翌日、エリーシャはハンナに連れられ初めて家の外を散策した。散策には三匹の子犬と五匹の犬もついてきた。

 ハンナの暮らす家は森の中の開けた土地にあり、周囲には崩れかけた家と家であったのだろう残骸があった。

「昔いた人たちのおうちだよ。……エリーシャ、よかったらこっち直して住む?」

 エリーシャは首を横に振った。誰も住んでいない家は外から見ただけでも相当に傷んでおり、修復にはかなりの労力を使いそうだった。今でさえ、食料の確保はハンナに頼りきりなのだ。それ以上を頼むのは気が引けた。

 そして純粋に、エリーシャはハンナとの暮らしを気に入っていた。

「そっか」

 ハンナは目尻を下げはにかんだ。ハンナもまたエリーシャと別々に暮らすことを望んでいないのだとエリーシャは悟った。

 吸い込む空気は冷たいが降り注ぐ陽光は暖かい。若葉もあちらこちらに顔を出し、春が来ているのだと肌で感じられた。


「森は危険だから、エリーシャひとりで行ったらダメだよ」

 ハンナは毎日エリーシャに言った。その度エリーシャは素直に頷いた。

 ハンナはほとんどの日に狩りへ出かけた。ウサギやイタチと言った小さな獣から、時には雄のシカのような大きな獣まで、五匹の犬と共に捕らえて帰った。

 エリーシャは初め、エリーシャの食い扶持が増えたためハンナが毎日狩りへ行っているのだと思っていた。

 どうやら違うようだ、とエリーシャが気づいたのは、ハンナが解体した獣の肉を保存用に加工しているのを見た時だった。天日に干したり、獣の油と混ぜて煮込んだり、さまざまな加工を施された肉は家の地下室に貯蔵された。

 どうやら毎日の食事に困っている様子はない。では春になったばかりだと言うのに、もう次の冬の心配をしているのだろうか。

「今から冬の準備をしているの?」

「う、うん。そうだよ。いっぱいあっても困らないから」

 鍋をかき混ぜながら答えたハンナは、どうしてか明後日の方向を見ていた。

 エリーシャはハンナに手伝いを申し出た。ハンナは喜んでエリーシャに肉の扱いを教えてくれた。

 ハンナが狩り、解体した獣の肉を加工するのはエリーシャの仕事になった。エリーシャは初めて扱うナイフと獣の肉に悪戦苦闘しながら、また干した肉を掠め取ろうとする犬たちを牽制しながら日々を過ごした。


「エリーシャ、少し出かけてくるね」

 残雪もほとんど見かけなくなったある日の朝、ハンナは犬を一匹だけ連れて出かけて行った。ハンナがそれまで作っていた毛皮の全てを持って。

 その日はちょうど前の日に全ての肉を加工し終えていたこともあり、エリーシャは干し場で干し肉を見張る以外の用事が無かった。

 犬たちはそれぞれ好きなように過ごしていた。日当たりの良い草の上で昼寝するもの。取っ組み合って転げ回っているもの。木の棒を齧っているもの。エリーシャをじっと見つめ、干し肉を貰えやしないかと期待するもの。

 エリーシャは遠くで鳴く鳥の声を聞きながら干し場の片隅に座っていた。そうして伸びかけた髪が頬にかかるのをくすぐったく思っていた。このまま伸ばすか、それともハンナに切ってもらおうか。

 王国の貴族は男女の別なく髪を伸ばす。長く美しい髪は、それを維持できる当人の財や階級の高さを示す。長く伸ばした髪は貴人の証だ。

 当然長い髪は贅沢の象徴であり、町民や商人、農民など身分によって髪の長さは厳格に定められている。身分によっては髪を伸ばすことすら罪に問われるくらいだ。

 エリーシャも公爵家の令嬢らしく髪を長く保っていた。それが普通であったが、罪人として髪を切り落とされた今、短い髪があまりにも身軽で驚いていた。

 長い髪は生活に不便だ。お辞儀をすれば顔にかかり、体を洗えば体に張り付く。結い上げればすっきりするが、頭は重くなる。短い髪のなんと動きやすいことか!

 ハンナがその柔らかな髪を短くしているのもあり、エリーシャは自身の短い髪をすっかり気に入っていた。もう少しだけ伸ばして結えるようにするのも良いが、どちらが良いかはハンナの意見も参考にしたい。

「あら?」

 頬にかかる髪を指先で弄び、ふと顔を上げたエリーシャは犬を数えた。

 大人の犬が四匹。ほとんど大人と変わりないが、顔つきがまだあどけない子犬が二匹。

「あれ、……あ」

 エリーシャが立ち上がり見遣った先。見覚えのある巻き尾が森の中に分け入っていく。

「ダメだよ! 戻っておいで」

 声を張るが、その子犬には聞こえていないか、はたまた聞く気がないのか。戻る気配は無い。

 若葉の色は明るいが、森は深い。まだ狩りに行ったことも無い子犬一匹で平気なのだろうか。

 大人の犬たちは子犬の出奔に気付いてはいない様子だ。銘々が好きなように過ごすままだ。

 今ならまだ連れ戻せるかもしれない。エリーシャは意を決し、森へ走った。


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